244 山の民
── 巻狩り ──
1578年の締め括りとして那須家での大規模な巻狩りと軍事調練を行った、軍事訓練の色合いの濃い巻狩りとする為に、本来森の中から野原に獲物を追い出す勢子と呼ばれる者達に奥深くから獲物を追い出させ、狩りを行い狩り子が待つ野原で仕留める方法を取るが、今回は勢子の人数を少数として代わりに騎馬隊が勢子に成り代わり獲物を追い出し、待ち構えていた騎馬隊が仕留める、更に一定数仕留めた後に今度は仕留めた騎馬隊が勢子となり追い出していた騎馬隊が狩りを行うという山の中での移動訓練も取り入れた。
巻狩りこそ那須が本家と言える、過去に日本最大規模で行われた歴史がある、1192年に鎌倉幕府を開いた源頼朝が翌1193年4月2日から23日まで那須野ヶ原《那須塩原市》周辺で行った那須巻狩は10万人もの勢子が集められたと伝わる。
勢子という名前の地名は巻狩りと関係ある名である、富士の巻狩りの際に、勢子を多数輩出した村を『勢子村』静岡県富士市に含まれた今泉村の旧名とされている、他に富士市には『勢子辻』(せこつじ)という地名があり、源頼朝の狩りの際の勢子の待機所であったと伝わる。
愛知県名古屋市名東区にも『勢子坊』という地名があり、この地で徳川御三家の尾張藩が巻狩をよく行い、その際に勢子を輩出した地域とされる、江戸幕府のために軍馬を生産する牧があった千葉県鎌ケ谷市には、『勢子土手』という野馬土手があり、野馬捕りという野馬を追い込む作業の際の堤防であった、20日間ほどかかる野馬捕りに駆り出された勢子の手当は1日米7合、周辺の村々に割り当てられた勢子人足の人数が古文書からわかっている。
那須で巻狩りが最大規模で行われるには優れた条件が揃っている、標高400m~900mという高低差はあるが全体が緩やかな起伏となっている、それとその高原の広大な広さが何万人という大勢の者達であっても充分に狩りが行える広さがあるという事だ、那須高原に観光に来る多くの人が北海道とそっくり、本当に広い高原の中をこんなに移動出来るところが那須の魅力だという感想を述べる人が沢山いる。
「ではこれより巻狩りを行う、本陣は池田に陣を構える、那須山北側は一軒茶を正面に、左側に板室手前、右側は大谷までの6里《24キロ》とする、下方の南側は東原から迯室までの同じく6里、この六里四方を戦場と考え四つの合戦場と見なし巻狩りを行う、この時期熊が多数出没している親子の熊には近づくな、那須駒は殺さずに捕縛せよ、追い出しを行う騎馬の者達は勢子に指示を仰げ、見下してはならんぞ、では各隊出発し明日より巻狩りを行う、10日後には池田に集まり模擬戦を行う、各隊はしっかりとこの10日間で隊の連携を仕上げよ、取った獲物は遠慮なく近隣の村々にも下げ渡しを行う様に!!」
10月下旬那須家最大規模の巻狩りが行われる事に、参加動員6万人という規模の調練である、那須資晴も池田に本陣を構えその周辺で巻狩りを行う事に。
初日は各隊が指定された山中に移動し陣を構築、軍事訓練という巻狩りの為、陣の周りは堀と馬防柵を張り巡らしグルを設置した、那須烏山から本陣となる池田に到着し陣構築まで二日間を要し三日目から実際の巻狩りとなる、明け方5時には勢子勢が広い鶴翼の陣を森の中で徐々に展開し合図の銅鑼を一斉に鳴らし始める、狩り子側も三重の鶴翼を展開し、森から這い出る獣たちを待ち構える、遠くの山林の中で騒がしい音が聞こえ始めると間もなく獲物が現れる場面となる。
山林から這い出る獣たちは野原に追いやられるが、野原と言っても見通しの良い原っぱでは無い、雑草が伸び放題であり、邪魔な篠竹が生い茂り小さい沢が各所に流れている、獣たちも見つからぬ様に野原を横切り山中に逃げ込もうと必死である。
「間もなく来るぞ、儂に遠慮せず仕留めよ! 今日一番の大物を仕留めた者には褒美を取らす!!」
一斉に林が揺れ篠を掛け分けて来る音が聞こえる、音の先には何等の獲物がいる筈である。
「来た、御館様、猪です、猪です、大きい獲物です!!」
「判っておる、向かって来るぞ、良し、儂に任せよ、仕留めくれる!!」
シュルシュルヒュー!!
「畜生後ろ足じゃ! もう一射放つ!!」
「どこに行った、あのでかい猪は・・・篠で見えんぞ!!」
「むむ・・あそこじゃ、向かうぞ、追いかけるぞ!!」
馬上から篠を見下ろし姿は見えぬが猪が急ぎ逃げている様子が判る!
「あそこじゃな、間もなく・・・他にも何かいるぞ!!」
同じ篠竹の茂みを猪と大きい獣がその後を追う様に移動しているのが見て取れた!
「申、後の獲物を判別出来るか?」
「先に逃げているのが猪であります、その後ろは黒い影です、熊かも知れませぬ!!」
「なんと大物では無いか、雄か雌か判別出来るか?」
「ここからでは判りませぬ、猪の後ろ15間程の距離です、間もなく先に猪が見えます!!」
「良し、先に猪じゃ、申も射よ、直ぐに熊が来る、雄であれば仕留めるぞ、一射では無理であろう、それも一緒に仕留めよ!!」
「来るぞ! シュルシュルヒュー!! シュルシュルヒュー!! 良し、ようやった、さあー後ろの熊を狙うぞ、雄なら仕留める!!」
「待って下さい、もう一匹、熊の前に何かがいます、熊がそれを追っております!!」
「何~、三連続であるか、初めての事じゃ、何であるかのう!??? う・・人影??」
「御屋形様、撃ってはなりませぬ、童です、男の子が熊に追われております、某の犬を放ちます、熊の足を止めます!!」
申は犬使いでの忍びでもある、忍びには特殊な能力を持つ者がおり鞍馬の忍びで犬などの獣を使える忍びとして戌と申の父である大申、申、子申がいる、戌は獣使いの頂点に立つ者である。
「急げ、童を救え、儂はこのまま熊を狙う!!」
那須資晴は五峰弓の弦を獣の筋で出来た強力な弦に変え、五峰弓本来の力を出す弓に仕様を変え必殺の一射に変えた、那須家騎馬隊の使用している五峰弓の現在の弦は和弓で使用している一般的な物であり、本来の能力の30%程封印している、何れ鉄砲が改良され射程距離が伸びだ場合に対処出来る様にしていた、今その能力を全開にして熊を仕留める事にした。
「熊は雌です、如何しますか、構わん、童が危ない、雌でも構わず仕留める、儂の方に追いやるのだ犬たちに指示を出せ!!」
「判りました、今追いやります、行きます!!」
「良し、任せよ!!」
「御屋形様の方に進路を変えました、犬と格闘しながらそちらに向かっております!!」
「もう犬と熊の声が聞こえておる、大丈夫じゃ、このまま追いやるが良い!!」
「来たぞ、良し、シュルシュルビュー─ズボ!! どうじゃ、仕留めたか?」
「倒れておりますので、今犬たちが噛みついて確かめております」
「動きませぬ、仕留めております!!」
「良し、最高の出来栄えじゃ、ふ~危ない処であった、童はどこに行った!?」
「犬たちに探しに行かせます!」
「おりました、今某が連れて参ります!!」
資晴は周りにいる配下に猪と熊を持って来る様に指示を出し、童を無事であった事に安堵した。
「もう大丈夫じゃ、良く逃げおおせたな、名はなんという?」
「助けて頂きありがとうございます、名はぜんと申します」
「ぜんであるか、どうして熊に追われていたのじゃ?」
「妹と川で魚を取っておりましたら、森の中から大きい音が聞こえて獣達が出て来ました、私達の近くに熊が出て、妹を逃がすために石をぶつけて逃げていました」
「そうか妹もおったのだな、妹を逃がすために石をぶつけたのか、偉いぞ!! そこにいる熊がぜんを追っていた熊じゃ、もう仕留めておる、安心するが良い、家族も近くにいるのか?」
「そうか近くか、配下の者に連れて来る様に致すからぜんはここにいるが良い、巻狩りを行っているのでまた熊にでも襲われたら機嫌じゃ、皆を連れて来るのでここでまっているのじゃ!! 誰かこの善に粥でも与え介抱するのだ、妹救うために熊と戦った童の勇者であるぞ!!」
暫くしてぜんの家族が保護され資晴の元に、しかしその様子がなにか不自然であった、不自然というより違和感のある家族であった。
「御屋形様、かの家族はどうやら山の民であります、村の者ではありませぬ!!」
「はっ、なんの事じゃ山の民とは?」
「一言で言えば河川の近くに住み山の中で隠れ住む者達であります、その住処が周りの村の者などに知られると何処かに消え他の山へ移動し生活している者達となります、どこにも属していない山の民であります」
「だが言葉は通じていたぞ、我らと同じ言葉を使っていたが?」
「独自の言葉もある様です、蝦夷と似ておりますが、それとも違うようです、我らの言葉も話せます!!」
「初めて聞いた話である、木こりやマタギとは違う者達なのじゃな?」
「定まった所に住まぬ者達なのでそれとは違います、鞍馬の者達は彼らの事を山の民と呼んでおります」
「そうか、少しその父親から話を聞くとしよう!!」
父親はまだ若く、ぜんと妹、妻の四人の家族であった、話を聞くと申の申した山の民であり、下界の者達と交わる事を避ける様に先祖から言い伝えられ山の中を移動して生活している者達であった、この河川は那須に流れている余笹川であり、下流で那珂川に合流する支流である、聞いた話では他にもこの河川沿いに数件の山の民が住み暮らしているとの事であった。
「和田衆を使い、余笹川付近に住む山の民を保護しここに連れて来るのじゃ、巻狩りの被害を受けるやも知れぬ、それとその者達に儂が会いたい、保護し連れて来るのだ!! この事他の部隊にも通達せよ、河川近くに住む山の民がいた場合は保護し連れて来るのだ!!」
山の民とはどこの村にも町にも属さない自由人とされ、どの領地にも定着せずに流民の者達を呼ぶ場合の名であり、後に『サンカ』と呼ばれる、山窩、山家、、三家、散家、傘下、燦下、などの住む家屋を持たず傘や空を屋根とする屋外に住む存在という呼称で地域によっていろいろと
呼び名はあるが、流浪の民であり、日本の史実の中でもその実態は解明されていない謎の人々である。
明治に入ると警察を中心とした多くの行政文書に『山窩』と記述され、ほとんど山賊と同義の言葉として使用される、民俗学者の柳田國男が警察の依頼を受けて、山窩の現地調査を行ったのもこの時代である、行政文書に、山窩が登場する頻度は次第に減り、第二次世界大戦中にはほぼ皆無となっている。
山の民であるサンカと呼ばれた者達は推測で全国に20万人はいたであろうとされている、昭和の時代まで確認されている山の民はその後の消息は不明となる不思議なる民達である。
翌日には資晴のもとに山の民と思われる者達が集められたその数は200を超えていた、家族単位で4~6人程で河川の近くの山の中で誰もが隠れて生活している様であると報告された、一同に集められ怯えている山の民に資晴が安心するように話した。
「お主達が住むこの地の領主である那須資晴である、今我らがこの地で巻狩りを行っている、其その方達に被害があっては申し訳ないと思い一時避難させたのだ、終わるまで暫く儂の入るここで寝泊まりして欲しい、美味しい菓子も粥も沢山ある、飲みたい者には夕餉の時に酒を出そう、色々と沢山あるので安心して寝泊りするが良い、それと今夜は熊の鍋を皆で食べ様ではないか、この熊は、ここにいるぜんに襲い掛かろうとしていたのを石を投げ、自分が犠牲となっても守ろうとした勇敢な童であるぜんのお陰で儂が生まれて初めて仕留めた、それを今夜は皆で食そうではないか!!」
怯えていた山の民は資晴の話を聞き、山の民の子、ぜんに襲い掛かろうとしていた熊を当主自ら仕留め救った事、その熊を皆で食そうという話に警戒心が亡くなり怯える必要が無いと判りいびつではあるがその顔には笑顔が広がった、その後麦菓子を配り大学芋の美味しさに頬をほころばせ、夕餉では熊の鍋が振舞われ、他にも澄酒、甘酒、麦湯なども自由に与え過ごさせた、連日巻狩りで得た得物を利用し、牡丹鍋、雉の串焼きなど豪華な食事となった。
資晴の見立てではこの山の民は皆身体が細く決して良い物を食してはいない、年老いた者の数が少ない、きっとそれは隠れて住む事で米等の穀物も中々ありつけずに食が偏り長生きが出来ずに年老いた者が少ないと察した、栄養ある粥を与え、塩で味付けした串焼き、栄養ある甘酒を与え冬を乗越えて欲しいとの願いであった。
なぞの民、サンカってどこに行ってしまったんですかね、戸籍も無い人達です、不思議です。
それとPCの長子が悪く修理に出します、一週間程休みとなります、申し訳ありません。
次章「天下布武の城」になります。




