232 小田家と北条家
1557年3月15日那須家二十一代当主那須資晴が誕生した事を受けて小田家、北条家でも大きく動く事に、小田家では5月に元々那須資晴の妹皐月が小田家嫡男守治に嫁ぐ事になっており慶祝の準備滞りなく進めていた、そこへ那須資晴より三家の命運は残り6年半、最高の状態に仕上げるには5年後には完成していないと三家の命運は危険だとの文が届く、那須資晴が未来の460年後の洋一と繋がっている事を充分承知している小田家の当主及び重臣達は那須資晴と同年代の嫡子守治の跡目相続を同時に行うのが良いと当主の小田氏治に進言した。
小田氏治の中でも近い内に代替わりを当主の引継ぎを時節を検討しており、そんな最中に那須資晴から残りの期間が明示された事と重臣達の進言もあり問題なく家中一同が守治への跡目相続が出来ると判断し婚儀に合わせて同時に代替わりを執り行う事とした。
小田家と那須家は元々小さい家であり対佐竹との戦いの中、二家が連合した事で戦に勝ちそれ以来両家の繋がりは関所も廃止され行き来往来も頻繁に行われ配下の侍達も含め小田家=那須家との感覚が生まれており両家が一体の中で今では260万石という数十倍の大家に生まれ変わっていた。
その両家の結びつきがより強固となる守治と皐月との婚儀、これ以上ない最高の場面で代替わりする事に常陸上総の領内は大騒ぎの慶祝となった、上から下までやんややんやの大騒ぎとなり田植えの時期を迎え、大変な労作業にもより力が入り一粒でも多くの米を年貢として納め自ら祝いの気持ちを表したいと願う農民達であった。
小田家が動けば北条もその動きを察知し、三家の頭領と言う自覚の中、幻庵、氏康、氏政、そして嫡子氏直にて談合が行われ、7月に当主氏政から嫡子氏直に代替わりする事になった、当然那須資晴からは残りの勝負が決まる期間を知らされ北条家も勝負処の入り口に差し掛かった事を理解した。
北条家の覚悟と那須小田家の覚悟は出発点が違う為些か違っていた方向性は同一だが三家連合を組む時に那須資晴より北条が負けた経緯を、小田原の城を開城し降伏し氏政が切腹し、氏直が高野山に追放となり北条家は滅亡する、その際に多くの他家を巻き込み滅亡する、その他家の中に那須家、小田家が含まれている事に驚きと衝撃を受け、那須資晴が考えていた以上の衝撃を北条家首脳は受けていた。
北条早雲を祖にして100年に渡り戦国を代表する大家となり関東の雄として轟く北条家が僅か半年も絶え目事出来ずに落城し敗北となり他家まで巻き込む、北条家を支援した家まで滅亡させるという話に驚きという表現では済まされなかった、関東の雄としての自覚が全て吹っ飛び、他家まで滅亡に追いやってしまう責任は氏政一人が切腹という事では済まされぬ、史実ではそうであったかも知れないが、それを先に知ってしまった以上絶対にその様な結末を回避しなくてはならないと幻庵、氏康、氏政はこの十年間を多くの事を史実に無い事を挑んで来た。
小田原城は早雲が伊豆を支配時より平城であった城を大きく拡張し難攻不落の城を目指し氏康の時にほぼ完成となる、しかし、那須資晴と三家連合してより城が落城した事聞き、この10年間更に巨大化し小田原の町を呑み込み、近隣の領民をも保護出来る威容となっていた、史実では15万の軍勢で囲まれ身動き出来ずに落城している事を考えそれに充分対処出来る城づくりを延々と行って来ていた。
本来であれば前当主氏康は1571年10月に中風にて亡くなると聞き、資晴から減塩と酒を嗜む量を注意され日々精進し病気とならずにこの時を迎えていた、氏康はこの時62才、北条家を関東の雄に押し上げた戦上手の戦国を代表する武将である、その武将が現当主氏政に発破を掛けこの十年間小田原北条家をより押し上げて来た。
氏政にはもう一人油断できない、手を抜けない大物が目を光らせていた、早雲の子であり北条家の軍師、北条幻庵73才、史実でも85才まで長寿を全うする、幻庵は軍略家でもあり外交官でもある、箱根権現社別当でもあり、箱根一帯の領主であり寺社仏閣の頭領という大物が氏政を監督し、一段上の武将として育てていた、氏政は史実とは違い那須資晴の影響を受け、物事を大きく動かせる武将に育ち、その背中を追いかけ育った嫡子氏直が北条家で表に出る事になった。
氏政の嫡子氏直、この時15才、やや早いとの意見もあったが6年後には充分な経験を得た当主になっているであろう事、父氏政、祖父氏康、軍師幻庵が生存している中で代替わりが行われる事がより好機であるとの氏政の判断で7月に代替わりとなる触れを領内及び三家にも通達された。
1577年三家連合は当主を新たに本格的な新時代に挑戦を開始した、当主が変わるという事はその家を支えている重臣配下も那須と同じ様に代替わりの好機でもあり小田家北条家でも支えている国人領主多数が代替わりする事に。
戦国時代の代替わりの特徴は意外と早い段階で行われる事が多い、前当主が健在な内に代わる事でお家騒動を防ぎ、新しい当主への権限移譲が出来る点があげられる、戦で当主が亡くなり突如代替わりする事の方が危険をはらんでいる特に幼い稚児当主が誕生した場合は危うい事になる。
── 1577年信長 ──
信長は対顕如との戦いに全神経を使い、本願寺攻めを行うにあたり、顕如を支援する対毛利への戦に舵を切り中国方面に秀吉を前年には任命し秀吉も本格的に活動を始めていた。
それとは別に信長の次男信雄には銭雇の雑賀衆根来衆を弱まらせる為に伊賀攻略を命じていた、信雄も前年《1576年》には北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握しており、56万石という大国を支配していた、その力を伊賀に向け準備を整い始めていた。
北陸方面の責任者柴田勝家は上杉家との和睦にて史実と違い一部の者を残し1万の軍勢を率いて織田本軍に合流していた、史実と違う点がもう一つあった、三男信孝は京周辺の警備を1万5千の兵で行っていた、信孝は反省の色が濃いとして信長に許されており、三好の残党等に京周辺を荒らされる事を避ける為に警備と言う名の警護を任されていた、信長は全面的に許した訳では無く試しとして信孝を使用していた。
何故に信方は三男でありながら殺される寸前までの制裁を受け軽い扱いになっていたのか、織田家が尾張と美濃の二国の大名となるまでは次男信雄と同等の待遇であったが、織田家が上京し畿内を支配下に置き何時しか500万石という大家になる中で三男の信孝を重用するも手柄を上げずに信雄とは仲の悪い息子であり信長の荷物となっていた。
信孝から見れば次男信雄からの度重なる嫌がらせによる妨害で手柄を横取りされるなどで関係が悪化していた、問題は兄弟の出自に関係していた、信忠と信雄の母親は信長の寵愛を受けた生駒吉乃であった、信長の正室帰蝶には子供がいなかった、そして三男の信孝は身分の低い坂氏の娘が側室となり生まれた子供である、要は身分高く信長の寵愛を受けた母親から生まれた信忠と信雄とは腹違いであり身分の低い母親から生まれた信孝という構図がいつしか信長にも影響を与えていた。
織田信長は此れまでに実の弟を殺し、主家の織田親族を殺し尾張を統一して来ている、逆らう者、役に立たぬ者には容赦をしない当主でもある、配下重臣もそれを良く心得ている、その信孝に近づく者がいた、近衛の紹介で氏真邸に歌会に招待され対面する事に、公家の近衛は公の立場ではこれまでに信長派を代表する第一の公家であり多くの事を信長有利となるように朝廷側に働きかけていた、その事を当然知る信孝は近衛からの紹介で今川氏真の館に訪問する事になった。
今川家は公家に近い立場の家であり公家になる事も出来た家柄である、今川義元が最盛期の今川家を作る中、京にいた多くの公家衆を今川家で庇護しており、氏真も公家達と幼い頃より交わる中、蹴鞠を覚え歌を覚えその知識は公家と同等と言えた、歌会には多くの公家が参加しており、信孝にしても雅な世界に足を踏み入れ、公家とはこの様に世間の喧騒とかけ離れた別の者達なのかと不思議な世界に入り込む事になった、これを機に信孝は公家衆とも誼を通じる事になる、信孝19才の時であった。
その頃羽柴秀吉は中国戦線においては毛利氏への播磨侵攻が本格化していた秀吉を指揮官に任じて中国攻めを開始した秀吉は、天正4年7月の時点で信長より中国攻略を命じられていたが、そのときは作戦に専念できる状況になく、翌天正5年10月に、ようやく播磨に入った、秀吉は、すでに信長方に服属していた小寺家の家老小寺孝高の姫路山城を本拠にして播磨・但馬を転戦した。
小寺孝高とは後に黒田孝高となる秀吉の軍師、黒田勘兵衛である、秀吉は自らの力量で他家を手懐け懐柔し、時には調略という手で功を上げ地位を築いて来てが己一人では限界を迎えていた、そんな中同じく己の才能を認め生かせる主を求めていた中、織田家か中国方面に触手を伸ばし小寺家に臣従を求めて来た。
小寺家では否応なしに配下の気配りが出来る配下の小寺孝高を遣わし、あたかも信長に従う振りをするも、孝高は自分の才能を生かす時が到来したと、自らの才能を生かすべく信長に接触し、その才を認めた信長も中国方面を良く知る小寺孝高を秀吉に預け毛利攻略に向けて仕える事にした、これにより既に多方面に渡り手を伸ばし限界を迎えていた秀吉にこれ以上ない優れた軍師『黒田勘兵衛』が秀吉陣営に加わる事になった、ここに黒田勘兵衛が歴史の表舞台に登場する事になった。
秀吉は自分に対して次に打つ手を示す軍師をどれ程望んでいたか、その様な存在は喉から欲しかった、百姓上がりの自分を支え、我が意を得た如く動く分身のような存在を心待ちしていた、特に中国方面の事を知る者は織田家には少なく、対毛利について道しるべとなる知識を持っている者を欲していた。
黒田勘兵衛も己の才を認め重用する主人を求めていた時であり秀吉と勘兵衛は磁石が引き合う様に主従となった、秀吉の力はこの出会いによって大きく飛躍する事になる、勘兵衛の邪魔建てする者は不思議と秀吉の元で文官として育つ石田三成であった、その三成は秀吉の小姓となったばかりであった。
那須家北条家小田家が新時代を迎える中、何れ敵対する事になる織田家《豊臣秀吉》は対顕如、対毛利と舵を切り戦の奥深い深淵の淵に差し掛かった、両者の歩む道は大きく違う方向に歩み始める。