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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
266/331

266 藤原秀吉




「・・・・洋一さん!? 洋一さん相談があるの!?」



「どうしました?」



「今回の賤ヶ岳の戦いは史実と同じ結果なんだけど秀吉が天下人になるのが恐らく早まると思うの、そうなると小田原成敗と呼ばれる秀吉と三家の戦いが史実より早くなって合戦になると思うから意見を聞きたいし、早めに資晴に伝える方が良いと思って!」



「賤ヶ岳の戦いが史実と同じであれば他の事も似た経過を辿るのでは?」



「それが賤ヶ岳の戦いも史実より早く合戦が終わっている事で間もなく秀吉は大胆にも大阪城築城を開始するだろうし征夷大将軍になろうとして色々と画策も始まるよ!」



「ちょっと待って史実だと信雄と家康が連合して小牧・長久手の戦いがありましたがこの戦いが無いという事で時間が早まり征夷大将軍になろうとする期間も史実より速いって事ですか?」



「ごめんね、相変わらず説明が下手で! 史実であった小牧・長久手の戦いと家康と秀吉の妹との結婚も無いだろうし、そうなると今、戦を仕掛けている大名は島津だけだから九州の役と呼ばれる九州に侵攻し、島津軍を降伏させる戦いが本来だと1587年なんだけど私の計算だと約2年程早く起きて小田原成敗が1590年の筈だったのが色々と響いて1587頃には小田原成敗に向けての戦準備が始まると思うの!!」



「何となく理解出来ました、秀吉に抗う勢力に家康もいない事だから島津への侵攻が早まる結果になってその影響が小田原成敗に繋がる訳ですね!! しかし三家は信長とは戦を回避出来ましたが秀吉とはやはり無理なんでしょうか?」



「回避は絶対に無理よ!! 那須家は資晴が5才の時に時に洋一さんと繋がった経緯を考えて、那須家滅亡を回避する為に460年という時空を超えて当時の正太郎と繋がったの! 繋がった理由の全てはこの小田原成敗という戦を完全勝利するしか無いの! 那須家に取って大一番の戦よ! その戦を勝ち上がらずに家の存続はありえないから必ず小田原成敗は事変としては決定事項よ! 三家の命運が懸かる大戦だからこそ絶対に起こるよ!」



玲子の予想は歴史が早まるであろうと考えていた、その結果史実で行われた那須家、北条家、小田家の改易という最悪の事態を迎える小田原成敗がこの歴史では2~3年早まるとの警告を洋一から那須資晴に伝える事にした、それにより仮に2~3年早まるとの予想が外れ当てはまらなくてもそれはそれで何も問題ない事であり備える事が最善との判断で動き出す三家!




「玲子さんが最初に言っていた秀吉が征夷大将軍に成ろうとして画策する話だけど結局出自の関係で関白になるかとその件は関白で間違いないですよね?」



「えーと秀吉は今は年1583年で起きた賤ヶ岳の戦いで勝利した事で実質天下人になったと考えて大阪城を築城始めるの、きっと今頃は城の縄張りも初めて築城準備に入っているよ! そして次は征夷大将軍になろうとして画策を行うけど失敗するの、洋一さんの言う通り出自が自分でも公言していた百姓であり源氏でも無い為にそれが原因でどうしても無理だったの、地位を得られない秀吉はこの頃から徐々に性格が変化して最後には恐ろしい恐怖政治を始めるの、元々天下人になるには相応しくなかったと言えると私は考えているの、本能寺の変から僅か2年程で関白になるから自分の権力と地位を高める事に全ての力を注力してその先の天下の政を見据えての具体像が無かったから強権政治という力での支配に変化してしまうの!!」



「信長には天下の政という社会の仕組等の政策は見えていたんですか?」



「信長には見えていたと思うよ、意外と思うけど勤勉家だし何より宣教師から西洋での社会の仕組みを一番学んでいたのが信長、朝廷と武家政治による二重構造に問題があると理解していたし、この数年間は朝廷の権威である官位の辞退や納得出来ない事には銭による支援も拒否するなど意思を明確にしていた訳だし、その結果朝廷も信長を用心する事になったけどしっかりと天下の政をどうして行くかという具体像があった筈、そこが秀吉とは大違い!!」





── 藤原秀吉 ──




柴田勝家に勝利した秀吉は天下人になる為にその象徴となる大阪城の築城を命じる一方で天下人に相応しい地位を得る為に公家を利用する事にした、その公家とは近衛家を都合の良い様に取り込む計を図った。


変が起きた際に織田信孝は本能寺に隣接する近衛家の館の屋根に上り本能寺に向け鉄砲と火矢を放ち信長を護る配下を退けていた、公家の頂点に立つ近衛家がそれを見て見ぬ振りをして上様であった信長様に攻撃を許した行為は変に加担したと同等であり重大な責任があるとの厳しい姿勢を朝廷側に示した事で近衛前久は京を追われ追放の身となり近衛家は改易という厳しい処断が下されそうになっていた。


これも全て黒田官兵衛と図った計略の一つであり、改易を回避する策を態と用意した上での誘い水の計であった、公家とは家があってこそ支配者であり家が無くなれば全てを失い路頭に迷う事になる、その寸前に救いの手を差し伸べ近衛家を利用しようと図った秀吉、全ては確固たる地位を得る為であった。


秀吉も当初は征夷大将軍の地位を目指していたが自ら百姓の出自である事を公言しておりそれが周知されており源氏の血筋とは関係ない事を長年の間公になっていた事が足枷となり征夷大将軍の地位を得る事は無理と判断した、そこへ黒田官兵衛の謀として征夷大将軍の地位よりも上の位となる関白を目指す事を進言され、より地位が高い関白を得る為に近衛家を利用したのである。


関白とは何か? 天皇を補佐し政務を行う官職、百官の上に立つ公家の支配者とも言うべき地位の者であり征夷大将軍はその下の地位の官職と言える、関白になるという事は信長を超えた証でもあり出世欲の強い秀吉にとっては魅力ある地位であり欲望の頂点に相応しい事と言えよう、その地位を得る為に公家と言う仕組みを悪用したのが秀吉と言える。




「如何でありましょうか? 殿のご希望に見合う会談となりましたでしょうか?」



「勿論よ! 落ち目の近衛家に救いの手を差し伸べ話したところ床に額を付け懇願されたは、これで朝廷は儂の意のままになったという事じゃ! 藤原家の血筋である近衛家、他に鷹司、九条、二条、一条の五摂家にしか関白になる資格が無いのじゃ! その頂点である近衛の家に猶子となる事に決まったぞえ、織田家の養子は返上しこれよりは名を『藤原秀吉ふじわらのひでよし』と名乗る事になる、笑いが止まらぬ! これで儂は関白であるぞ!! 上様である信長様もきっと喜んでおいでであろう!!」



「如何にも如何にもであります、育てた弟子が師を乗越えて大きく羽ばたくとなれば師の眼鏡は正しかったと言う証左であります、殿は間違いなく天下人であらせられますぞ!! 某も誠に嬉しゅう御座います! おめでとうございます!」



「うむ、慶事の良い日に近衛家に養子となる、その後は朝廷を動かし関白の宣旨を頂ければ上様も成し得なかった天下人である、日ノ本全てが儂の意によって従う事になる!!」



結果的に秀吉の思惑どうりなるがこの藤原という性が問題となり近衛に一旦養子となり藤原秀吉となるが、新たに帝より五摂家以外の新しい摂家として『豊臣』という性が贈られ秀吉の名は『豊臣朝臣秀吉とよとみあそんひでよし』という名に変更され朝廷に仕える帝の臣下であるという名になった。



※史実としてこの新しい摂家として作られた豊臣家ですが本来であれば関白職は五摂家と豊臣家を合わせた六摂家になったと理解出来るのですが史実では豊臣家は徳川家康が征夷大将軍になった後も公家では無く武家として残ろうとします、公家になる道も家康から用意された様ですが従わず豊臣家は滅亡の道を歩いて行く事になります、豊臣家が公家と言う道を歩めば戦も回避できたので無いでしょうか。


尚、大河ドラマではこの藤原秀吉という名前はほぼ紹介されません、木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉という順で知られていると思います、実際はこの藤原秀吉という名前が出来た事で豊臣に結び付きます。




秀吉の名前が藤原性であった事って知られざる秘話なのかな?

微妙ですね。次章「秀吉と三家」になります。

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