238 忍びの使命
その昔、那須資晴が五才の童の時に鞍馬天狗より語られた忍びの物語、忍び本来の使命が語られていた、その内容は、我ら鞍馬の起源は今より、聖徳太子様の時代に遡り、太子様より帝を守り政を支える者達として、日ノ本に律令の仕組みによる、治世を行う為に、志能便、しのびなる者が、影となり支える者達を任命し各地へ放たれたのが始まりであると。
我ら鞍馬の一党は帝を守り、他の地域勢力より帝のお命は勿論の事、帝を支える使命を与えられた者達なのです、国々に放たれた志能便達は帝を支える地方の豪族の元へ放たれ、それぞれが名を変え使命を全うした、しかし時は流れ時代は、帝を中心とする公家達が行う律令政治から、武家が政を行う治世に変わり、志能便の者達も時代の流れとともに役目が変化し、それぞれの地域を収める武家を仕え始め、いつしか今のように伊賀、甲賀、風魔などそれぞれが別の道を歩むようになったと童の頃に説明を受けていた資晴、この1588年初頭、那須資晴を支える鞍馬と和田そして他家に仕える風魔、軒猿衆達が越後上杉家を騒乱を防ぐべく大きく動いていた、それとは又違う忍びの勢力、伊賀、甲賀、雑賀、根来衆が対信長との戦いが伊賀の地で起きていた。
一方は騒乱を防ぐ為の動きであり一方は敵となった信長との戦であった、この年こそ忍びという者達が表舞台に立ち活躍する戦国期最初の年となった、忍びの者達の戦国期幕開けと言える。
那須家でも正月行事を終え、緊張の面持ちで資晴を中心に評定が行われていた。
「小太郎、忍び衆の配置役割は問題なく完了しておるか?」
「はっ、風魔衆300と軒猿衆100がそれぞれ家に入り備えております!!」
それと、和田衆400も越後内の道不案内ではありますが、それぞれに軒猿衆が付いております、事起これば直ぐに動けます!」
「ではその越後街道はどうであるか? 今は雪に塞がれておるぞ!!」
「御屋形様の言われました騒乱が起こる時期であります、3月が確かであれば雪解けも始まっております、騎馬に人を乗せ移動出来るでありましょう、それと峠には幾つかゲルを作り雪深い処には人を配置し除雪を行う手筈になっております」
今では那須と越後は隣通しであり山を背に接している、越後に通じる道の名を越後街道と呼ばれている、会津若松市中心部から七日町を経由し、阿賀川を渡り県境の鳥井峠に至る、鳥井峠を経た後、現在の東蒲原郡阿賀町津川地区を経て阿賀野川を渡り諏訪峠を通り現在の新発田市に至る。
「峠での除雪とは辛かろう、その者達には雪があろうが無かろうが手厚く銭を渡すが良い、では今の処問題は無いと見て良いのだな、後は受け入れる北条殿は城の用意完成しておろうか、誰か詳しく知る者はおるか?」
「某十兵衛が見て来ております、以前の江戸城は古く小さい城でありましたが、曲輪も新しく完成しており小さいながらも新しい立派な城になっておりました、城の町割りも整備され領民町人は既に人が住んでおります、侍屋敷も多数完成しており、文句のつけようがありませんでした、しっかり銭を使い総力をあげ取り組んだと思われます!」
「無事に間に合わせたか、儂も洋一殿から聞いた時が一番驚いた、あの江戸の地に100万人が住む地となる話を聞き腰を抜かした、それもその地を治める者が徳川家康だと言うから、そんな馬鹿なといろいろと質問をしたもんじゃ、歴史はどうなるか我らの時代では違うであろうが、それだけ福に満ちた地である事は確かな様だな、そこであれば大丈夫であろう!!」
「100万人でありますか?・・・・恐ろしい数でありますな!! この下野の国全てを合わせても半分もありませぬ、途方もない恵みの地でありますな!!」
「洋一殿達の歴史では家康が江戸に幕府を開くそうだ、我らとは全く違う事になるかと思うが、それはそれで面白い話であると理解したのよ、場合によれば北条殿が幕府を作るかも知れぬゆえ、そけはそれで良い事であろうと納得した!! まあー今の処どうなるか、それより景虎殿である、それをどう上手く運ぶ事が出来るかである!!」
お館の乱が起こる事を前提に上杉家の直江兼続と軒猿は動いており、その元に多くの忍び達がいざと言う時に動ける手配をしていた、北条家では氏政の弟であり氏康の七男景虎を乱にて死なす訳には参らなかった、北条家では武蔵の地の中から那須資晴からの助言で足立郡、葛飾郡、豊嶋郡、蒲原郡の地を与える事にした現在の東京23区と言える、河川の中州が入り乱れており水には困らぬ地である事、埋め立てを行う事で豊かな農地が沢山出来る事、洋一達の史実では100万人が暮らす日ノ本一の大きい都市に生まれ変わる話を聞き、その地を江戸と称し18万石の石高を景虎の為に割る事にした。
上杉家を継ぐ事となれば優に100万石を超える家ではあるが何れそれに見合う地にもなる可能性を秘めており決して悪い話では無いと、お家騒動で家が割れ、一年後には亡くなる運命を知る事となれば景虎も受け入れるであろうとの差配であった、そこには兄弟を思う配慮がしっかりと施されていた。
このお館の乱で歴史学者の多くは、乱が起きた際に北条家では影虎を支援せずに景虎側が景勝側に負けた、景勝側が勝った理由として北条家が支援しなかったとの説が多くある、しかし、それは諸説の中の一部であり、卒中で倒れ亡くなるまでの期間が短く景勝側の陣営が素早く春日城の本丸を抑えた事が勝利の大きい要因との説もある、最終的には地の利を生かした景勝側が勝利するが、景虎陣営も戦の中では有利な場面を何度も展開されたとある、景勝側が勝利出来たのは薄氷の差であった事が伺える、騒動により景虎側に付いた多くの重臣達も亡くなりそれが関ケ原まで影響する事になる、単なるお家騒動と考えるより家を二分した大戦と言える。
── 忍びの使命 ──
「小太郎よ、その昔義父殿より忍びの始まりについて聖徳大使より使命を頂いた者達であると聞いて記憶があるが済まぬが知っている事をもう一度教授して欲しい、此度の事を考えると忍びの使命は重き事と言える、侍の者達には余りその事が使命が伝わっておらぬ様に感じる節がある、皆に教えて欲しい!!」
「判り申した、では皆さま良い機会かと思われます、今一度お聞き下さい、朝廷の政を広く日ノ本に流布し推し進める為に、律令の仕組みを各地の豪族に、推古天皇の摂政を務めていた聖徳太子様が御示しになり多くの領主が朝廷を中心に、帝を中心に国造りが進みました、それが今の大元になります日ノ本六十六ヶ国の形になって行きます、その律令を推し進める際に聖徳太子様に仕えた『大伴細入様』に『志能便』という称号を与え、それに仕える者達が志能便と呼ばれ、大伴細入様が鞍馬天狗の祖と言えます、ここまでは皆様が知る話かと思われます」
「御屋形様にまだ伝わっていない話もこれよりお話致します、某の母の名は伴と申します、大伴細入様の名前の一字を取りまして伴が鞍馬天狗を支える正室の名を継承しております、今は義母となりました伴はその名を継ぐ者でもあります」
「ほうそれは初耳であった、では義母殿の伴という名は聖徳太子様の時代より受け継がれている名であるな、実に尊い名である!!」
「はっ、ありがとうございます、それとその志能便達はその後、帝を支える豪族達を陰から支える為に仕える事になります、時代は武家が政を行うようになり、豪族達を陰から支えていた者達もいつしか、甲賀、伊賀、風魔等に別れていきます、そして最初に大伴細入様の元で働いた者達は帝を護る特別の者となり今に至る事になります、要は忍びの頂点は鞍馬となりそこから枝分かれしたのが他の忍びであります」
「では武家に仕えていた者が銭雇となる者達は支えていた主家を失った者達が多いと言う事であるか?」
「はっ、その多くが主家を失い、又は支えていた家が衰え忍びを養える事が出来ずに離れた者も多くその者達は銭雇として費えを得ている事になります」
「ではその銭雇の忍び達は支える主家が誕生した場合は又陰より支える者達に戻ると言う事であるか?」
「全ての者が戻るかは判りませぬが多くの者達は主家が出来る事を望んでいるかと思われます、根無し草は辛かろうと思われます!」
── 伊賀 ──
第一次天正伊賀の乱、北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正4年《1576年》に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、信長の命により次は伊賀国の領国を狙っていた、1577年夏を過ぎた頃に北畠が利用していた丸山城を信雄は滝川雄利に修繕と伊賀攻めの拠点となるように改修を命じていた。
これを知った伊賀国郷士衆の忍び達は、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった、この時の様子が、丸山城指図に記されている、 山城也、此山根置周取廻六百九十六間、山下地形よ里山までの高サ三十間有南方を正面とす 麓より二の丸へ越登道九折にして六十九間 山下整地広さ南北四十四間 東西二十五間 右整地之内に三層の殿主あり天守台六間四方台の高さ三間四方石垣なり、と、江戸中期の藤堂藩士 岸 勝明の著作伊賀旧考に調査報告の資料が残されている。
丸山城は3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。
すぐさま伊賀の主な面々が集まり密談する事になった。
「これで伊賀攻めは間違いない事が証明された、では我らは如何戦うが宜しいか衆議致そうではないか!」
「ではこの百地の案を聞かれよ、敵の城を修繕している者は今は織田信長の重臣として用いられている甲賀の流れの家である滝氏の末裔である滝川一益の家の者であり滝川の一族の者である、先ずはその者に痛い目を合わさねばならぬ、主命とは言え我らに敵対する為に城を修築しているのである、その城を襲って打撃を与えては如何であるか、忍びに敵対する事を先ずは親切に教えて上げねばならぬ!!!」
「むむ・・百地殿、城を破壊すると言うのだな!?」
「如何にも敵の拠点を潰すのです!!」
「それは良い案じゃ、城が完成すれば城に兵が入る事になる、入ってからでは遅い、完成する前に潰すのであれば兵も少なく此方の被害は無いであろう、実に良い案じゃ!!」
「では完成までに攻撃すべしと致そう」
伊賀の忍び達は集議一決となり、忍び達に総攻撃の指令を出した、不意を突かれた滝川雄利はなすすべもなく人夫衆は混乱し、城は破壊され城に居た者達は伊勢国に敗走する事になった、その知らせを聞いて怒気を撒き散らす織田信雄は手元にいる8000の軍勢を引いて伊賀に攻め入る事になった、この出来事は織田信長には知らさせておらず独断で信雄が行った、信長に知らせる事の方が信孝の例を見ても危険と判断し8000の軍勢で伊賀に侵攻した、世に言う『第一次天正伊賀の乱』である。
史実における『第一次天正伊賀の乱』は翌天正7年《1579年》9月16日、信雄は信長に相談もせず独断で8,000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀の忍び達は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた、夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、数日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。
信雄軍は重臣の柘植保重を討たれるなど被害は甚大となり侵攻は失敗に、信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄は叱責される事に、信長が信雄に親子の縁を切る、と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと考えられる、この信雄の敗戦を受け、信長は忍びに対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく、しかし信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。
この時の戦いで戦に参加した忍び達は1500名とされる、如何に忍びが優秀な者達である事を証明した戦と言える、戦国最初の大名と忍び達との戦であった。
しかし敵となった織田には大軍があり対する忍びの数は余りにも少数と言えた。
忍者だけの物語も面白そうですね、転生作品で良い作品などありますかね?
次章「謙信逝く!」になります。




