246 調練と戦略
── 大河蛇行突撃 ──
「飯富全然巧く行かぬ、これでは戦にならんぞ、御屋形様の荷物になるぞ!! 如何致す?」
「かれこれ1ヶ月に及ぶ調練でこれでは・・・騎馬の数が多すぎたという事なのでしょうか? しかし、軍師玲子様からの指示にて何れ来る大戦でこの動きを身に着けねばなりませぬ、参りましたな!!」
「某に良い案があります、それを試して見たいと思うのですが!!」
「お~勝頼、良い案とはなんであるか?」
「蛇行突撃する騎馬隊の数が多く隊列が長くなるため7割方が前方が見えなくなるためにバラバラになるのです!」
「全くその通りだが、1万から成る騎馬隊を作るには隊列が長くなるのは当然ぞ!!」
「ええ、兄上の言う事も最もです、そこで隊を3つに分けます、約3300の隊を3つ作るのです、先頭を走る3300の隊の後ろに3300の部隊が、その後ろにまた別の部隊3300で全体を構成いたします、見た目は1万の騎馬隊と同じです、各隊の後に旗を揚げる者を配置します、右に蛇行した際には旗を右に、左の場合は左にと後ろの隊に知らせるのです、次の隊列の最後尾の者が旗で曲がる方向を知らせるのです、3割の前方しかついて行けぬ理由は砂塵が舞い上がり隊列も長くなり前方がどこに曲がったか判明出来ずにバラバラになるのです!」
「それは良い案じゃ、どうだ飯富これなら行けるであろう、隊列が長く後ろの者が前方が見えずバラバラになる、これなら巧く行くので無いか?」
「なるほど、行けそうです、勝頼様も蛇行を身に付けましたな!! この飯富安心して先に逝けます!!」
「飯富様まだまだ逝ってはなりませぬ、母上が悲しみます、それともう一つ宜しいでしょうか、各隊が3300となり、更にその3300は3つの隊に分かれられるように致しましょう、本来の蛇行騎馬隊の突撃は1000名程度が一番敏速に動けます、1万の大蛇で敵の分厚い壁を打ち破り、混乱した所で3つの大蛇に分かれより敵を混乱させます、敵陣が混乱に陥った所で止めとして、3300の各隊がさらに3つに分かれ敵を殲滅するのです、この策は如何でありましょうか?」
「勝頼見事である! 飯富よ、お主の作った騎馬隊が見事に進化したぞ、紛れもなく日ノ本一の騎馬隊となるぞ、間もなく御屋形様より特別に設えた騎馬隊用の鎧が届く、なんでも駒にも馬鎧を作ったと書かれておった、鉄砲の弾を弾く鎧だそうだ、楽しみである、鎧が届く前に大蛇蛇行を完成させようぞ!!」
「勝頼の提案により1万の大河の流れとなった騎馬隊が3300の騎馬隊三つの支流に分かれ、わかられた3300の支流もそれぞれがさらに三つへと、計9本の枝別れとなる、枝分かれしている9本が3本にそして1本の大河へと戻る蛇行突撃の部隊が離散と集合を行えるように徹底した調練を開始した、その結果飯富が編み出した蛇行突撃の極意である、敵の弱い処、何処を突き破れば良いのかという極意を多くの者が極めて行く、1万もの大群の槍騎馬隊が繰り成す蛇行突撃まさに戦国一の強力な武器となるであろう。
── トーチカ ──
北条家では小田原の城が魔改造されるに伴い大砲を設置した砲台を多数配置する事にした、城の内側にも、城の周辺にも多数の砲台を作らせ全方向から小田原を守れるように死角を塞ぎ籠城を行えるように備えることに、この指示も軍師玲子による軍略の一つであった、この小田原が陥落した場合、小田原の地が敵の拠点となり陸路で自由に東国の中に入り込まれ、徐々に弱い所を突かれやがて那須も小田家も敗戦に結び付くであろうと、正念場の城こそ小田原の城となる事を玲子より伝えられていた。
砲台の構造も洋一から資晴に伝えられ悪天候となっても大砲が放てる堅牢な石造りで三層からなる現代のトーチカを模倣した砲台である、その砲台にて多くの砲兵が居住区で寝泊り出来る完結した仕様で在り結構な大きさのトーチカを作り、周りには幾重にも塹壕をはり巡らし、トーチカとトーチカは塹壕で繋ぎ近づく敵兵にも対処する近代的な発想の備えであった。
このトーチカと塹壕による陣地を死守するという発想の戦略は主に国が陸続きのヨーロッパで発達した戦略であり中々日本では取り入られなかった、1904年から1905年に旅順を攻略時の日露戦争で203高地を巡り日本軍は多大な死傷者を出した、砲台攻略を甘く見た日本軍は伝統の夜間突撃という、敵が機関砲で待つ砲台に向け毎夜の如く突撃しては多くの犠牲者を生んだ最も大きい犠牲を払った戦争であった、その大きな要因はトーチカを中心に陣地構築してその地を守るという戦法に翻弄され、対処する発想が乏しく、コンクリートで固めた堅牢なトーチカで守っている事を知らずに連日夜間突撃を行い、大きい犠牲者を出すという愚かな陸軍の参謀たちによる戦で多大な犠牲を払う事に。
一日50発程度の砲撃を行う砲弾しか用意せずに旅順のロシア陣地に向け突撃する、突撃させられる陸軍の兵士は実に哀れと言えよう、乃木希典大将率いる陸軍の作戦司令はその愚かな兵砲術の大家であった、前線を視察もせずに後方で指示を、死の突撃命令を繰り返し行わさせる愚かな将が作戦指示を行い、ただ黙ってその命を受け入れていた野木大将である、戦争の後、この責任を取る形で乃木希典は自刀し亡くなったとの説がある、大正元年《1912年》9月13日、乃木希典が自刃しました、明治天皇の大葬が行なわれた日の夜の、殉死として知られます。
話は戻るが、要は陣地構築とは攻撃を主体とした陣地であり攻撃と防御を備えた砲台という発想が出来なかった日本陸軍は初歩で躓き、大きい犠牲が伴った例といえる、その陣地構築を北条家は鋳物の大砲を多数作り備えて魔改造へと突き進んでいた。
使用される大砲の弾作りと砲の製造に全くの支障がない北条家、小田原には数百年に渡り寺院を支えている鋳物師とその技術がこの時代一番栄えている地であった、京が小田原に代わるのは家康が天下を治めてからになる、戦国期の京には育つ技術文化はほぼ無い状態であった、それと大砲に使用する火薬は明から琉球を経て大量に購入し得ていた、明には火薬に使用する硫黄が少なく硫黄の手配ができる北条家と那須家で大量に交換の品として、5対1の割合で取引を行っていた、簡単に言えば5トンの硫黄で1トンの火薬を手に入れ、残り4トンは金で購入していた、北条家と那須家には金鉱があり、戦の無くなった甲斐の武田家にも少量の生産となった金鉱があり戦費に使わずに無理せずに掘っていた、その金が外国との取引では大きな力となり態々堺で調達する必要が無かった。
── 海戦術 ──
海戦術とは海戦における戦術であり、任務を達成するために戦場および戦場付近の地域における艦隊の陣形・運動・射撃などを指導する科学・技術であると定義される。
部隊は気象・海象の影響や補給の問題から陸軍部隊のように一定の地域において長期間対峙することが出来ず、短期決戦となる、海戦での戦果は圧倒的な勝利と、壊滅的な敗北に二極化する特徴が見られ、さらに陸軍部隊のように地形的な優位を持つことが難しく、その上兵器の物量や質の優劣が明確に勝敗に表れるとされる、しかし実際に敵を発見して艦隊が戦術運動を行い、敵を撃滅する戦闘においては海戦術の有用性が発揮されるとされ、如何に艦隊運動のもとで戦うかという重要性が増すとされる、個々の船が集団である意思に基づいて戦う事が勝利につながるという意味であり、その最たる例がやはり日露戦争時に行われた、日本海海戦が世界を代表する海戦術の勝利と言える。
この海戦は日露戦争中の最大規模の艦隊決戦であり、その結果、連合艦隊は海戦史上稀に見る大勝利を収め、バルチック艦隊の艦艇のほぼ全てを損失させながらも、被害は小艦艇数隻のみの喪失に留めた、この結果日本は世界の列強の一員と認められ行くが突き進む道にはやがて不幸な結果が待っている。
日本海海戦の概要はバルト海のロシア基地から派遣されたバルチック艦隊、戦艦8隻、巡洋艦6隻以下38隻を、東郷司令長官ひきいる連合艦隊、戦艦4隻・巡洋艦8隻以下96隻で対馬沖で待ちかまえ、1905年5月27日、28日の二日間にわたって激しい戦いを行い、バルチック艦隊の19隻を撃沈、7隻を捕獲または抑留し、同艦隊を壊滅という歴史的大勝利した海戦である、日本側の損失は百トン未満の水雷艇3隻だけであり、ロシアはこの敗戦で太平洋に配備していた艦隊を全て失い、日露両国間で講和の話し合いが進み、アメリカ大統領の仲介でポーツマスにおいて講和条約が結ばれるがその後ロシア革命が起こり帝国ロシアは崩壊する、ここでは詳細を省くが、如何に海戦術という戦術が必要であるかとの話である。
「ではこれより各艦の中心となる旗艦はこの海図に示した地点に向け艦隊運動を旗艦の指示に従い向かうのだ、全艦隊が合流する地点はこの砂糖を作る島とする、では一か月後に共に成長した姿で会おうでは無いか、準備出来次第出向じゃ!!」
大海将の小田守治は艦隊を組織的に運用し、何れ来るであろう大海戦に備え精密な羅針盤、緯度経度が書かれた海図と遠眼鏡を各艦艇に持たせ中心となる旗艦の下で調練を行っていた、旗艦となる3000石の戦艦を、小田家2艦艇、北条家2艦隊、那須家1艦艇、計5艦艇の元に1000石級、500石級の艦船を引連れ大規模な調練を開始していた、最終段階の各家の旗艦による大航海での調練と出向となった。
小田守治は1000石船、3000石船を陣頭指揮で造船して行く中で過去に行われた船による海戦の資料を集め源平で行われた海戦が一番参考となり、最近では織田家と毛利水軍の海戦模様を詳細に学び吸収していた、明からも古代に行われた大規模な海戦模様も参考にしていた、三家連合の中で小田守治はいつしか抜きん出た海における大海将に相応しい将軍に育っていた、那須家での佐竹も北条家にも海の事をよく知る者達からも信頼を得ており素晴らしい長と言えた。
各艦隊が出港した中、守治の艦隊はその場に残り、極秘に開発していた30石船と50石船のある実験を行っていた、その実験とは織田家が毛利水軍に完勝した鋼鉄船に対処する実験で在った、守治は鋼鉄船は船の周りを鉄板で覆った船である以上如何に人が多数で漕ぐとしても移動距離は短く、船自体の重さは相当な物だと、一番の問題は大砲が通じない場合、どうするか? という問題であった。
移動距離は短くても海に浮かぶ砲台として脅威となる鋼鉄船、その重い船の鋼鉄船の横腹に穴を空ける事が出来れば重さが仇となり一気に沈没するであろうと、その穴を空ける為に特別な船を造らせていた、この船も左右に鉄の板で防御し大砲に備えており船首部分に太い丸太の先端部分に鋭角な鉄の角を持たせ鋼鉄船に突撃させる船を作っていた、鉄の板を打ち破るには力で打ち破るしか方法が無い、その力を一撃で打ち込める船を作っていた、陸上での滑車に乗せ突撃しての実験では見事に穴を空ける事は出来たが海の上では、実際に出来るのかの実験で在った。
鋼鉄船と見立てた古い500石船に鉄板をはり巡らし敵船と見立てた船を数隻用意し、最初に30石船、次に50石船を突撃させた、突撃する船は一度突撃してその使命を終えてしまう、突き刺さると抜く前に鋼鉄船が沈み始める為に直ぐに船から飛び込み逃げなくてはならず一度しか使えない船となる、数日かけて実験を行い、守治の顔には笑みが見て取れた。
「これより我が艦隊も小笠原に向かう出向せよ!!!」
那須資晴から残された期間に合わせて各家が大きく動き始めました、目が離せません。
次章「家康の苦悩」になります。




