234 海賊対海賊
小田家にて守治の代替わりが無事に終了し引き続き二日後には那須皐月姫との婚儀も滞りなく終わった、これにて那須家と小田家はより強い血の結びつきが出来た事になる、一連の祝い行事が終わり那須資晴は守治と行動を共にし、前当主の資胤と小田氏治は別々の行動を取る事に、資胤と氏治は若き日に京にて時の将軍義輝に首を斬れらる寸前となった盟友であり、時を同じくして大家となった共に40代半ばの竹馬の友と言える、引退した者通しという事で小田家の船で霞ケ浦~東京湾一周のクルージングに出かけてしまった、帰りは七日後という思いで作りに出かけてしまった。
新婚の奥方となった皐月も守治の母である、ご母堂が気を利かせ侍女を引連れこちらも初めてであろうとの事で霞ケ浦にクルージングの観光に出てしまった、残された資晴と守治は那須家に引き渡す3000石船の説明を受けに造船ドックに向かった。
「このように近くで見ますと本当に大きい船ですね、これで3000石ですから、南蛮にはこれより大きい船があると聞いております、進んだ国が外にはあるという事ですね!」
「資晴殿より模型の明の帆船を頂き、50石船、200石船、500石船と作り、やっと出来たのが3000石の船であります、これ以上大きい船となると帆が3本では無理となります、和船よりは早いでしょうが、同等の足早い船にするには帆が3本では無理であり、恐らく5本の帆柱を建て操る事になるでしょう、作る事は可能でしょうが、操船する帆を操る者達の熟練者が30人は必要となります、今は3000石船を各家で2~3隻を用意さる事に全力をあげております」
「那須の大津でも今500石船と1000石船を造らせておりますが、3000石は無理の様です、船大工幸地の話ではそこまで大きい船を造るには内浦の波の静かな場所に造船所が必要だと、大津は外海に面しているので海が荒れた時に被害を受け造船所も壊れるであろうと、1000石船が限界だと申しておった」
「小田家はこの浦があるお陰です、条件が良かったのです、海賊衆の菅谷一族がいたお陰で船の事を良く知る者達が多く、私も大分助かりました、那須家の分もしっかり作りますのでご安心下され!!」
「那須も沢山の木材を送るゆえ、守治殿に力を借りるしかありませぬ!!」
「北条家の3000石船はどうなりましたか?」
「一隻は既に渡しており就航しております、もう一隻作っておりますが、三隻目は自分の処で作るとの事です、北条家でも大きい造船所を作ったようです、小田原の海も湾の内浦となっておりますので問題無いかと思います、北条家も多くの海賊衆がおりますので助かります」
その後、城に戻り仲良く配下の者達と一献酌み交わす中、那須烏山より忍びの和田衆から厚めの文が資晴に届いた、和田衆からは話では京にいる繋ぎの和田衆より織田家と毛利家の海賊衆による戦模様が記されている文との事であった。
一献酌み交わし和やかな場が文により一変した、読み始めて行く内に文を守治に渡し織田の海賊衆と毛利の海賊衆が行った海戦の詳しい内容が書かれており、自分より海の事に詳しい守治に解説を求めた。
「某が先に読むより、一緒に読みましょう、出来ましたら守治殿解説をお願いしたい!!」
「判り申した、菅谷もここに来て一緒に読むのだ、正確な事を資晴殿にお伝えするのだ!!」
「はっ、承知致しました」
文の内容は昨年秋からこの春まで行われていた大阪堺周辺の海で顕如が立て籠もる本願寺に兵糧を送る毛利家の海賊と織田家の海賊との戦であり、信長が負けた戦の事であった。
「ここに書かれておる村上という海賊衆は毛利の海賊であるな、それで間違いないであろうか?」
「はいそれで間違いありませぬ、某の知る所ではこの日ノ本で一番大きい海賊衆の家が村上という家になります、西国の家でありますので毛利側の海賊になります、それとこの村上ですが、那須様の祖であります与一様が参戦致しました、あの源平の戦での海戦でも源氏側に付き勝利をもたらせております、その家で間違いありませぬ」
「ではここに書かれている九鬼という海賊衆は何処の者じゃ? 菅谷殿知っておるか?」
「九鬼の名も有名な海賊の家となります、伊勢の地の海を支配している者達になります、九鬼の海賊衆は大変粗く粗暴なる海賊と聞いております、伊勢の海を利用する際の関税《通行料》を支払わない船は、相手が誰であれ沈める海賊と聞いております、その者達の事かと思います」
「ではここに書かれている事は本当に陸では無く海で船での戦であるな、守治殿この戦、我らにとって詳しく知らねばならぬ事が沢山あるようです、守治殿が大海将となり指揮を執り戦となる場合に実に参考になる海戦かと、どうして一方が勝ち、一方が負けたのか、天下人に近い織田家の海賊衆が負けたと書かれております、実に参考となる話かと思われます!」
「資晴殿の言われる通りであります、菅谷これより気の利いたる者を大阪に向けまだまだ続くであろう本願寺の戦の模様を調べるのじゃ、本願寺は中州の島々から出来た地と聞いておる、兵糧は一度だけではあるまい、何度もある筈じゃ、その都度海戦があるやも知れぬ、織田が勝った場合、負けた場合とその都度要因がある筈じゃ、気の利いたる者を大阪に派遣せよ、戦がある度に内容を知らせるのだ!!」
「判り申した、急ぎ人を送ります!!」
「菅谷殿、某の手元にいるこの真田昌幸もお連れ下さい、この者、戦の事儂よりも先読み出来る者です、今では儂の片腕になっております、気の利く者であります、織田家と毛利家の戦全般を調べねばなりませぬ、御屋形様どうかよろしく願います」
「勿論じゃ、真壁が右腕と申す以上、儂の右腕でもある、菅谷この真田も入れよ、ここまでの話聞いておったな、真田頼むぞ、小田家が、儂が誰よりも知らなければならぬ戦である、念入りに調べ上げるのだ!!!」
「はっははー、この真田御屋形様、真壁様のご期待に必ずお応え致します、菅谷様よろしくお願い致します!!」
「真田と申したな、ちとここにもそっと来るが良い、大阪での海戦だけでは無い陸での京での動きも確かめるのだ、儂が文を書くゆえ、京に残る和田衆を使え、それとそなたに銭を預ける京を護る、内裏を護る者に渡すが良い、ある物を授ける宿の欄干にそれを垂らせば向こうから勝手にやって来るその時に儂の書いた文と銭を黙って渡して欲しいのだ!!」
「はい那須様、それでしたらお安い御用であります、では失礼致します!」
「まだ失礼せずにしっかり飲んで行くのじゃ、今行くわけでは無いのだ儂も今は文を書けぬ、のう守治殿!!」
「そうである、真田よ最後まで付き合うのじゃ!! 処でここに書かれている文に毛利が用意した兵糧とはもしや、資晴殿のあれではあるまいか、噂には聞いておりましたが、何でも相場の3倍で売ったと言うあれでは無いでしょうか?」
「御屋形様何の話でありますか、某真壁は何の事が知りませぬが、後学の為是非お教え願いたいで御座る!」
「・・・仕方ない面白い話しゆえお教えしようでは無いか、儂の婚儀の時に北条家から姫をもらう時にとんでもない出費をしたのじゃ、此度は小田家でも大層な出費となったかと思う、皆様には申し訳ない、そして儂の時の北条家に費やした出費によって那須家では現物の銭が底を付いたのじゃ、北条家に全部持っていかれたのじゃ、底を付いたので配下の者達からも銭を借りて色々と支払いなんとかなったのじゃが、その際に毛利の商人が米を買いに来たのよ!!」
「那須の蔵にはたんまりと米等は沢山あるが銭が無い、そこでその商人に米等を相場の3倍で売ったのよ、それでなんとかトントンとなり銭も正直蔵に入れる事が出来たのよ、守治殿は今回の毛利が送った兵糧はその時の那須が売った米では無いかとの話である、実は儂もさっきからそのように思っていた、きっと那須の米が顕如に届いたのだと!!! あっはははは」
「そうでありましたか、些か身近な話であります、実は我が家も此度の御屋形様の一連の祝いが重なり御屋形様に大金を貸しておりまして、今の話他人事ではありませぬ!!」
「私、菅谷も同じであります、この小田家も今大変な事になっております、常陸から銭が無くなりました、那須様どうすれば良いでしょうか、知恵を貸して下され!」
「本当に済まんかったのう、その銭は儂の配下の者達が祝儀として持って行ってしまった、でも安心して大丈夫じゃ、そこにいる梅の采配でしっかりと銭は戻るであろう!」
「えっ、そこにおります侍女様の采配で、でありますか?」
「先ずは、一番最初に銭を獲りまくったのは誰であるか?」
「・・・最初は北条様でありましょうか?」
「そうじゃ、その次は誰じゃ?」
「失礼ですが、那須様です」
「そうじゃ、残念であるが那須の者達が小田家からご祝儀として頂いてしまった、そして最後は誰がとる番じゃ?」
「最後と言われても姫君が北条氏直様に嫁ぐのは明年であります、明年の事を今から言えば鬼が笑いましょう!!」
「確かにそうとも言えるが明年には北条家からご祝儀が配下の者達には行き渡る、そしてもう一つ、儂の侍女である梅の采配とは、次に送る兵糧を今度は小田家で売るという話じゃ!!!」
「なななんと、小田家にて顕如に売るのですか?」
「そうじゃ、既にその商人には紹介状を渡しておる、どうせその銭は顕如の銭で買う銭であり強欲の者達の銭であれば気にせずに又も3倍で売れば良いのだ、これがそこにいる梅の采配と言う知恵である!!」
「凄い事を進言なさる侍女殿でありますな、それで那須様は如何ほどの量をお売りになられたのでしょうか?」
「全部で米等穀物と倉庫にある砂糖も入れて1万5千石程じゃな!!」
「という事は5千石を売って1万5千石になったという事でありますな!?」
「計算がちと合っていない、1万5千石売って、4万5千石になったのじゃ!!!」
「えっえっ・・・・4万5千石ですと・・・一度の商いで? 信じられん、あともう一回代替わりと婚儀をしても御釣りが来る・・・恐ろしい商いでありますな!!!」
「これで安心したであろう!!!」
村上水軍は、日本中世の瀬戸内海で活動した水軍《海賊衆》、その勢力拠点は中国地方と四国地方の間の海域であり、能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家を村上水軍と言う。
彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺がある、活動は輸送、航行船の破壊、略奪、安全を保障する代わりに、通航料の徴収である、平時は漁業を行う漁民である。。
文に書かれた内容は主に1576年《天正4年》の第一次木津川口の戦いでありこの春までの大まかな事が記されていた。
九鬼水軍は、志摩国を本拠とし、九鬼氏に率いられた強力な水軍であった、基本は織田に組している水軍である、毛利との最初の第一次木津川口の戦いで織田の九鬼水軍は村上水軍に大敗北してしまった。
九鬼水軍は、織田信長方の水軍として近畿圏の制海権を持ち志摩水軍とも称する、数年後に九鬼嘉隆は鉄甲船(鉄板で装甲した巨大安宅船)を建造した。
九鬼嘉隆は最初伊勢国の北畠氏に属していたが、後に織田信長に仕え、長島一向一揆攻めには九鬼水軍を率いて加わり、手柄を立て志摩国の支配を認められ国主に任命された。
その後の石山本願寺攻めでは、大砲をのせた鉄張りの船を製造して、毛利軍を打ち破るなど名を轟かせた、この時堺港で鉄張り船を見た南蛮人は大変驚き海戦を制し本願寺顕如と和睦し顕如は本願寺を離れ追われる事になる。
史実での九鬼水軍は小田原城の北条氏攻めと豊臣秀吉の朝鮮出兵の時も活躍しており朝鮮出兵の時は伊勢国大湊で製造した日本丸と云う船が巨大船団を率いて九鬼水軍の長として戦った、信長、秀吉という戦国期の代表する海賊衆となり九鬼が作った鋼鉄船は日本丸は長さ33メートル、漕ぎ手100人だったと言われている、船の名前、日本丸《2400石船》は豊臣秀吉が名づけたとされる。
有名な村上水軍が出て来ました、舞台は完全に今日から中国、九州方面に変わりましたね、残念ですが荒れ狂う西の戦いは別の方にお任せ致します、相当やばい炎の国だらけです。
次章『海戦模様』になります。




