256 本能寺の変・・兄弟
5月22日安土の城を後にし三家の面々はこげの山科家に一泊する事に、同じ頃前日に三家を見送った織田信長は三男信孝に戦準備を整え秀吉の元に援軍として迎えとの命を出した、三家が従うと誓った事で、そろそろ毛利と決着を図り本格的な日ノ本の政を行う準備に着手する事にした。
「信孝よ、その方に中国にいる秀吉の元に手元の兵を引き連れて援軍として行くがよい、お主の手で毛利に止めを刺して来るが良い、最近のお前は成長著しいゆえに花を咲かすが良い、戦準備を行い陣容を知らせよ、儂は本能寺にて待つ!!」
「判りました、では戦準備を整え向かいまする、整い次第触れを出しまする、ご安心下さい!!」
現代の戦争準備も同じであるが誰が何処に向かうのか、戦場の敵となる相手は誰であるのかと言う情報は一切秘匿されトップが下に指示を出すだけであり他の者には情報が漏洩しないように指示を受けた者はその命を厳命として従う、信孝も当然自分以外には相手が誰であり何処に向かうのか等は配下の者には一切説明は行わずに戦準備を行う事に。
「ほうそのような出来事があったのか、あ奴は公家の頂点という立場を利用しこれまでにも多くの若き公家達を締め付け己の権威を見せつけ抑え付けておる、山科家は儂が年齢がかなり上であり幸い儂が今の処那須殿のお陰で長命となっている、あ奴が流浪している時に既に息子に代替わりしておるので近衛も山科家には手を出して来ぬ、山科家に牙を向けたらただではおかぬ、まあー相手にしてもつまらぬ、公家と言う者達は力なき哀れな者達よ、果たして信長は朝廷をどの様に操るのであろうか、それだけが心配じゃ!!」
「山科様御身体健やかにて安堵致しました、我ら三家が目を光らせて視ておりますのでご安心下さい、では我らと明日堺に参りましょう、油屋には伝えております、今井宗久と首を長くして待っている事でしょう、向こうにて茶会を開くとの話です、北条殿は些か作法を心得ておりますが、私は不得手であります、山科殿が参加される事で安心出来ます、恥を欠かなくて済みます、今宵はゆっくりと懇談致しましょう」
山科言継は若い頃より朝廷を支える為に諸国を歩き外交官として働ぎ詰めであった、戦国の中を誰よりも諸大名と渡り合い朝廷を支える賄いを拠出させる為に働き、史実では三年前に亡くなっていた、そこで那須資晴は史実より先に嫡子の言経に代替わりをするように進言し身体を労わるように仕向けていた、山科言継も医道を熟知した者でありその意味を充分に理解しており三家の為にも長命となるよう心掛けていた。
山科言継を戦国期の公家の中では嫌われ者として評価された側面がある、その理由の一つは官位、内蔵頭から正二位・権大納言にまで家格は上がり異例とも言える昇進、近衛の次の位まで駆け上がった事による妬みと言える、銭集めは商人が行う事であり公家の仕事では無いと言う差別意識から来る嫌われ者というレッテルがあったようだ。
他にも自ら染物を行い、薬草を調合し、配下の者や時には村人にも医療を施しており下々の者と公家が交わる事は帝の権威に傷を付けるというこれも差別意識からの嫌悪感があった様である。
医療行為では治療に関する詳細な内容が書かれており日本最古のカルテと称されている、記録や日記なども戦国期の様子が記録されており『言継卿記』は有名であり登場する人物も多岐に渡る武家だけでも1200名を超えているとされる、日記は1527年から1576年の約50年間という長期に渡り記されており朝廷・医薬・音楽・文学・芸能、京都の町衆や武家支配の政治動向、社会的事件まで広範にわたっている 、差別意識を持つ公家仲間から嫌われていたされるが庶民から愛された公家が山科言継、権力に固執した近衛とは一線を画す大人物と言える。
── 兄弟 ──
「お忍びとは言え館に来るのは避けた方が良かったのではありますまいか?」
「手抜かりは無い、それより好機が訪れた、信孝が間もなく中国に遠征する事になった毛利に止めを刺すために羽柴の元に援軍として向かうのじゃ、この機を逃してはならん、あ奴の術は大丈夫であろうな?」
「はい何度も確かめております、好機となれば自ら動くかと思われる、それを信じるしかありませぬ、その為に年数を掛け何度も呪印を施したのです、成功した後は如何なされますのか?」
「案ずるな、儂が後ろ盾となり織田家を支配致す、その時はお主達も裏の者として大役を申し付けよう、織田家に出入りする下女を密かに呪印を施しゆっくりと我らの力を沁み込ませて行くのだ、ここからが本番であるぞ、信孝には邪念となる恨みを極限まで増大させたはこの時の為ぞ、信長さえ排除出来れば後はどうにでもなる、お主達も当面は動いてはならぬぞ、三家の忍び達がそこら中におる、三家が帰郷するまで館から出てはならぬぞ!!」
近衛と氏真一派が傀儡として何度も呪印を施し手駒として狙い育てた者こそ織田信孝であった、兄弟から下賤の母親から生まれた腹違いの弟として忌み嫌われ何度も次男の信雄による罠に嵌められ本願寺との戦いで勝手に包囲網から離れた信雄の罠に嵌り信孝の軍勢が敗れた事で織田軍総崩れ因を作った責任を取らされ見せしめの半殺しとなり顔が変形し片目を潰された織田信孝、その織田信孝こそが明智光秀の代わりとなる本能寺の変、首謀者として育て上げた近衛達である。
その織田信孝とは史実における批評はどうであったのか、織田信長は男子の子供は10人以上いる中で実際の子供として扱っていたのが信孝までの三人である、他の子供は長子《長男》であっても庶流の子信正は養子に出されている、他の子も同じく養子に出しており、嫡子信忠、次男信雄、三男信孝までを信長は子供として遇している、しかし、信孝はその二人より冷遇されている、母の生家は零細な土豪の坂氏でありその因は母親の地位が低い事、信忠と信雄の母親は信長の側室生駒とされており寵愛した側室の子である、一方信孝の母親は資料としても氏名不詳であり『御手付き女中』の子では無いかなど諸説がある、御手付き女中とは身分の軽い女性が城で働く下女達であり城主が手を出して子供が出来た場合に使われる言葉とされる。
御手付きの子供が将軍にまで上り詰めた者がいる、有名な徳川幕府中興の祖とされる八代将軍『徳川吉宗』が御手付きの子供なのだ、母親が湯殿番として勤めており城主の身体を洗う中で御手付きされたのではないかと、手を付けた相手は55万5千石の和歌山藩主、徳川光貞が下女に手を付け生まれた子供が徳川吉宗なのだ、戦国大河ドラマ好きな人は良く知っている事と思われる。
信方の母親も身分の軽い者であった事が予想される、腹違いによる弟の扱いは上下関係が厳しい時代ゆえ兄弟による虐めは当然あり蔑視されて育った、では信孝の武将としての資質はどうであったのか、虐げられて育った事で力を養い武将としては一角の成果を見事成し遂げていたと評される。
ルイス・フロイス『彼は思慮があって、みんなに対して礼義正しく、また、たいへん勇敢である』
柴田退治記『智勇、人に越えたり』川角太閤記「御覚え御利発の有様』と書かれている。
一方信雄に対しての評はフロイス曰く『狂っているのか、あるいは愚鈍なのか』こんな逸話が残っている杉の木を間違って切った家臣を許さずに殺してしまう愚か者であったという、利発の信孝、愚鈍の信雄と揶揄される程優れていたとされる。
史実ではこの本能寺の変が起こる時期に信孝は軍勢を率いている、天正10年《1582年》5月信孝は四国の長宗我部元親討伐の命令を受け信孝の将としての才を認めた上での命令が発せられていた、信孝は、総勢1万4千の大軍を率いて同月末に大坂・堺近辺に着陣し四国に向かう準備となる、その1万4千が史実違い明智不在の織田家で信孝が中国に秀吉の元に向かう事となる、その1万4千が織田信長を呑み込もうとしていた、役者は違うが歴史の流れは同じと言えば同じと読み取れる。
信孝に呪印で刷り込まれた内容は主な内容は二点ある、一つは朝廷を帝を護れという事であり、もう一つは父親である信長に殺される前に先に殺せという刷り込みを命に刻まれてしまう、刷り込みとは本能と同じであり自然とその様な意識が芽生え何かに引き寄せられるが如くその方向に向かってしまい、あたかもその行動は正しい行動であり自我として刷り込身れていた。
── 黒田勘兵衛 ──
「殿 毛利の使者が参ったと安国寺が来たとお聞きしましたが策はありますでしょうか?」
「おう勘兵衛! 策と言ってもあ奴は臣従するから引いて欲しい言うだけぞ、これで三回目ぞ、臣従するのは当たり前である、毛利の連中は見えておらぬのよ、あれでは城の中にいる者達が飢え死にするぞ、我らの責にするつもりぞ、良い方法はあるか?」
「私に良い方法があります、殿は一切話さず目を瞑り別れる最後に安国寺に城中の者達には人柱になって頂くと一言述べて別れて下され、某が安国寺に記別を与え申します!」
「ではその方の知恵で厳しく記別を与えよ!!」
「安国寺殿! 毛利殿の腹は決まっのであるか、此度もいつもの話では有るまいな!?」
「此度は手土産をお付けしております、それにて兵を引き城の者を御救い下され」
「手土産とはどのような話であるか?」
「毛利家これより織田家に臣従する証として毎年一万貫の銭を治めます、質もお出し致しますのでなんとかそれにて手を打って頂きたくまかり越しました」
「う~相変わらず物事が見えておらぬ様でありますな、ではこれから話す事は安国寺殿ゆえにお話致そう、良くお聞きあれ、今の手土産の話は何の効果もあり申さん、顕如に従う前の話であればそれで問題なく済みましたが、今更そのような子供騙しのどうでも良い条件を伝えれば上様はお許しに成らず毛利を取り潰す事になります、今一度申しますが、現実を見なされ遅きに失する事になりますぞ、良いか先頃来た文に寄れば東国の北条家、那須家、小田家の三家が上様の城に招かれ三家が臣従する事になりました、これにて東国全てが織田に靡き《なびき》ました、日ノ本2200万石の内2000万石は織田に従う事になりました、今更毎年一万石の銭で全てを忘れ手を打ちましょうとは片腹痛く、そんな話を上様に伝えれば此方が腹を切る事になります、それともっと大事な話をお伝えしますぞ!!」
「三家を見送りした上様は織田家本軍を率いて間もなくこの地を平らげると決められました、本軍の5万が動けば道中の家々はこぞって兵を集め付き従えこの地に来ます、軍勢は膨れ上がり10万以上の大軍が押し寄せます、我らは今1万5千ですが、10万以上の軍勢に毛利は抗う手立ては無いでありましょう、備中の高松城に籠る者達は人柱になるしかありません、この様な事態にならぬように羽柴様は手を尽くされていたのです、少しはお判りになりましたか?」
「お・・お・・おま・・ち・・下さい、それでは毛利に生き残る術がありませぬ、城の者もそうでありますが、毛利が滅亡の道しか無いのであれば血みどろの戦となります、負けるにしても残るは地獄だけであります、羽柴殿なんとかなんとか毛利が生き残る道は、腹の中を申して下され、このまま滅亡する事には承服出来かねます!!」
「羽柴様からはもう何も言えぬのだ、安土の城を上様が軍を率いて動いてからでは羽柴様にも止める手立てが無いのだ、動く前に明確なる降伏を示す証を伝えて、それでも止まるかどうかである、毛利が生き残る術はこれは儂の個人の考えであるが、毛利11ヶ国の内8ヶ国を上様にお出しお預けしてやっと生き残れるかどうかである、愚図愚図と協議などしている時間は無いのだ、我らも間もなく上様を迎える準備をするゆえ、城の者がどうなろうと既に餓死者で出ている様子、残念であるがこれもしかた無しである、これよりは関知出来なくなる、全て時間稼ぎをしていた毛利の責任である!! 急ぎ急ぎ取り計らうが良かろう!!」
「殿 羽柴様これにてお開きと致しましょう!!」
「あい判った、安国寺殿これまでの誼、毛利が敗れた時は儂を頼るが良い儂はそなたであれば受け入れようぞ!! ではさらばである!!」
黒田勘兵衛が話した内容は決して嘘では無かった軍勢を率いる大将こそ違え動いてしまえば毛利との雌雄を争う他無く軍勢も膨れ上がり安易な内容では和議は結べなくなる、脅しであるが誇張した話でも無いと言えた、的確に現実を突きつけた勘兵衛である。
いよいよですね、動いてます、どうなるのか?
次章「本能寺の変・・理」になります。




