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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
259/331

259 大返し

 




織田信孝による本能寺の変が起こり自分を見出し大出世させてくれた大恩人の信長が亡くなった事で大いに動揺し混乱する秀吉、側に控えている黒田官兵衛は急ぎ毛利との戦にけじめを付け京に戻る事が今後の織田家中枢での足場固めには絶対に必要と一瞬で判断していた。


此度の変は子が親を喰らうお家騒動であり戦国期の後継者争いでも多く見られる下剋上である、信孝の文に書かれた内容が正しいとされれば三男である信孝にも当主に付く芽が残されている、筋目から言えば次男信雄となる所であろうがそれには信孝が反目すると予想された、両者の関係は最悪でありどちらを担ぐにしても険難な道となろう、その采配を手中にするべく急ぎ戻らねばと官兵衛は判断した。



「待っておったぞ安国寺殿、いよいよ織田本家が本軍を引いて毛利成敗に出陣が本決まりとなった、そこで殿である羽柴様より慈悲として最後の落としどころを伝え毛利と城中の者達を生かす案を苦衷された案を伝える事とする、良いか安国寺殿この案は殿である羽柴様からの慈悲の案であり織田様へなんとか取り入り呑み込んで頂けるであろう最後の案となる、城中の者達が死者の腐肉まで漁り始めたと聞きこれでは如何にも哀れであり見捨て置けぬ、毛利にも臣従の意思ありとの判断から慈悲に溢れた案である心して聞くが良い、良いな!!」



「・・・その話は本当で御座るな、割譲する国はそれだけで御座るな、宗治殿の腹にて全て城中の者も助かるので御座るな、忝い、急ぎ戻りこの安国寺が必ず纏めましょう、羽柴殿忝くこの御恩忘れませぬ!」



「うむ、何度も降伏を呼びかけたが一切応じぬ宗治も見事な武士である、城に残る者達の助命が叶うなら本望であろう、殿である羽柴様はそこまで考えての計らいである、忠義には忠義にてお応えする織田家一の武将ぞ、毛利にもその事を伝えよ、毛利も今後は羽柴様を頼られよ決して悪いようには致さぬ、むしろこれにて戦国を行き抜き毛利の繁栄も栄えるであろう、急ぎ戻り和議を纏めるのだ安国寺殿!!!」



史実と同じく羽柴秀吉から示された案とは、備後と出雲を除く備中、美作、伯耆の3か国の割譲と宗治の切腹が和睦条件として提示された、秀吉側は毛利氏に忠義を尽くした宗治の切腹という条件について毛利家は難色を示したが、恵瓊は高松城の城兵の助命を条件に宗治に開城を説き宗治も決断した。


秀吉は宗治に酒肴を贈り小舟で高松城を漕ぎ出した水上で曲舞を舞い納めた後に自刃した『浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して』が辞世であったといわれる。


秀吉は宗治の切腹を見届け『古今武士の明鑑』と賞したという宗治の自刃は6月4日の午前10時頃と推定される、毛利方が本能寺の変報を入手したのは秀吉撤退の日の翌日、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが吉川広家の覚書から確認できる、この時、吉川元春などから秀吉軍を追撃しようという声もあがったが、元春の弟小早川隆景はこれを制し、誓紙を交換している上は和睦を遵守すべきと主張したため、交戦には至らなかった、毛利輝元もこれを了承し、毛利は講和をするほかなかったとされる。




── 洋一と玲子 ──




「玲子さんの予想通り本能寺の変が起こりました、首謀者は織田信孝という驚きの結果でしたがこの後の歴史はどうなって行くのでしょうか? 正直な処私にはこの先が見えません、那須家は大丈夫でしょうか?」



「正直信孝が変を起こすとは私も驚いているよ、明智光秀は那須にいるので他の誰が起こすのか予想出来なかったけど信孝が起こした事で私達の知っている歴史とこの先に起こる歴史は大きく変化はしないと思うの!? 単なる予想なんだけど、何回も説明している歴史の修正力から判断しての予想だけど!」



「えっ、そうとう違う結果になっていませんか? 息子が変を起こしたんですよ? 親殺しですよ!!」



「ダメよ! 洋一さん感情で表面の出来事を判断すると自分の狭い視野で見る事になるから感情は入れちゃダメなの、学者になったつもりで事象の繋がりで紐を解いて行くの、感情は全体像が見えてからで充分、今は起きた事象で私達の知っている歴史と比較して行きましょう、大切な事は歴史通りに本能寺の変が起きた事、私達の歴史では次に起こる事象は山崎の合戦が起こるかどうか、これが大変に重要になるの、この山崎の合戦で史実だと明智と羽柴秀吉が天下分け目の合戦の一つと言われている天王山をどっちの陣営が取るかを巡る戦いがあって、天王山を取った秀吉が戦を有利に進めて勝利する天下取りの第一歩がある訳だけど本当にそれが行われるのか? 行われるなら信孝対秀吉になるけど、両者は複雑な関係だから、私にも予想が出来ないの、山崎の合戦が行われないという予想もありえそうなので、この先の歴史が読めないのよ、ただ結果的には山崎の合戦が行われた結果に近い状態の事が起こるのでは無いかと私の中では判断しているの!」



「感情を抑えて見る様にと言われても・・まあーその通りなんでしょうけど、その山崎の合戦があるか無いかでも結果的に史実と似た現象が起きると言う予想なんですね!!」



「本能寺の変が起きてから私達の知っている歴史での大イベントは次に起こる山崎の合戦、そして織田家の当主を決める清須会議と織田家の重臣達による、まあー簡単に言えば秀吉派と柴田派による主導権争い、秀吉による小田原成敗、朝鮮への侵略、大阪冬の陣、夏の陣という大きいイベントがある訳なんだけどそれらのイベントが史実どう違う形で起こるのか、私が何度も言っている歴史の修正力は中身は違うけど大きい流れは変化していないという事でイベントがこれまで通り起こるであろうと予測しているの、特に今回の本能寺の変はその証拠みたいな現象と言えるは、だから次の山崎の合戦がどんな形で起こるのかが実に興味深いイベントなんだよね!!」



「玲子さんのそのイベントという言い方で説明されるとなんだかなあーという気持ちになりますね、感情的に見ていた自分に疲れますね、それと一つ不思議なんですがそもそもなんで秀吉がトップに成れたのか、柴田以外の他の重臣達はちょっとだらしないと思いますが、史実ではどうしてあのように勝ち上がったのか私には中々理解しずらい処なんですが、玲子さんはどう見ているんですか?」



「あ~あ、洋一さんの印象はそんな感じで秀吉を観ていたのね、私と観る景色が違っていたのかな? どおりで嚙み合わない時があったのか判明したよ、先ず先入観の違いが大きい所かも知れないね、洋一さんは秀吉も武将と思っているかと思うけど、秀吉は武将じゃないよ!!  この時代は足軽であっても代々武士の家であれば立派な支配階級の一員なの、秀吉はあく迄も平民で百姓の家の出自、これはどんなに出世しても武士達から見れば変わらないの! 特に柴田勝家みたいな大物で先祖代々が武士の家の者から見れば秀吉が出世しても百姓上がりと言うレッテルが取れない時代なんだよ、秀吉の発想も武士達が命のやり取りで勝ち上がる発想では無く知略を尽くしての戦果が多いの、この事も昔ながらの武将達には認められない点なんだよ、だけど他の武将が秀吉と同じことをして戦果がある場合は武将が行ったから認められて、百姓上がりの秀吉が行った場合は認めたくないという風潮の時代なんだよ!!」



「なんですかその差別意識は、それでは秀吉が可哀想ですね、頭の固い連中と戦っていた訳ですね!!」



「まあーそれだけ秀吉が秀でた人材だった訳だね、それを見出して採用した信長は偉い人だったと思うよ、秀吉が天下を取る過程で民百姓からの支持は絶大だったから全人口の90%以上は民百姓だからね、それは絶大で圧倒的な支持基盤だからね!! 」



「その支持基盤は理解出来ますがこの後の秀吉はどうして織田家の重臣達の中で勝てたのかそこが良く判らないのです、玲子さん教えて頂けますか?」



「歴史ドラマだと時間の関係でその辺りは省略されているからね、では信長を参考に例を見ると最初に信長は何をしたか? これがヒントかな?」



「え~、最初にって尾張を統一して美濃を取って将軍を担ぎ京に上京した訳ですよね!! その後は本願寺勢力や信長包囲網でしたよね!!」



「そうそう、流れはそれで正解だけど肝心の信長を支えた財力と軍勢はどこから手当したのか、これが重要なの、信長は最初に義昭を担ぎ三好勢力を一掃して京を手中に収め畿内を支配下に、畿内だけで大和国、山城国、河内国、和泉国、摂津国という五つの国を日本の中央を支配下に収め当時日本一の貿易港堺まで手中にして一気に織田軍を支える兵糧と銭という財力を手に入れて天下取りに向かう事が出来たの、秀吉も同じよ、山崎の合戦を経て畿内を手中に収めて天下取りの基盤が出来るの、この辺りの経緯は大河ドラマであまり語られないから見過ごされるけど山崎の合戦で勝利する重要性がここにあるのよ!!」




── 大返し ──




秀吉は和議を纏め備中高松城城主の清水宗治世の見事な切腹を見届け急ぎ帰還する事に、天下取りの第一歩、属に言う中国大返しが始まった、230キロの行程を強行して戻る、歴史に残る行軍での帰還、2万以上の軍勢がマラソンの様に走り抜き戻ったとされる、後世の歴史学者は僅か6日で戻った中国大返しを秀吉だから出来た事でありそれ以外の武将では無しえなかったであろうと評している。


成功のカギは道順であり6日で走破した短期間、備中高松城から京までの道程、中国遠征での籠城戦となった備中高松城では城の周りを堤で囲う水攻めであり落城までの時間を要する戦法の為に秀吉の軍勢は長期に渡り兵糧を万遍なく手当しなくてはならない、その行きのルートである京~茨木~尼崎~神戸~明石~姫路に続く道を通り兵糧が運ばれて来る、その道では何百と言う荷駄隊が行き来している道であり安全なルートを今度は急ぎ戻る事になる、和議が整い清水宗治が切腹するまでの数日間で道中の村々に握り飯の炊出しを大枚の銭を使って食の手当を用意した秀吉、部隊毎に重い装備の兜鎧を預け荷駄隊を先行させ身軽になった足軽達はただひたすらに走り抜いて行く、安全なルートとは言え平坦な道では無いであろう、高低差もある中1日40キロ近い距離を足軽達は走り抜いた、それだけ秀吉軍は鍛え抜かれていたと見ても良いであろう。


当時の大返しの模様はお祭り騒ぎで村人総出で道には秀吉軍に声援する大勢の姿があったとされる、正月恒例の大学駅伝と重なる、民百姓から絶大な人気が支えとなり沿道には握り飯が用意され2万の軍勢が観衆が見守る中走って行く、秀吉は後にこれと同じ様に柴田と戦う際に大返しを行い柴田に勝ち織田家を手中に収める、大返しは秀吉の立派な戦法である。


急ぎ戻る秀吉軍、京を目前に信孝より使者が現れ山崎の手前天王山の丘にて会談を行いたいとの要望が伝えられた、史実では明智軍と羽柴軍の勝利の行方が掛かる天下分け目の天王山での戦、そこにて天下分け目の会談が始まる事に、この会談こそ秀吉の心胆から占める会談となる事に、そこには覚醒した信孝の生き残る戦略がしっかりと描かれており秀吉と合致する恐るべき見事な策が語られた!




歴史が大きく動いてますね、天王山での会談が気になります、それにしても軍師玲子は冷静ですね、歴史に残る出来事をイベントとして捉えていた訳ですね、俯瞰の目、鳥観の目で見ているという事ですね。

次章「天王山」になります。

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