231 那須家第二十一代当主那須資晴
やっと当主編が開始となりました、なんと231回目ですよ、230回も書いたのです、一章がほぼ4000~6000文字近い文章を230回も書いたとは、数ヶ月前に物忘れが多いからと妻に無理やり脳ドックに連れて行かれ検査した処、お医者さんから能には問題ありません、物忘れが多いのは奥さんの言葉だからですよ、どうでもいいと思って聞いているからですと診断を受ける中、なんとか231回目に辿り着けました、皆様ありがとう御座いました。引き続きよろしくお願い致します。
── 覚悟 ──
1577年3月15日那須家に新しい当主が誕生した『那須家第二十一代当主那須資晴』当主となった資晴の物語がこの日より開始された。
「皆の者静かにせよ当主様よりお話がある!!」
「皆の者、那須家第二十一代当主那須資晴である、父上に代わり今日より我が本懐の政を致す、死に物狂いで付いて来るが良い、これより5年以内に那須家の軍勢10万騎を揃える事、六家の家で5万騎、那須本家本陣で5万騎を揃え戦国の世を勝ち上がる、民の暮しを守るは我らの役目、皆の者今日より出世の本懐が始まったと覚悟せよ!!」
資晴の当主の叫び、誰もが変わったのだ、新しい日を迎えたのだと悟った、特に前当主を支えていた者達はこれまでのように当主に付いていれば良いという何処か安穏な気分ではこれからは落とされると特に代替わりが出来なかった家は七家という名誉職では落とされると悟った。
資晴は残された期間はあと6年で最高の戦力が整う状態にしなくては那須の家、三家の家が残れないと洋一から危険な知らせを受けていた、秀吉に対抗するには力という背景が備わっている事が唯一の武器となり秀吉側も那須に力があると認めさせる事で簡単には対処出来ない事を理解させる、その為に具体的な10万騎という数字を示し揃える事にした。
洋一と資晴は三家の中で那須が武力として戦力として一番力がありバランスが整っている家だと、那須が崩れた場合それを補う事は北条家でも無理であり小田家でも無理であろうと両者の中では判断していた、北条家が史実小田原成敗で敗北した理由は、小田原の城を囲む秀吉勢に外から攻撃出来る北条側の援軍となる支城が悉く敗北陥落した事で籠城しか出来ず、戦らしい事は何一つ出来なかった、籠城で時間をかければかけるほど敵に内応する者が増え、力を削ぎ落され自滅した、この事を洋一から詳しい経緯を知らされており、恐らく史実に近い戦が行われた場合に、外から戦える戦力10万騎という途方もない力が史実と違う事に、史実と違う勝ち上がる為の重要な要になると判断していた。
小田家は小田原への兵糧補給と海上からの艦砲攻撃で伊東一帯から三浦までの相模の海岸沿いを敵の手に渡さない事で小田原の包囲網を防ぎその速力を生かし敵の裏をかき一手、一手と局面を動かせる事になる、三家連合の極意はそれぞれが得意の役割を生かし、三位一体の動きが出来る事であり絶妙な関係と言える、資晴か当主となり三家の中心軸が北条家から那須資晴を中心とする時を迎えた。
その後饗宴が開かれる中、和田より今日より資晴様は御屋形様となりました、父上様は前御屋形様となります、そこで呼び名を父上様は大御屋形様となります、母上様はお方様からお藤のご母堂様とお呼びする事に致しましょう、と提案され皆に触れを説明した。
ここに呼び名についてある資料がある、戦国大名北条氏康の娘、鶴松院が、足利将軍家の一門で吉良頼康の養子吉良氏朝に嫁ぐことになった際、氏康の叔父にあたる北条幻庵は鶴松院に『北条幻庵覚書』と称されるようになる書状をしたため、吉良家の家風や格式に関わること、吉良家の正室としての日常の作法やたしなみなどを24箇条に書き記し、細かく教え授けた、とくに舅の頼康は『おやかた様』姑は『御たいほう』夫は『上様』と尊称するように説いたとされる」
和田の説明はあえて皆に聞こえる様に、那須家は戦国を代表する屋形号の家であり殿様、大殿という呼び名は一段下の呼び名であり那須家では蔑称となる事、今日よりは御屋形様であり、正室の鶴様はお方様になります、と釘を刺した。
和田は元幕臣であり如何に格式という物が力を発揮するかという事に熟知していた、格式がある家でありながらその力を知らずに那須家では昔の小さい家が大家になった石高が増えた家と六家の者達は錯覚していた、本来はその逆であり大家になるだけの資格がある相応しい家だという事を那須家全体が暗に享受出切るように皆に聞こえる様に話したのである。
和田は室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕え、力のない幕府を支えた側近であり国家の中枢にいた重臣である、その和田が説明する事で重みのある言葉となり、これまでも多くの外交で功を上げていた、和田は立場上あえて客将という形式を望み、自分の命を救った資晴に生涯をかけ支えると誓っていた、資晴を支える事が成し得なかった幕府を支える事であり使命であると、それこそが和田の本懐と覚悟を決めていた。
資晴が当主となり和田と同じ様に自らの本懐の時が来たと、自分はこの時この日を当主となった資晴と共に迎えた喜びと覚悟を決めた者達が多くいた、その者達こそ一豊であり十兵衛であり半兵衛であり佐竹義重、太郎、長野と言った資晴が手を差し伸べた者達であった。
資晴の中で那須家本陣5万騎の兵である侍達はこの者達と会津蘆名の一門で揃える戦力の中の戦力と言える、この5万騎が那須資晴であり5才の頃より洋一と繋がり育てあげた証である。
この日の饗宴の最中資晴より万座が喜びあう中、敢えて恩賞の話を行った。
「皆の者に告げる、儂が今日このように晴れやかに当主となれた事を感謝したい者がおる、皆全てそうではあるが、特に儂を長きに渡り支え、他の者が先に城持ちとなっても出世を顧みず忠実に働いた者がおる、その者のお陰で儂はこの日を迎えたと言っても良い、その者に那須家の本陣騎馬1万騎を預け馬頭の城を授ける、その者の名は『山内一豊』である、一豊よ、前に来るが良い! 儂が最初に書いた朱印の目録じゃ!! 受け取るが良い!!」
万座の皆から歓声が上がる中、なんの事か判らぬ一豊が十兵衛と半兵衛、太郎に引連れられて資晴の前に押し出された。
「これまで文句一つなく儂をよう支えた、一豊そなたはこれより那須家の守り神となるのじゃ、隣の馬頭の城はそなた山内一豊の城ぞ!!」
那須家本陣を守る騎馬1万騎を預けるという事はこれまでの六家はもとより大関家に代わり山内一豊が中心となったと言える象徴的な大事件と言える、山内一豊は最初に油屋が職人と一緒に連れて来た浪人であった、資晴とはずーっと那須家が発展する中、一豊は実直に応えて来た者であり32才の働き盛りである。
一体何が起きたのか、城を与える、一万騎、誰に? なんで自分が上座に連れられて来たの? と言った具合の一豊にもう一度。
「山内一豊、これまで良く儂の言う事を聞き働いた、そちのお陰で当主となれた、今日より山内一豊は馬頭の城主じゃ、城代では無い、城主ぞ領主である、騎馬1万騎を預けるこれより那須を守るのだ!!!」
なにが何だか判らない解らない悟れないがしかし、一豊の顔からは涙が流れ嗚咽となった。
十兵衛も半兵衛も資晴直属の配下の者達も一緒に涙し喜びあった、山内一豊、ここに馬頭の地にて城主となり国人領主となった。
十兵衛は小山の城、半兵衛は結城白河の城、太郎は甲斐一国、長野業盛は上総半国という地を得ている中、特に領地も無く資晴の騎馬隊を任され戦に活躍していた一豊に最大の栄を万座の中で示した、一豊にとってもこれ程嬉しい報いがあるとは予想もしていなかったであろう。
山内一豊は戦国期の中で実に珍しい足取りを辿る武将である、父親は岩倉織田氏に仕える重臣山内盛豊、その主家である岩倉織田家が織田信長に襲撃された際に討死となり父親も自刃し亡くなっている、不思議な事に一豊はその敵である信長の仕える事になる、信長に仕えていた一豊を秀吉が払い下げ渡され今度は秀吉に仕える事に、秀吉には槍使いがおらず貴重な戦力として当初は重用される。
信長が亡くなり秀吉が力を付け天下取りの中で今度はそれ程力が不要となり、一豊の出世は掛川城5万1千石の城主止まりとなる、しかし同僚である、中村一氏は14万石、堀尾吉晴も12万石と大きく石高が広がり、一豊の活躍する場は無くなり忘れられる、やがて時は移り豊臣家と徳川家の関ケ原の大戦となり一豊は徳川に付き、その戦功により土佐一国20万石が与えられる。
この関ケ原の戦前にある逸話が、一豊は下野国小山における軍議《小山評定》で各諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し軍議が一気に徳川に味方する事になり豊臣恩顧の家臣達が迷うことなく大阪側の対石田三成と雌雄を決し勝利出来た事を大きい戦功を評され土佐が与えられたとの逸話である。
信長に仕え、秀吉に仕え、家康に仕えた不思議な経歴の一豊、一豊から主家を裏切り仕える家を変えた訳では無い、自然と一豊の歩む道がそうさせたのである、関ヶ原の戦いで一豊が20万石という領地を持ち石田側に付いていたとすれば徳川は負けたのでは無いか、ややもすると勝負のカギを握っていたのは一豊ではないのかという説もある位である。
秀吉が一豊を利用するだけ利用し、不要となれば適当に領地を渡し終わりにしなければ、逆転の要素があったのでは無いかという説は確かにそう見れば見えるような感は否めない一豊である。
数日後にお祝いムードの中、蝦夷の義理兄那須ナヨロシクが屋敷に引きこもり駄々をこねる。
「那須ナヨロシク《義兄》そういう訳で梅が儂の側室になります、義兄の事を想うとなんとも言えぬ仕儀となりましたが、どうかご承服下さい!!」
「・・・そうか、理解した、梅の事を頼む、儂はもう寝る!!! 寝る!!!!!」
那須ナヨロシクはこれまでに何度も梅を側室に欲しがり梅を口説くも即答で断れていた、その梅が義弟《資晴》の側室になる事を告げられ、梅も承諾していると聞き、大失恋をした那須ナヨロシクであった、蝦夷の王である那須ナヨロシク、この日より屋敷に籠り自宅警備員となる。
那須家が新しい当主誕生を迎える中、信長は顕如を相手に雑賀衆、根来衆という実力のある武装集団に矛先を向け戦っていた、その隙を突き暗躍する輩のムジナが巣窟より這い出し蠢いていた。
「では氏真殿頼みましたぞ、そなたがこれ程良い仕事をなさるとは帝がお知りになりましたら喜ばれましょう、時が来れば拝殿も許されるでおじゃりましょう、近衛にお任せあれ、うふふふふふ!!」
「近衛様にお褒め頂き嬉しく存じます、瀬名が必要なればいつでも伽を致します、公家の皆様をこの氏真に寄こして下されきっと大きな力となりましょう、のう瀬名、そなたも嬉しいであろうに!?」
「野暮な事はお聞きなされるな、妾の色香があれば皆虜になりましょうに、中将様の御顔を見ればお判りでありましょうに、聞くは野暮と言うものです、彦五郎殿もよくご存じで御座いましょうに!!」
「あっはははこれは儂とした事が調子に乗りしたり顔をして瀬名に聞いてしまった、許してたもれ、では近衛様お言い付け通りにこの氏真もあの者に近づいて見ます、きっとお味方になるかと思います」
「うむ、そち氏真殿が近づき儂が篭絡致せば我らの力となり信長の力は弱まる、近づけば良いのだ、時間をかけ知らずの内に我らの中に引き入れるのだ、瀬名殿も頼みましたよ!! 吉報を待っておりますぞ!!」
今川氏真と瀬名が近衛を引込み信長に対抗する武力と言うという力とは別の力を持つ公家の力を借り信長に恨みある者達と連携を取り蠢く闇の勢力を作ろうとしていた、近衛があえて危険な氏真に近づいた理由には特別な訳があった。
この時近衛は既に同じ公家の敵対していた現関白の二条とは和解しており朝廷が支配する世を消滅させる事は出来ない、信長は必ず朝廷の敵となるであろうと、正親町天皇自らも一連の信長の行動に疑義を増大させていた、その事を誰よりも知る近衛と二条であり、朝廷があってこその公家である、朝廷の力が弱くなれば近衛も二条も弱くなる。
この動きを察知する者が織田家の中に一人だけ存在した、しかしその者はこの動きをじっと見つめているだけであり信長に報告する訳でも無かった、その者には誰よりも大きい我欲がありこの動きが利用出来る時が来るのではと密かに様子を見ているだけであった。
那須家中心の三家と上杉家、織田家、秀吉、そして闇の勢力が蠢き先が見通せません。
次章「小田家北条家」になります。