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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
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290 一国二制度




秀吉が率いる関白軍は防戦一方ではあったが兵数も多くなんとか三日間は踏みとどまり耐え忍んでいた、上杉連合軍、北条家、真壁、に勝家と言う総勢7万8千の兵に東から攻められ西からは那須家の騎馬隊によって矢の蹂躙を受け壊滅する事は目に見えていた、しかし不思議な事に四日目の朝を迎えても攻撃は始まらなかった、一糸乱れずに静かな朝を迎えていた。



「殿下! 何やら様子が変であります、おかしい事になっております、西と東からの攻撃がありませぬ!」



「今の内に陣を固めよ!! 物見を放て!」



攻撃が止んだ理由は帝の命を受けた使者が到着した事で和議についての話し合いを行う為でありこれ以上の戦闘は無用と前夜の内に資晴が北条側にも伝えた事で臨戦態勢は解かぬが攻撃は控える事にしたからであった、帝の使者とは山科言経、正二位の位を持つ山科家13代目当主である。



「殿下!! 錦の御旗が近づいて来ます! 帝の使者が来ます!!!」



「失礼があっては成らぬ、場を清めよ!!」



帝の御旗を掲げての使者が来たという事は勅命の使者であり戦の和睦を命じる治罰綸旨という重き命令であろうと理解した秀吉、和睦に応じなければ帝の命に背いた逆賊の誹りを受ける事になる、それは那須側三家でも同じ事と言えた。



「関白殿!! 麿が此度帝の命を受け御旗を預かり使者となりました、この戦この時を持って止めて頂く! これより和議仲裁を帝の使者である山科言経が行いまする、宜しいかな? 関白殿!!」



「態々の仲介痛み入りまする、帝の命とあらば豊臣朝臣秀吉、帝の忠にてお受けいたします」



「ではこれより関白殿! 和議の話し合われる陣幕を麻呂が建てまする、そこへ使者を遣わし下さい」



山科は那須側と関白側が陣取る中間地点に錦の家紋が描かれた陣幕を張り周囲には介添えの配下を配置し談合を図る事にした。


那須側の使者は芦野忠義、明智十兵衛の二人(半兵衛は話下手という事で外された)、関白側は秀長不在という事もあり石田三成と加藤清正の両名が使者となり双方の意見を述べる形となった。



「先ず両者に申し述べておく、此度は帝の命による和議仲裁であり双方の意見を聞き、麻呂が決済致す、決済の内容に従うよう関白殿下及び那須資晴殿他三家当主の署名を頂く、那須側三家は昨夜の内に麻呂が頂いております、ではここに関白殿下の署名を頂いて来て下され!!」



「判り申した、では暫しお時間を頂く!!」



急ぎ関白の下に戻る三成と清正、秀吉の署名を持参し戻りいよいよ話し合いが開始される事に。



「準備は整いました、では双方和議についての条件を述べて頂く、関白側の両人から意見を述べて頂こう! 次に那須側にてお願いします」



「では某石田三成が先に話します、我ら関白様の願いは日ノ本全てが統一された政であり全ての家が関白様の下知に従う事を願っての戦でありました、それに抗う三家は不届きであり致し方なく戦に及びました、この事をどうか三家の方々は肝に銘じ反省をして頂きたい、関白様の願いはただ一つであります、下知に従うであります」



石田三成の物言いはやはり上からの物言いであり戦の現状を無視した発言であった、関白の下知に従う政とは単に命に逆らわず言う事を聞けという脅しと言えた。



「加藤殿は他にありますか?」



「某、拙者には三成殿が申し述べた他にはありませぬが、武人として一言、此度の戦は敵ながら見事と言えます、那須家の弓に惚れました、あれ程強き弓は見事と言えます、敵として対峙致しましたが此れよりは共に手を取り願うばかりです!」



三成とは違い戦場で戦う武人としての誇りある意見を申した加藤清正、苦々しい顔付の三成を横目に堂々たる話であった、それを聞き芦野忠義が那須側の意見を申し述べた。



「先ずは加藤殿!! 戦についてお褒め頂き感服致しました、関白側にも紛れもなく武人がいると安堵致しました、では三家側の意見を申す、先程関白の政に下知に従う事が日ノ本のためと言う趣旨を話されましたが、此度の戦はどうでありましたでしょうか? 20万を優に超える兵達は既に半数以下となり多くの者が亡くなりました、即ち関白の下知によって命を亡くしたのであります、関白の下知が如何に間違いであり日ノ本の為になっておらぬという証左であります、我ら三家も日ノ本の安寧は願っております、先ずはこの事を豊臣朝臣と名乗るのであればこの責をどう取るのかお聞きしたいものである!!」



「拙者明智十兵衛からも一言物申す!! 我ら三家及び東国の家は帝の臣下であります、此度の戦は帝の命によらず行われた関白の命によって行われた戦であります、関白とは公家職であり帝を支える重き職であります、これを機に日ノ本の政から離れ我ら三家にお任せ願いたい!!」



双方が意見を述べた事で責を切ったように三成の暴言が始まった、特に十兵衛が話した事がきっかけとなり天下人を敬う事もせずに不敬を働く三家は重罪人であり改易すべき大罪の者達である等々怒気を撒き散らし場を乱していた、関白を否定されたという事は三成も否定されたと判断し珍しく激情の吐露を行い帝の命による仲裁の場を乱す事になってしまった。



「ここは帝の命によって設けられた神聖なる場である、石田殿が罵詈雑言を述べる場ではありません、麻呂の判断にて石田三成に命ずる!! その方この場に相応しからず、この場から立ち去るが良い!! 加藤殿! 石田殿を戻されよ!!」



清正も激しく罵詈雑言を言い放つ三成に驚き顔色を変えていた、ここは素直に三成を戻すことにした、三成が関白の下に戻り正気を失い呆然しており話の内容を清正から聞き、関白も正気を失う事に。



「和議仲裁の場で罵詈雑言などもっての外じゃ! 不利になるでは無いか、利じゃ、利家は行けるか傷の様子はどうじゃ!!」



「前田様は矢傷により意識朦朧の重症となっております、使者には出来ませぬ!!」



「・・・そうじゃ!! 宇喜多秀家がおった、儂の養子となった秀家がおった、あ奴は無骨ではあるが聡い、儂の立場も充分理解している、石高も充分ある家柄じゃ、秀家を三成の代わりと致せ! 清正頼むぞ!! 」



「判り申した、宇喜多殿と使命を果たします」



宇喜多秀家は父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多家最後の当主である、豊臣政権下五大老の一人、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用され関ヶ原の戦いで西軍について敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。


関ケ原合戦において最後まで裏切らずに石田方を支えた武将でありその人望は徳川勢の多くの武将達にも認められた将と言えた、敗戦後宇喜多家は改易となるが島津忠恒ならびに縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉され、慶長11年(1606年)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった、その後元和2年(1616年)に秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まったとも伝わる。



── 軍師玲子の助言 ──



軍師玲子は帝による和議仲裁が話し合われる際に三家及び東国は秀吉から離れた政を認めさせる事が今後降りかかる災いを回避する方法だと結論を出していた、朝廷には臣下として従い秀吉の命には従わないという自治権を持った一国二制度が一番最適だと考えていた、今後予想される朝鮮出兵という悪害を回避するには秀吉と戦える態勢は維持しなければならずそれが西国おも救う事に繋がると結論付けた。



「玲子さんの言われている一国二制度にする事で余計に角が立ち争いを産む事に繋がらないか心配ですが、その辺りは大丈夫でしょうか、それともう一つ史実で最大の山場となる関ヶ原合戦はこれまでの現象から見て必ずあると思います、一国二制度が認められた場合既にその関ケ原の構図が出来上がるかと思います、西と東での大戦もあるかと、その辺りも心配です」



「では洋一さん、先ず一国二制度で国の運営をしている国は現代では普通にあるよね、身近な例ではアメリカもそうだし各州に自治権を持たせ独自の州を運営する法律まであってアメリカ人はそれを受け入れているよね、大きい領土を持って色んな民族がいる以上それが正しいと思うよ、では日本の戦国期はどうなのか? 戦国期も日本には64ヶ国という国々から成り立って日ノ本となっているの、民族としては単一に近いと思うけど、64ヶ国が天下人が現れるまでは独自に領地を運営していたのよ!!」



「領地の大きさは大小違いはありますが、今川とか武田とかも独自の分国法や法度や式目を作って運営していましたね、その形にするという事ですか?」



「洋一さん、東国と言っても三家や上杉家に臣従はしていない家もあるよね、例えば最上、南部、伊達はまだ正式に臣従はしてないよね、資晴もそれは認めてあげている、だから東国の中では既に二制度という仕組みが確立していると言えるの、西側は秀吉の圧に屈服して従っているから今更変更は出来ないし、何しろ小田原成敗前の状態を公然と認めさせる事が肝要なの、関ヶ原が控えている事は資晴も充分理解しているから、和議が成立すればそれに備えた動きが出来るからそれほど心配は無いと思うよ!!」



「成程、歴史を知っている資晴は一歩も二歩も先に手を打てる状態ですね、少し心配なのが歴史が早く動いている様に感じます」



「歴史が早く動くと言う事はそれだけ災いを回避しているからと考えた方がいいかも、本来の小田原成敗では多くの家が改易となって浪人が急激に増えた事で治安も悪くなるし、最終的には大阪冬の陣、夏の陣で浪人達がお家再興の望みをかけて大阪に集まるから、今回は改易する家が無い状態だからひょっとしたら大阪冬の陣、夏の陣は回避出来るかも知れないよ!!」



「それはそうですね、浪人が生まれなければ回避出来るかも知れませんね!!」




── 一国二制度 ──




関白側の使者が三成から宇喜田秀家となり和議仲裁の話が進行していく事に、この中で話し合われた内容は以下の通りとなった。


1、戦前の東国の状態を認める事。


2、東国の政には関白も手出し無用、東国は帝の臣下であり運上金として年5千貫《5億円》を納める。


3、日ノ本全体に及ぶ事柄については東国にも話を通し協力するか否かを判断出来るものとする。


4、交易についてはこれまで通り認める事。


5、蝦夷と琉球は三家の支配地として認める事。



その他細かい捕虜の交換や押収した武具について和議条約が整う事になった、最後は秀吉と三家の当主が署名した約定を急ぎ帝に届け後陽成天皇の決済を受け正式に和議が整った。


秀吉は帝の仲裁であり戦があまりにも不利な状態であった事から苦虫を嚙み潰したような顔付きではあったが渋々山科の前で署名を行い帰路する事になった、秀長の状態は今しばらく北条家で介抱してから黒田と共に返還する事になった。


交わした約定には一国二制度という文言は無いが実質には東国の事は東国で政を行う事を認めさせたと言える、それと蝦夷と琉球を三家の支配地として公認させた事は数百年先に渡っての功と言える、この戦で関白側が得た内容は西国の多くの者を亡くし失ったという事実だけであった。


この敗北により秀吉は那須資晴に怨念とも言うべき恨みを抱き続ける事になる、その恨みは三成にも受け継がれる事に。


この約定が結ばれた事で東国は独自に公然と歩み始める、現代の一国二制度の始まりと言える。



小田原成敗をどの様に終えるかを考えた場合に戦後の政を考慮して一国二制度という仕組みに仕上げました、このケースであればまだ物語は続けて最後まで行けるかと小さい脳ミソでの結論でした。

次章「戦後処理」になります。

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― 新着の感想 ―
[一言] 権力の魔力に飲み込まれ自制及び自省できない男・秀吉 それにただ従う忠犬(忠臣ではない)三成 実に危険な組合せ
[一言] 秀吉の1番致命的な事は「産まれ」だからねぇ〜、武士階級なら「家」を残し「名」を重んじるのが叩き込まれるから一族が存続しやすいが百姓産まれだと明日を生きるのが難しい農民は「家」より「個」を重要…
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