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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
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239 謙信逝く!





謙信は武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも『毘』の文字を使い、三宝荒神を前立に使った変わり兜を所有していた、若き日は曹洞宗の天室光育から禅を学び、上洛時には臨済宗大徳寺の徹岫に参禅し『宗心』との法名を受け、晩年には真言宗に傾倒し、高野山金剛峯寺法印で無量光院住職であった清胤から伝法灌頂を受け阿闍梨権大僧都の位階を受けている。



その知識深く戦略家・戦術家としてだけではなく、和歌に通じ、近衛稙家から和歌の奥義を伝授されるなど、公家との交流も深い文化人でもあった、特に『源氏物語』を始めとする恋愛物を好み、上洛した際に開催した歌会でも見事な雅歌《恋歌》を読み、参加者全員を驚かせたと言う。



内政面においては、上杉謙信は衣料の原料となる青苧を栽培し、日本海ルートで全国に広め、その収入を国の財源とした。そして、領内の物産流通の精密な統制管理を行い、莫大な利益を上げたとされる、青苧あおそとは、細かくさいた衣服の原料で、古くから『越後上布』の材料とされ青苧を取引する商人たちは『青苧座』を結成し独占販売権を確立した。




生涯不犯《妻帯禁制》を貫いたため、子供は全員養子だった。

養子は4名との記録がある。※上杉景勝、上杉景虎、畠山義春、山浦国清。




謙信には複数の恋物語が伝わる一つは、彼がまだ二十代の折、敵将の上野、平井城主千葉采女の娘である伊勢姫と恋に落ちたが、重臣の猛烈な反対によって引き裂かれ、娘が剃髪出家した後、ほどなくして自害してしまい、食事ものどを通らず病床に伏せてしまうほどに心を痛めたというものがある『松隣夜話』。

また謙信が女性と交渉した事実が確認できないことについて様々な説があるが、いずれも確かな根拠に基づいたものではない。




謙信の部下は、謙信の食事により出陣の有無を知ったという、日頃は倹約に努め質素に過ごす謙信が、戦の前になると飯を山のように炊かせ、山海の珍味を豊富に並べ、部下将兵に大いに振舞ったためである。

日ごろの倹約ぶりを知る部下たちはその豪勢な食事に喜び、結束を固くした。これが客をもてなす『お立ち飯、お立ち』として、今なお、新潟県や山形県の一部に風習として残っている。



死因については、生前の謙信は大の酒好きだったことで知られ、過度の飲酒や食生活による糖尿病性高血圧が原因の脳血管障害とみられ定説となっている、謙信の史料を見た医師たちの所見も、『高血圧症、糖尿病、アルコール依存症、躁鬱気質』だったとする見解が多い、有名な話として無類の大酒飲みであった謙信、戦場においても馬上で杯を手放さず、戦時に酒を飲み自ら先頭に立ち柴田勝家を5度に渡り打ち負かしたとある、山形県米沢市の上杉神社にはその名も『馬上杯』という酒枡の遺品が残るほど、この杯は直径12cmほどの大杯で、酒が3合は酌める杯である。





── 謙信逝く! ──




3月9日夕刻厠や行った謙信の戻りが遅い為小姓が様子を見に行くと謙信が倒れていた、急ぎ人知れずに医師と直江、景軒《軒猿》が別室にて医師の診断を待つ事に、謙信の居住する館は軒猿の配下により厳重に。



「如何であるか、御実将様のご様子は? 意識はあるのか?」



「御実城様の意識はありませぬ、呼吸は大きく寝音の鼾があります、寝ている様に見えますが卒中かと思われます、ご危篤の状態であります」



「判った、ではそちは全力で御実城様を介抱致すのじゃ、事が事ゆえこの屋敷以外は出入り成らぬ、用がある場合はそこの者に頼むが良い、頼んだぞ!!」





「では、直江殿、暫し此方へ!!」



「我らはかねてよりこの日が来る事を覚悟しておりました、直江殿は景勝様へ、私は景虎殿へと別れる仕儀となりました、我ら両人もこれにてお別れとなります、それとこれは私の脇差になります、出来ましたら直江様の脇差と交換を願えないでしょうか、我ら両人の意志は同じとの証にしとう御座います、如何でありましょうか?」



「お~それは忝い、我の意志も受け取って下され、これにてお別れとなります、景軒殿、景虎様をお願い申す!!さらばである!!」



「直江殿御免!!」





「景勝様、直江が来ております、急ぎの用事との事であります、如何致しますか?」



「うむ、通すが良い!! 如何した直江?」



「はっ、御実城様へ軒猿衆より火急の知らせが入りました、柴田が動く気配あり、景勝は城を厳重に見張れとの事です、それと関所封鎖をする様にとのご指示であります!!」



「なに織田の柴田が約定を破ると申すのか、あい判った急ぎ支度を行う、他はあるか?」



「この動き知られてはならぬ内密に動けとの事です、それと景虎様は織田の動きの裏をかく為に景虎様を会津に向かわされます、明朝夜明けとともに出立致します、景虎様と配下の者達は関所は通す様にとの事で御座います!!」



「うむ、当然の事であるな、で、御実城様は城に上がるのか?」



「此度は忍びからの知らせであり敵の動きが判明するまでは景勝様、景虎様にお任せとなります、御実城様は館にて静かに待機するとの事であります!!」



「うむ、判った、では直江は御実城様の元に戻るが良い、後は任せよ!!」




「景軒が来ました、至急との事であります、部屋に通しました!!」



「急ぎの用とは如何した?」



「はっ、御実城様へ軒猿衆より火急の知らせが入りました、柴田が動く気配あり、景勝様は城を厳重に見張れとの事です、景虎様は配下の者と明朝会津に迎えと、会津にて那須と織田への攻撃について策を談合して来る様にとお話です!!」



「なんと本当であるか、又もや裏切ると言うのか、許せん!! それ程の大事なる談合儂で良いのか?」



「既に那須殿とは織田が裏切る場合にそなえ以前よりその際の策を検討していたようであります、先の正月に景虎様が大きい敵と戦う場合の策を話され、その策と那須と考えた策は一致しているとの事です、景虎様が一番理解しているとの由に御座います、この景軒も一緒にお供する事になりました!」



「なななんと、御実城様はそのように儂の事を褒めてくれまいたか、良しい判った明朝正門前に集まり出立致す、雪は大丈夫であるか?」



「はっ、融けて来ておりますれば大丈夫でありましょう、それと内密に動けとの事です、静かに動けとの事であります!」



「最もな事である!! では明朝、儂も支度にかかる!」



「では後程!!」




夜明け前に春日山城大手門より景虎一行200名が馬廻役に守られ会津に向け出立した、軒猿衆の先導で篝火を焚かずに夜陰に紛れての行動であった、あくまでも隠密での行動であり当然の措置と言える、城下を過ぎた頃より軒猿衆の手配の者達が合流し何時しか総勢300を超える集団となった。



「景軒、そとちの軒猿衆の集まりが多いようであるか何故じゃ!!」



「御実城様の命であります、那須の国とは言え峠を越えます、不測の事態に備え某の配下の者達を多く用意しております、それと那須にも既に景虎様が使者としての先触れを某の配下を行かせておりますれば会津領に入りましたらお迎えがあるやも知れませぬ、何しろ敵は大物になります、油断はなりませぬ!!」



「うむ、あい判った、景軒がいて頼りになる、那須に行くは初めてである、案内あないを頼むぞ!!」



「判っております、これまでに何度か那須の者達とは忍び繋がりで行き来しております、それゆえ私が景虎様と行く事になり申した、それと某は景虎様の義弟おとうとであります、遠慮はいり申しませぬ!!」



「おう、頼りになる義弟おとうとが出来て儂も嬉しいぞ、上杉家は日ノ本の柱ぞ只の柱ではならぬ、屋根を支える大黒柱にならねばならぬ!! 我ら兄弟が力を合わせ御実城様と言う屋根を支えるのじゃ!!」



何も知らぬ景虎と会津に向かう中、軒猿もいつしか自分も景虎という養子となり義弟となりこの義兄と共にこれまでとは違う道をある歩む事を考えれば複雑な心境と言えた、素でな矢は放たれ戻る事は出来ない会津行の一向である。



「見えました、あれが昔の関になります、あそこに大勢の者がいるようです、どうやら那須の迎えの者達です!!」



「あの様に沢山の者達が迎えに来たのか? 100名以上はいるのでは無いか?」



「景虎様が来ると知り配慮したものと思われます、あの先より会津になります!!」



「某、那須小太郎と申します、上杉景虎様でありましょうか、お迎えに参りました、間もなく日が沈みます、この先に天幕で夜明けまで過ごせるよう手配しております、食事の手配もしておりますのでごゆっくりお休み下され!」



「これは誠に出迎え忝い、上杉景虎であります、この度は那須様にお世話になり申す、よろしくお願い申します!」



近くのゲルに案内され夕餉を獲り休む事に、景軒は那須小太郎《鞍馬》のゲルにて仔細を確認する、関に出迎えた者達は全て鞍馬と和田の忍びの者達であり軒猿衆と合わせれば忍びの者達だけで300名を超える大勢が集まった事になる。



「景虎様、那須小太郎殿より明日は会津の城に泊まり翌日に那須に出立するとの事であります、途中雪の状態により板室と言う温泉宿場で一泊泊まるかも知れぬとの事です、会津も雪深い地でありますので仕方ありませぬ!!」



「では早くて三日後になるという事か、こればかりは何ともであるな、御実城様と那須様との話ではどの様な戦模様をご案じしていたのであろうか、柴田が動くとななれば早くて田植えが終わった後と思うのだが!!」



史実でも織田家は上杉謙信が亡くなった事で柴田勝家が上杉家に刃を向ける事になる、天正6年に謙信が死去すると上杉家では御館の乱を経て上杉景勝が当主となる、謙信死後、織田信長は北陸地方の支配を目論み、天正10年《1582年》3月に織田軍は魚津城を4万ともいわれる大軍で攻撃をする、上杉方も3800の兵士で籠城するも城は陥落し落城する、しかし、史実とは皮肉な事に僅か三か月後に本能寺の変が起こり城にいた織田の軍勢は敵地の中の城という事で主君の死に動揺し織田勢は勝手に四散してしまう。



直江と景軒が景勝と景虎に事情を知らぬ振りを行いそれぞれを引き離しする事に成功する、しかし、景虎は会津蘆名で雪の為数日留まり那須烏山城に辿り着き全ての事を知る事になる、景虎の運命は如何に揺れ動く事になるのか、那須資晴と北条氏政が烏山城にて景虎を待つ事になる。




謙信の時世の句として語られる一句。


一期の栄華 一杯の酒

四十九年は 一睡の間

生を知らず また死も知らず

歳月ただ夢中の如し



自分が一生をかけて築き上げた栄華は『一杯の酒』に等しい、四十九年の生涯は一睡の夢のようだ。





ついに時を迎えてしまいました、数百年前の出来事なのに何故か昨日の出来事のように錯覚が、書物って時を超えてしまうって事を作品を通して知りました、不思議ですね。

次章「慟哭」になります。

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