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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
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263 秀吉の台頭

 




「使者殿お役目ご苦労である、処でこの文に書かれている内容を使者殿は知っておりますか?」



「申し訳ありません、文の中身は知りませぬ、申し付けられました事は必ず那須資晴様にお届けする様にと仰せつかりました」



「判り申した、中身を知った上で文を渡したのであれば使者殿を不敬の罪にて捕えねばとそれゆえに確認致しました、知らずのお役目であれば何も問いますまい!」



「使者殿も他家に遣わされるお役目であれば戦場では時には文を渡した相手側に殺されるなどの覚悟が必要の役目であります、ここに書かれている内容は不遜極まる事が書かれております、御身の為に中身を伝えますがここには信雄殿が私に軍勢を率いて参集するようにと命じた物言いで書かれており那須家は織田家の家臣として援軍を率いて来る様にと命じた内容となっております、那須家は織田家に臣従した覚えなく、当家は亡くなられた信長殿に天下安寧の政にお味方する約束は致しましたが織田家内紛には一切関知をする義理も無く、この様に失礼千万なる物言いでの要請など論外です、この申し出は手打ちに等しい罪に値すると某は考えまする! この意味使者殿であれば理解出来るでありましょう!! 帰りましたらこの文を読み破り捨てられたと返事をして頂きたい、その上で使者としてのお役目を果たせなかった罪を問われた時は当家を頼りなされ、正直信雄殿が織田家後見人という立場は実に危ういと思われまする、泥船に乗っておっては共に沈みましょう、宜しいかな使者殿!!」




那須資晴に届いた文は羽柴秀吉を織田家の裏切り者であり成敗する必要があるとの理由で織田信雄からの援軍として要請の手紙であったが書かれている文言が命令書であり軍を率いて駆けつけるのが当然の如く書かれた文であった。


清須会議後に喪が明けた秀吉は形式的ではあるが織田有楽斎の養子となり織田一門に加わった、それ以前に秀吉は織田信長の側室との間に出来た四男幼名於次丸(おつぎまる)、後の羽柴秀勝を信長より羽柴家の養子に渡されており既に織田家の縁戚とも言えたが有楽斎の養子となった事で堂々と一門であるという地位を手に入れた事で裏切りと判断された。


信雄が秀吉を裏切り者と判断した理由は世継ぎである三法師の後見人である自分の許可を得ずに勝手な振舞をしたいう理由と清須会議で自分が当主に成る事を一番反対した秀吉、柴田勝家と手を組み難癖を言い懲らしめる予定が逆に秀吉から織田家の後見人であれば政に専念を何故行わないのかと言う苦言に癇癪を起こした信雄は陣触れをする事に、だが味方となる同調する者が少なく最初から劣勢に追い込まれいた、この間清須会議から僅か10ヶ月後の事である。


秀吉は信長の命を実行する際に命じられた以上の手柄を何度も上げており、特に調略はお手の物と言えた、先に軍勢の触れを出した信雄であったがそこは既に調略済みの秀吉、陣触れを出した際に柴田側と見られていた高山右近、中川清秀、筒井順慶、三好康長らが寝返り何時でも行軍できる体制を整えていた、寝返りが出た事で織田信雄は思う様に動けず那須家に援軍要請の命令に近い文が届けられたのが経緯である。



「十兵衛、このような文が他にも来ておる、放置しているが安寧となるにはなかなか難しい物であるな! この様な輩が世を乱しているのであろう、那須家が京に近い家であったら巻き込まれていたであろうな、十兵衛も那須に来た事で運命が大きく開けた事を儂は嬉しい!」



「御屋形様からの誘いがあって運が開けました、洋一様の歴史では某が織田様に変を起こすと聞きました時は腰を抜かしました、本当であれば今頃はさらし首となっておりましょう、信雄殿の文と言い、ここにある足利義昭様からの文では将軍に返り咲く為に那須家に名誉となる行軍を要請するとの文言、両者の共通は権威を手に入れたいと言う欲望だけであります、民の事はどこにも入っておりませぬ、今日の日ノ本の国でどれ程の大名が民の政をしているのか、嘆かわしいと言えます某は御屋形様に拾われて幸せ者であります!」



「此度は織田家の内紛と見るべきであろう、信長殿が討たれた因は多くの者を葬り過ぎたのよ!! その報いが変なのだ、それと忍びからの報告では柴田側に付く者が少ないそうである、既に秀吉殿が先を見越して手を打っているのであろう、今後は織田家と言うより羽柴殿が信長殿に取って代わり中軸として台頭するであろう、我らが対するは羽柴秀吉殿であろう!!」



「それと十兵衛一つ用事を頼みたい小田原に向かって仔細を確かめて欲しいのじゃ!」



「判り申した、あの事でありますな!」



「うむ、氏直殿より文で知らせは届いておるがあの者達をどうするか手に余っている様である、幻庵様はどこぞの山中に押し込めるよう煩いそうじゃ! 」



「それと背後に公家の近衛が此度の変に大きく関わっていたと言う話である、具体的にどんな事をしていたのかを直接確かめるのだ、織田家を葬り去り騒乱を企てする輩は排除せねばならぬ、何時我らが標的にされるか知れたものではない、何処まで関与していたのかをあの者達から聞き出し確認するのだ!!」



本能寺の変が起きた際に大内裏近くの氏真館から風魔の忍び達に捕縛された今川氏真と元徳川家康の正室であった築山と呪印師の千代女は捉えられ小田原北条家で厳重に監視されていた。


本能寺の変が起こるであろう事は北条家、小田家にも充分説明しており京周辺には忍びの者達が多数放たれており氏真館も監視されていた、公家の近衛が変装し出入りする所も確認されており、更には織田信孝も確認された事で変が起きた際には捕縛するとの指示を出していた。


尚、公家の近衛を捕縛するには大物であり周りには常に近衛を護る配下がいる事で捕縛対象から外されていた、捕縛した氏真達を風魔にて尋問した処驚くべき事を聞き出していた。


此度の変を企てた張本人は公家の近衛であり自分は父義元の仇討ちとして加担したのであって何等問題は無く大いに褒められる事であると、築山も今川家を滅亡に追いやった憎き織田信長は死ぬのが当然であり自分が不幸になった仕返しをするのは主家への報恩であると強烈な主張を両者は延べており埒も無い事から箱根山中の風魔の忍び館に押し込められていた。



「しかし御屋形様 幻庵様からの話では公家の近衛が背後に居るとの事でありますが、三家で捕縛するにはちと難しかと思われます、如何にすれば宜しいかと?」



「相手は元関白であり官位では我らの上の上それまた上の天上人に近い位と言えよう、捕縛などすれば国中が大騒ぎとなる、此度は織田家の下剋上と言う騒動である、背後に近衛がいた事を突きつめその内容を羽柴殿に伝えれば良いと思う、織田家家中の中で信長殿を一番慕っていた羽柴殿である、近衛の事を伝えれば後は向こうで手を打つであろう、さすれば三家には良い印象だけが残るであろう、それと氏真達の処遇は北条家でも困っているようじゃ、北条家には今川家に仕えていた者達も多くおり氏真を捕縛していた事が露見された場合は家臣団にひびが入る、那須か小田家にて引き取るしかあるまい、その辺りも話して来るが良い!」



「判り申した、では準備整い次第行って参ります!」



本能寺の変後に織田家は史実と同じく柴田勝家派と羽柴秀吉派の二派による権力争いへと突き進み戦は避けられない状態となった、兵力はほぼ互角と言えるが時間が経つにつれ柴田派から羽柴派に寝返る国人領主が出始める、それに追い打ちをかけるように織田信雄による高圧的な振舞で信頼していた家中の者まで背を向け始めてしまった、時間の経過は状況の悪化と判断した柴田勝家は陣触れを出し戦準備に入る事に、史実で言う処の『賤ヶ岳の戦い』が開始される事になった。


天正11年《1583年》4月、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の琵琶湖最北側賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦い、この戦いは織田勢力を二分する激しいものとなり、これに勝利した秀吉は亡き織田信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩を手中にした合戦と言える。


前年の6月2日に本能寺の変にて信長が死去してから僅か10ヶ月後に戦が始まる『賤ヶ岳の戦い』何故この様に戦国最大の大家である織田家が分裂し崩れたのか? 歴史家の多くの見解は織田家は親族衆の力が弱く急激に家が大きく成った事と信長一人による独裁体制が悪影響したと、要は家は大きく成るも中身はそれに追いつけなかったと言える。




── 『賤ヶ岳の戦い』 ──




4月に入り秀吉は挙兵し信雄の居城と支配地伊勢に向けて行軍を開始した、別動隊として清須会議の際に勝家に譲渡した長浜城へも軍勢を向けた、長浜城には柴田勝家の養子となっていた柴田勝豊が城主となっていたが勝家との関係は悪化していた時期であり別動隊の軍勢が城攻めを開始する前に降伏の勧告を行いあっさりと降伏してしまう。


長浜城を譲渡したのは秀吉の一計であり取り返す見込みがある事で祝儀と称して割譲していただけであり城の構造を誰よりも知る秀吉に逆らわずに開城した柴田勝豊の判断も無理からぬと言えた、残るは岐阜と伊勢に向かえば同じ様な状況を目論見進軍する羽柴軍、本当の敵勢は柴田勝家である。


結局は岐阜も伊勢も進軍しただけで信雄は降伏する、信雄の敗因は信望無く国人領主達から見放されており援軍要請を行っても離反者が続出し戦にもならなかった、一人だけが大騒ぎしている見苦しい結果に終わった、人とは日頃の振舞にて候とはこの事である。


雪解けと同時に北陸から進軍する柴田軍、勝家の作戦は琵琶湖の北側に広がる賤ヶ岳を利用し鶴翼の陣形と言えた、これは天然の要塞を模した大胆な陣形であり標高421m~380mの峰々の上に軍勢を整え羽柴軍を迎え撃つには最適な陣形と言えた、相手が秀吉である以上長期戦を覚悟しての勝家が考え出した最善の策とも言えたがその先の見通しは出来ていなかった。




「見事な陣形で我らを迎え撃つ気でおりますな、我らも幾つかの陣を構築しておりますが、対峙しているだけでは埒があきませぬ、如何致しますか?」



「向こうは3万こちらは5万ぞ、5万の軍勢が留まっておれば敵は勝気になりこちらは手立て無しと見られようぞ、それでは士気に関わる士気弱まれば隙が生じ劣勢となるであろう、そこでじゃ官兵衛よ敵を誘う良い方法を考えよ、鶴翼の陣形が崩れるような誘い水を考えよ!!」



「判り申した、あの鶴翼の陣形から兵が飛び出し誘いに導く訳でありますな、そこを狙うという訳でありますな殿!」



「そうじゃ、向こうは山の上、こちらは下から攻めるとなれば如何に兵が多くとも至難である、勝家もよう考えた、だが勝家は勝ち筋を見つけておらぬ、あの陣形は堅牢なれど防戦の構えじゃ、一角が崩れれば終わりであろう、ゆえに一角を崩す策を考えれば良いのだ、官兵衛! 策を見つけるのだ!!」




この戦で生涯の中で一番悩んだ者がいる『前田利家』その人である誰もが知る槍の又左と異名される戦国期後半の中で準主役として登場する後の大大名である。


前田利家は柴田勝家とは幼少時から見知った間であり年の差は17才、日頃から柴田勝家を『おやじ様』と呼び勝家も利家を時には小僧呼ばわりから今では又左と呼び合う程親しい関係でありこの時は勝家の与力として行軍を共にしていた。


一方利家と秀吉の関係も足軽時代から知己の間がらであり小さい家の頃から共に長屋暮しの貧困時代を仲良く過ごしていた、共に励まし合い家と家の親しい両家と言えた、それが今敵味方に分かれて対峙しての戦に発展する中苦しく胸が避ける心境での勝家に従軍しての参戦であった。


資料的には尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男、小姓として14才で織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため『槍の又左』の異名を持つ、その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名へ、この戦の後に秀吉に臣従し豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人)に、秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死してしまう。


加賀100万石と言えば前田利家、この男の動きにも注目したい所である。


決着は如何に!!




観光で名古屋市に行った時に歴史好きには名古屋って凄いなと溜息が出る位にそこら中に戦国時代に活躍した武将に関わる名所が徒歩圏で散在しておりいい所だなと、が、しかし夏はとんでもなく熱い都市だとの印象があります、名古屋名物の一つ喫茶店で朝のモーニング時間にコーヒーを頼むと勝手にサラダとパンが、ゆで卵付きで出て来ます。

次章「罠」になります。

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