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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
243/331

243 魑魅





魑魅ちみとは魍魎もうりょうという言葉と一緒に利用される事が多い、しかしその言語は魑魅と魍魎の二つに分けられる、両者は山の怪物や川の怪物され、様々な化け物妖怪変化の事を指す、魑魅は山の怪、魍魎は川の怪であり、山河に住む物の怪を称して魑魅魍魎という言葉で用いられる、物の怪とは日本の古典や民間信仰において、人間に憑いて苦しめたり、病気にさせたり、死に至らせたりするといわれる怨霊、死霊、生霊など霊のこと、妖怪、変化などを指すこともある。



物の怪の話は平安時代の文献に多く見られ、有名なものは『源氏物語』の第9帖の葵で、葵の上に取り憑いた六条御息所の生霊が挙げられる、そのほか、『大鏡』『増鏡』にも物の怪の記述が見られる。



医学知識の未発達だった当時は、物の怪による仕業と判断し、原因不明な病を物の怪退治の方策に、僧侶や修験者が加持祈祷を行い、物の怪を『よりまし』と呼ばれる別の者《女中、小童など》に一時的に乗り移らせ、物の怪を調伏して病気を平癒されるといったことが行われていた、この様子は『枕草子』や『紫式部日記』などに詳しく述べられている、『続日本後紀』によれば、皇居内の物の怪に対し、60人もの僧侶が経を唱えたとある、他にも陰陽師は元来は物の怪に対しては呪術を使わなかったが、11世紀後期以降になると陰陽師も物の怪に対応するようになり、公家の病気に際して泰山府君祭が行われるケースが現れるようになったとされる。



閉鎖的な宮廷社会を送っていた当時の貴族たちの精神も、物の怪への恐れを助長する事に、こうしたことで物の怪自体が怨霊と考えられ、やがて疫病に加えて個人の死、病気、苦痛などのすべてが物の怪によるものと見なされ、その病気自体も物の怪と呼ばれるようになった、恐怖の観念によって、病原体ともいえる生霊や死霊自体が物の怪と考えられる事になって行く。



その物の怪の正体は人間であり邪な欲望の塊に支配された者達と言えよう、氏真館はいつしか物の怪たちの巣窟と化し、邪念に支配された者達とそれを利用する者達が日夜出入りし己の欲望を満たすための不夜城となっていた。




「どうじゃな千代女、そちの術があの者に入り込めたか?」



「今少しの所と言えましょう、この調子で後数回呪印を施せばせ間違いなく入り込めます、妾にお任せ下さい、今頃は瀬名が床にて介抱しており夢ご心地の中でありましょう!!」



「前も同じことを言うておったがやはり大人であれば何度も術を施さねばならぬのか、命失う事は無いのか、命失えばすべてはご破算となる、大丈夫であるのか?」



「本来は童を相手に施す呪印であります、相手が大人となると命の趣きが固まっており中々入り込めませぬ、故に何度も悟られぬ様に分けて行っているのです、命に関しては大丈夫でありましょう、あの者も強き肉体をしております、それとその胸底に強き憎悪が眠っております、妾が最初に出会った頃より胸底の憎悪は育っております、この館に出入りしている事で影響を受けているのでありましょう!!」



「ほう憎悪であるか、それはこちらに都合の良い話であるな、儂の館も今では何者がどの目的で出入りしているのか、その数が多くなり公家殿に任せておる、我らは信長の力を弱める事のみ考え突き進むしか無い、公家殿の話では益々あ奴の天下が近づいているとの話であった!!!」



「世間の事は疎くて妾には難しゅう御座います、妾は氏真殿の仰せの儘に動きます!!」



「そうであったな、では間もなく公家殿が参るゆえ、床が終われば瀬名を遣わすのだ待っておるぞ!!」



「判り申した、間もなくの事と思われます!!」



呪印師『望月千代女』歩き巫女を束ね信玄の元で諜報活動を行っていた大元締め、信玄亡き後、今は羽柴秀吉の秘密裏な指示で今川氏真館に、あたかも氏真側の人として動いていた、千代女には一人の年老いた身内と館の離れに住み暮らしている、身内とは老練な忍びであり年寄に変装しての秀吉との繋ぎに主な役目を担っていた。



瀬名が役目を終え、氏真の元に行くと千代女も離れに戻り暫し待つ中、年老いた身内が戻り話し始めた。



「千代女様、確かめて参りました!!」



「そうか、で、誰であった?」



「相手の公家殿とは元関白の近衛でありました、近衛と氏真それと瀬名の三名にて何やら楽しく話しておりました!!」



「話は聞けなかったか?」



「近衛には腕の立つ従者が二人部屋前に控えており離れた所からでは確認出来ませぬ、部屋から笑い声が漏れ聞こえるのを確認するだけとなります」



「まあーそれでは仕方なしであるな、近衛が帰った後に氏真の床下に忍び確認して見るが良い、氏真と瀬名は不用心であるから何やら話すであろう!!」



「判り申した、千代女様の術は氏真には無理でありますのか?」



「それも考えたが、勝手に色々と話して来るゆえ、術を使うまでも無い、あ奴は己の策謀が如何に優れているのかと言う事を話したくて仕方が無いのじゃ、氏真達が行っている事を本来であれば秘密裏にせねばならぬ事をあまり理解しておらぬ、このまま泳がしておくが一番じゃ、それに相手が大人であると妾も疲れるのじゃ、氏真如きに疲れる必要もあるまいに!!」



「そうでありますな、馬鹿とハサミは使いようと申します、あれが東海三国の覇者の当主であった事誰が信じましょうか、哀れでありますな!!」



「信玄様が懐かしい、御身体さえ労咳となっておらねばと今更ながら昔を思うてしまう、当主とはまさに信玄様のようなお方を言うのじゃ!!」



氏真館に訪れたのは元関白の近衛であった、近衛が唆した荒木村重がその気になって来た事を伝え次に進む段階に来た事、次はどんな手を使い人知れずに信長を困らすかとの談合の為に訪れた。



「それはよう御座いました、流石近衛様であります、近衛様しか出来ぬ手柄と言えましょう、これにて少しは時間を稼ぐ事が出来るというものです、謙信が亡くなったと聞いた時はこれにて万事休すかと思いましたが、荒木が反するとなれば時間が出来まする、その間に策を練りましょう、毛利の水軍とも間もなく戦になると聞きました、本当に良い時に合わさりました」



「あっははは元関白という箔と帝のお言葉という誘いに武家の者は弱いのだ、帝がそちを頼みとして近衛を遣わしたと言えば皆が転ぶ、此度は調度良い頃合いだったようじゃ、村木も信長を警戒していたようじゃ、そこへ儂が一言囁けば転ぶというものじゃ!! あとは毛利の水軍が又も勝てば戦局が大きく動く事になる、そうなれば頃合いを見て朝廷の権威の元両者に和議を結ぶさせ、信長を徐々に弱らせていくのじゃ!!」



「では信長を弱らせた後は毛利が表に出る事になりますか?」



「いや、あ奴を返り咲かせるのよ、義昭がいるではないか、力のない将軍が頭にいるのが一番である、その後ろには毛利、毛利を操るのが朝廷となる、毛利は天下を望んでおらぬ、義昭は京に戻り将軍に返り咲きしたいだけじゃ、だから実際には日ノ本の大きな政は朝廷が出る事になるであろう!!」



「ではもう信長は出て来ぬと思われますか?」



「この近衛と信長は大の仲良しであると誰もが認めているであろう事はお主も知っておろう、大の仲良しの近衛がまさか信長の本当の敵だとは誰も知らぬ、そこが付け目よ、ゆっくりと織田家を近衛の力で弱めて行く、その為にあの者を利用するのだ、気を抜いてはならぬぞ、この秘密は絶対に守るのであるぞ氏真殿よ、漏洩すればお主の命は頂くぞ!! 瀬名の方が口が堅い様であるな、まあーこの近衛に任せておけば良い!!」



「そうでありますぞ氏真殿、近衛様の言いつけを守ればこの様に進むのです、力あるお方の言いつけを行うのです!!」



「充分判っておる、信長の次は北条を弱らせる約束をしかと頼みますよ、今川の家を結局獲った者達であります!!」



「まあーそれでも銭に困ればなんだかんだと言いながら氏真様に配慮する者達です、今は上手に生かしておきましょう、先ずは信長を成敗するのです、瀬名の目的は信長でありますぞ、妾から全てを奪った張本人でありますぞ!!」



「それも判っておる、所で近衛様は先程の荒木殿は何時頃動かれますか?」



「あ~それは毛利の水軍が動いた時に時期を合わせるようだ、さすれば両方に対処する事になる、実際は本願寺と荒木征伐と、羽柴が中国で毛利と戦う為に遠征しており、三ヵ所での戦場が出来る事になる、本願寺だけでも手を焼いているのに荒木が反旗となれば兵を割かねばならぬ、兵を割けばその分何処かに皺寄せがあるという物よ!」



「成程それで毛利が動いた時に荒木も動く訳でありますか、戦下手でありました某には戦の空気は読めませぬ、私より近衛様の方が戦国武将に相応しいと言えましょう!!」



「間もなくの事じゃ、見ているが良い!!」






── 南蛮鎧 ──




「皆を呼んだのはこれに付いて那須でも作らせた方が良いのかを話し合う為じゃ!!!」



「これが噂の南蛮鎧でありますか、う~ちと重い鎧でありますな!!」



「油屋の話では種類がいろいろある様で鉄砲の弾を弾く鎧という事で高値で取引されているようじゃ、ただ本当に戦で役立つのか判らんという事であった、皆の意見はどうであるか?」



「鉄板で出来ております鎧であれば鉄砲の弾は通じませぬな、我らの五峰弓でも無理でありましょう、厄介な鎧でありますな!」



「ちと某が着ても宜しいでしょうか、実際に動けるのか試して見せます!」



「お~それが良い、一豊が無理であれば大方の者には扱えぬ、試しに着けて見るが良い!!」



油屋から送られて来た鎧は信長が着ていた南蛮鎧と呼ばれている鎧とは若干違う西洋鎧という種類のプレートアーマーと呼ばれる代物で全身を甲冑で覆う鎧であった。



「これは行けませぬ、動けますが倒れたら一人では起き上がれませぬ、ただ鉄砲の弾も刀も槍も通じぬ鎧と言えます、参りましたなこれは、本当にこの様な鎧で南蛮の者は戦うのでありましょうか?」



「実際にあるのだから使用しているのであろう、我らの鎧とはかなり違う代物じゃな、一豊が1人で立てぬとなればあの二人位しか無理であろうな、では我らには無用な鎧という事になるのか?」



「お待ち下され、暫く私にこの鎧を預けて下され、これを見本に幾つか試作を行って見ます、鉄砲の弾を弾く鎧の事を知りつくさねばなりませぬ、しかし人用の鎧がこれであれば馬用の、騎馬鎧もあるのでは無いでしょうか、鉄砲の餌食になるのは人だけではありませぬ、人を乗せる騎馬にも鎧があるかと思います!」



「なるほど、そう考えるのが自然であるな、これだけの鎧を身に付け駒が無防備という事はありえんという事か、では半兵衛、弓之坊と鎧職人とで試作品を検討してみよ、我らの騎馬隊に利用出来る強靭な鎧が出来ると良いが!!」



戦国時代の鎧は基本的に源平の頃より大きな進化は見られなかった、しかしこの時代鉄砲が普及するにつれ南蛮鎧という物が普及していく、その南蛮鎧は西洋甲冑を取り入れた和洋折衷の鎧と言える、身体の大きさが西洋人と比べ劣る当時の日本人の身体に合わせた鎧へと進化していく。



南蛮鎧の普及は確かに鉄砲への対処と言えるが実際に普及して行くのは信長が亡くなった後に広がるとの説がある事を紹介しておく、但し鉄砲が既に広く普及している以上見本となる南蛮鎧が日本に入って来ている事は充分に考えられる。




1578年もいよいよ大詰めですね。

次章「山の民」になります。

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