255 信長の計略
織田信長は事前に丹羽から御成り饗応の内容を伝えた際に談合の話し合いの際は上下の区別なく対等の立場で行う様に釘を刺された経緯があり談合を行う場での有利な形で進む計略を謀った。
翌日の歓待である舞と猿楽の鑑賞前に三家に急ぎ安土城大広間に来る様にと、朝廷より三家の当主に使者が来たとの連絡が入り登城する事に、もちろん信長による計略の一環であり公家の近衛を動かし帝より三家の当主に官位が賜れるように手配りをしていた。
武家に取っての官位とは朝廷を支えているという模範の印の一つであり名誉の誉である、官位が上位の者は他家の者であっても礼を持って接するが礼儀であり特別な証と言えた、戦国期では朝廷への功が無くても銭を進上する事で官位申請が行われるようになり、官位の持つ意味合いも薄れていたが朝廷に、帝に忠誠を誓う者にとっては誉そのものであり、その官位を利用した信長。
安土城の大広間には太政大臣の元関白近衞前久が間もなく入室されると話され、信長と控える三家の面々、そこへ近衞前久が現れ拝礼し迎える、官位が低い者にとって太政大臣の位を持つ近衛の威光は殿上人であり、三家の当主との差は歴然としていた。
三名は拝礼した姿勢の状態で近衛が話す内容を聞くしか無かった、此度三家の当主には織田信長殿の推挙により帝より私を遣わし直々に伝える事になったと一方的に強き言葉で話し、恩を売る形で床に額を付けた状態の中、正四位下権中将を北条氏直殿に、同じく正四位下権中将を小田守治殿に、同じく正四位下中納言を那須資晴に頂ける事の内示を帝より賜ったと、三家の面々は帝に今後益々忠誠を誓うが良い等の話を長々と述べ官位の内示を終えた。
一見何事もなく目出度く官位の内示を賜ったように見える場であるが、上座に横には織田信長が座っており、上座中央で内示を通達する近衛、下座に拝礼した状態を解かずに長々と話を続けた、当然の事ではあるが見かたを変えれば広間にいる織田家の家臣及び三家の家臣も、三家はこれにて織田信長の臣下となったと判断されてもおかしくなかった、この演出こそ織田信長の計略であった。
この官位を賜るという説明は事前に受けておらず那須資晴はそこにやや腹黒い計が隠れており、登場したのが近衛であった事に驚きはしたが、洋一から近衛は危険な公家であり要注意するようにと伝えられていた、これは近衛と言う人物を身近で接触する機会が訪れたと、三家がこれより起こるであろう変を予知するにはこの近衛を監視する事で判断できるので無いかと、好機が向こうから来たと信長の計略を利用する事にした。
ひと通り官位通達の内示を終え暫し懇談となり、那須資晴より信長と近衛にこの件について意趣返しとも取れる話を行った。
「近衛様、此度我ら三家に為に御足を運び頂き感謝申し上げ致します、先程織田殿の推挙によって官位を賜れると言われましたが、織田様もお人が悪う御座います、事前に教えて頂ければ驚かずに済みました、今後はあまり驚かさないよう願います」
「ほほう那須殿よ、織田殿の推挙による官位では喜ばれておらぬように聞こえたが聞き間違いであるかな?」
「近衛様そうではありませぬ、官位を賜る事は武家に取って最高なる誉であります、その誉を賜る名誉ある立場であった我ら三家は突然の出来事故驚いた訳であります、本来は最初から最後まで謹んでお受けせねば帝に失礼となります、心穏やかに謹んで内示を賜りとう御座いましたという意味であります!!」
「ふむ~そうであるか、では仮に我が内示を伝えた際に今の話が帝に届き内示取り消しとなった際は如何致す!!」
「それはそれで良いのでは、官位とは朝廷を支えた者への、忠勤を示す役職であります、官位が無ければ忠勤に励めという事であり、官位を賜ればより忠勤を励めという意味であります、戦国の今の世では忠勤せず参内を疎かにしている大名にも銭にて官位を賜っているとお聞きしております、官位とはそのように銭で買う物ではありませぬ、ともあれ私の意見にて内示取り消しがあるのであればそれはそれで忠勤をより励むようにとの帝のありがたいお心と受け取り致します!!」
那須資晴は官位内示をあたかも恩着せがましく恭しく行った信長と近衛に一言釘を刺した、那須資晴の説明を聞き顔色を変える近衛はより厳し声音で返答する事に、所謂脅しである。
「那須資晴よ、そなたの意見を確かに賜った、北条殿、小田殿も今の話を聞いた上で二人の意見はどうであるのか、我に聞かせよ!!」
「では私北条からお応え致します、那須殿のお話いたく感動しお聞きしておりました、確かに官位とは忠勤の証であった、私はこれまでに忠勤をほぼしておりませぬ、前当主である父上にお任せしておりました、那須殿の話を聞き、官位が有る無いに関わらず大いに反省を顧みこれよりは忠勤に励みたいと思いまする!」
「では私小田もお応え致します、その昔、足利義輝様が将軍の時に小田家は那須家と共に朝廷に銭の献上などお運びした際に大内裏内に恐れ多くも三好の残党による野盗襲撃が行われ、那須家前当主那須資胤様と某の父小田氏治にて治安警備を半年以上に渡り行ったとお聞きしております、本来であれば内裏を守護するお立場の職こそ近衛様のお家の名では無かろうかと思われますが、当時の荒れた京では致し方なしと言えるほどの混乱でありました、しかし小田家も那須家も、その後も献上の品をお届けしておりまする、両家は事実として忠勤の志は大いにあり、これよりも官位有る無いに関わらず励みとう御座います!!」
小田守治からの返答には憤りが含まれておりこのままでは本当に官位を返上される恐れが生じると判断し急ぎ場を治めようと信長が口を開いた。
「近衛殿もうよいではありませぬか、済まなかった我は三家の皆に喜んで頂きたく推挙したのじゃ、どうか喜んで収めて頂きたい、それと帝の内示を告げるに最後まで拝礼させたはこちらの手落ちじゃ、気配り出来ずに済まなかった、帝からの内示を頂けた事は武士の誉であり名誉な事である、どうかこの織田の顔を立てて下され!!」
「はっはー、確かに織田殿の好意を受け取り致しました、此度は大変にありがとう御座いました!!」
苦々しく部屋を退出した近衛は明らかに不満な顔となり、あ奴らは不届き者であり、所詮田舎大名であてにならん、奴ら三家にはこれ以上の官位は不要である、いずれ痛い目を恥をかかせてやる、特に那須資晴の奴には痛い目にとほくそ笑む近衛であった、この後の舞と猿楽にも近衛は偉そうに大上段の中央より鑑賞する事に。
史実での御成り饗応では天正10年《1582年》5月の徳川家康の上洛にともない、安土において家康をもてなしたが数々の不手際が起こったことが記録されている、本能寺の変が起こる2週間前の一連の饗応、最頂期の信長がこの2週間後に変により亡くなる事を考えればなんとも言葉を失う出来事である。
饗応での不手際とは舞と能の席で、演ずる梅若大夫の猿楽がひどく、折角設けた舞と能をぶち壊したと、演技をなさないほどだった為、信長が折檻・叱責したとまで記録されている。余談だが嫡子の信忠も能を好み舞を習っていた、その師匠がこの日演じた梅若大夫であった。
史実のでの御成り全体の責任者は明智光秀であったが解任される事に、家康を持て成す饗応の場で料理のさかなが傷んでいて臭気を発していた為、信長が怒って光秀の饗応役を解任したとある、この事を記した文献に『 川角太閤記』がある、江戸時代初期に書かれた、豊臣秀吉に関する逸話をまとめた書籍。 川角三郎右衛門著。 全五巻。 概要 本書は 田中吉政 に仕えた川角三郎右衛門が、秀吉と同時代の当時の武士から聞いた話をまとめた聞書や覚書を元にして書かれたとする。
ここに面白い資料がある、宣教師ルイス・フロイスがこの光秀が解任された事を書いた資料が残っている。
フロイス『日本史』信長は…その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国王(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは秘かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したのかも知れぬし、あるいは[おそらくこの方がより確実だと思われるが]、その過度の利欲と野心が募り、ついにはそれが天下の主になることを彼(光秀)に望ませるまでになったのかもわからない。(ともかく)彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果す適当な時機をひたすら窺っていたのである。
少し変な日本文で訳されているが、フロイスの日本史に書かれた最後の一文は本能寺の変を指している、既にこの時に明智は陰謀を秘めていたと変後に書かれたフロイスの日本史と思われる。
この饗応ではあの信長が態々家康の為に最後の饗応の宴会を行う際に祝いの御膳を自ら運んだとされる貴重な史実がある。
天正10年5月20日、この日の宴会で信長は家康のお膳を自ら運んで据えたとされる、翌21日に家康一行は安土を離れて京・堺に向かう事になっており、20日は安土での最後の饗応という事から信長はこのような歓待の意を示した、最終日の20日に、信長がこうした行動を取った背景には、やはり15日の家康到着から始まった一連の饗応が信長の意に反して不備(猿楽と料理)に終わったことに対する後ろめたさが家康の膳を自ら運び取り繕い家康にこれで収めて欲しいという感情からの行為であったようだ、あの信長自ら膳を運ぶと事はあまり知られていない史実である。
── 別れ ──
織田家が用意した一通り御成り饗応の日程を終え最後の織田家と三家が談合に付いて話し合われる事に、那須資晴が最初に丹羽に要望した対等での形式で上下の立場では無く行う様にと釘を刺した談合の場が持たれる事に。
「織田様お持て成しの数々我ら三家は感服しております、この様に手厚くされるとは思ってもおりませなんだ、我ら三家はある条件のもと織田家に付き従う事を御誓い致そうと考えております、それが此度の恩返しとさせて頂きます!」
「実に忝い、その条件とはどのようなものであろうか?」
「難しい事でありませぬ、毛利が下れば天下は平定されます、その後は日ノ本の国造りとなります、二度と争いが行われない政を目指さねばなりませぬ、これまでとは違い、異なる意を唱える者を民であれ誰であれ殺すような真似はしてはなりませぬ、三家が織田様に付き従うという意味は政に加担する責が生じます、失礼ながら織田様は多くの無辜の民を戦とは言え葬り過ぎました、平穏なる世の政に無用な事は是非御止め下さい、我ら三家はその事だけは認めませぬ!!」
「我ら三家は10年以上前に無益な殺生をしてはならぬ事を誓い同盟を強く結んでおります、東国ではその影響を隅々にまで与え今はどの大名家も政に精を出しております、どうかこの点をご理解下さい!!」
「うむ・・・儂は力を持って新しい世を目指した、悪しき風習を打ち砕き力のない権威を破壊し愚かな仕組みを叩き壊して来たのだ、その事は儂の誇りであり揺ぎ無い使命と考えておる、間もなく世が平定となれば武力は必要とならず、三家の申し立てを心肝に染め三家に恥じぬ政を致すと誓おうでは無いか、これより三家は儂に力を貸して頂きたい!!」
「我ら三家そのお言葉を聞き誰よりもお支え致しとう御座います、これよりよろしくお願い致します!!」
形式的な談合ではあるがここに織田家と三家は天下が平定された世に置いて共に安寧なる国造りを目指す事になる・・・・
「織田様・・・どうかお身体を大切にされて下され、御身の身体はお一人のものではありませぬぞ、何者かによって命を狙われておるやも知れませぬ、滝川殿の例もありまする、努々油断なさらずに願います!!」
最後別れる際に変が起きぬ様に注意となる喚起を呼びかけ三家は安土城を後にした。
信長が自ら膳を運んだという事は余程家康に気を使ったのでしょうね。
次章「本能寺の変・・兄弟」になります。




