230 ゴム足
この章では山梨県で起きた戦国期以前よりある特定の地域住民に罹患していた風土病、通称、泥かぶれ・日本住血吸虫症について記載します、数百年に渡り被害を受け、平成8年に撲滅した病について記載します。
当主資胤から資晴が新しい当主になる2月終わり那須家の領内の国人当主達徐々に集まり始め現当主と資晴へ挨拶回りを行い始めて、新当主となる資晴に少しでも好印象をと考え早めに集まり出した、城の城郭内には領主達の滞在出来る館も多数あり、小さき家の者達はそれらの主家の館の世話になり、又は烏山近くの小山、宇都宮、結城の城でお世話になるなど多くの者が代替わりの式に参加するべく早くも参集し始めた。
そんな中、資晴の館で武田太郎に命じていた調査の詳細を確認していた、甲斐の地で起きていた奇病の実態が資晴に報告されていた。
「申し訳ございませんでした、噂は本当でありまりした、某の落ち度でありました」
「では本当に泥かぶれなる奇病が、罹患した者がいるのだな?」
「はい一部の地域ではありますが、これまでに何人も『泥かぶれ』に罹患し命を亡くしておりました、村の中でも罹患した者は家屋の中で人知れず亡くなっていたようです、罹患が知れ渡ると祟り者が出た家とされる為に村長にも告げず知らずの内に亡くなっておりました、申し訳ありませぬ」
「洋一殿より特定の地域での風土病ではあるが危険な病だそうだ、洋一殿の時代の医療でも治らんそうだ、太郎殿が悪い訳でも何でもない、そこで対策はその特定の地域に住む者達を安全な地に移住させるのだ、原因はこの蛍の幼虫が食べる貝と似ている貝が病を持っており、その貝が住む水に触れるとうつる奇病だそうだ、貝を見つけたら触らずに箸で掴み取り除く、水路は埋める、無理なら柵にて人や馬も入れぬ様にする事しか手が打てないそうじゃ!!」
「それでは近づく事も出来ませぬ、作業が出来ませぬが?」
「そこで新しい品を作らせたのじゃ、油屋が沢山持って来たゴムの樹液を知っておろう、あれを利用し足形を作り樹液で出来たゴム足という品とゴム手という品じゃ、これを履いて手に付ければ水にぬれずになんとか作業が出来るかとおもう、但し浅い所の水たまりでも入らぬ事、これは予防のための品じゃ、水にぬれれば奇病になる恐れは充分にある、死に至る奇病じゃ、近づかずに、移住するが一番良い、作業も乾季の雨が降らぬ秋が良いと思う、日照りの時も良いかも知れぬが、何しろその地域の水路、沼地の水に触れては危険じゃ!!」
風土病とは、ある限られた地域の気候、土壌、生物相などの自然条件と住民の風俗、習慣などがあいまって起こる病気の総称。地方病とも呼ばれる。
地方病の代名詞、日本住血吸虫症は山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民らに多大な被害を与えた感染症、ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。
日本住血吸虫症とは、住血吸虫科に分類される寄生虫である日本住血吸虫の寄生によって発症する寄生虫病、ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する人獣共通感染症。
日本住血吸虫はミヤイリガイという淡水産巻貝を中間宿主とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫が寄生、寄生された宿主は皮膚炎を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が肝門脈内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で生殖産卵を行い、多数寄生して重症化すると肝硬変による黄疸や腹水を発症し、最終的に死に至る。
主に発症する地域は山梨県甲府盆地底部一帯。
利根川下流域の茨城県・千葉県および中川流域の埼玉県、荒川流域の東京都のごく一部、小櫃川下流域の千葉県木更津市・袖ケ浦市のごく一部、富士川下流域東方の静岡県浮島沼(富士川水系に含まれる現:沼川)周辺の一部、芦田川支流、高屋川流域の広島県福山市神辺町片山地区、および隣接した岡山県井原市のごく一部、筑後川中下流域の福岡県久留米市周辺および佐賀県鳥栖市周辺の一部。
日本国内では以上の6地域にのみかつて存在した風土病、上記のうち、甲府盆地底部一帯、広島片山地区、筑後川中下流域の3地域が日本住血吸虫症の流行地として特に知られていた。
中でも甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯であり、この病気の原因究明開始から原虫の発見、治療、予防、防圧、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。
現:笛吹市在住の医師である吉岡順作《山梨県医師》は、この奇病に関心を持ち、患者を詳細に診察し、近代西洋医学的な究明を試みた最初期の医師である、発病初期に腹痛を伴う血便、黄疸があり、やがて肝硬変を起こし、最終的に腹水がたまって死に至る。これらの臨床症状から考えると、肝臓や脾臓に疾患の原因があることは明らかであった。しかし、酒を飲まない小児であっても発病するので、アルコール性肝硬変とは明らかに異なっていた。
吉岡は調査する中、患者の発生する地域分布図を作成したところ、笛吹川の支流流域の水路に沿った形で罹患者が分布していることが分かった、その上、病気のある地区では、川遊びをする子供たちに対して、きれいだからといってホタルを捕ると、腹が太鼓のように膨れて死んでしまう、セキレイを捕まえると腹が膨れて死ぬ、などの戒めタブー、迷信が残っていた。
これらのことから吉岡は、この奇病と河川、あるいは水そのものが何らかの形で関係しているであろうことを突き止めたが、それでも病気の原因は分からなかった、万策尽きた吉岡はついに、死亡した患者を病理解剖して、病変を直接確かめるしかないと決断する。
しかし当時の人々にとって解剖はおろか、手術によって開腹することですら世にも恐ろしいことと思われており、普段は威勢のよい男性でも、死後とはいえ自分の体を解剖されることには極度に脅えたといわれている、実際に山梨県では明治中期の当時において解剖事例は皆無であった。
1897年《明治30年》5月下旬、末期状態の女性患者が献体を申し出た、農婦の杉山なか(54歳)である、なかは40歳を過ぎた頃から体調に異変を来たし、地方病特有の病状が進行し、50歳を過ぎると典型的な水腫症状を起こし、穿刺による腹水除去が吉岡医師によって数回試みられたが効果がなく、やがて手の施しようのない状態に陥った。
なかは、順作先生、私の腹の中にある地方病は何が原因なのでしょうか、と尋ねたが、原因が分からない吉岡は肝臓に原因があることは間違いないのだが、詳しいことは開腹して肝臓を直接確かめるしかないのです、と答えるしかなかった。
私はこの新しい御世に生まれ合わせながら、不幸にもこの難病にかかり、多数の医師の仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、ついに起き上がることもできないようになり、露命また旦夕に迫る、私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない、願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。
死体解剖御願、杉山なか。明治30年《1897年》5月30日。原文、死体解剖御願 1。
吉岡の献身的な治療に信頼を寄せていたなかは、なぜ甲州の民ばかりこのようなむごい病に苦しまなければならないのかと病を恨みつつも、この病気の原因究明に役立ててほしいと、自ら死後の解剖を希望することを家族に告げる。
最初は驚いた家族であったが、なかの切実な気持ちを汲んで同意し吉岡に伝えた。当時としては生前に患者が自ら解剖を申し出ることは滅多にないことであり、あまりのことに涙した吉岡、家族と共に彼女の願いを聞き取り文章にし、1897年《明治30年》5月30日付けで県病院(現:山梨県立中央病院)宛に『死体解剖御願』を親族の署名とともに提出した。献体の申し出を受けた県病院第6代院長下平用彩と県医師会は、驚きながらも杉山家を訪ね、命を救えなかった医療の貧困を直接なかに詫び、涙ながらに何度も感謝の言葉をなかに伝えた。
杉山なかは、解剖願いを提出した6日後の6月5日に亡くなり、遺言通り翌6月6日午後2時より、県病院長下平用彩医師執刀の下、杉山家の菩提寺である盛岩寺の境内で吉岡ら4名の助手を従え解剖が行われた。
今日でいう篤志献体であるこの解剖は、地方病患者のという以前に、山梨県下では初の事例となる病理解剖であったため、甲府近隣から57名もの医師、開業医が参加した、この様子は、翌々日の6月8日付山梨日日新聞の紙面において、東山梨東八代医師会会員総代吉岡順作本人による、長文の弔辞とともに報じられている。
遺体から肝臓、胆管、脾臓、腸の一部が摘出されアルコール漬けにされ、参加した医師たちは肥大した肝臓の表面に白い斑点が多数点在するのを確認、通常の肝硬変と異なり肝臓の表面には白色を帯びた繊維模様のものが付着、肥大化した門脈には、多数の結塞部位が認められた、この門脈の肥大化にこそ、この疾患の原因解明への手掛かりがあった。
盛岩寺の屋外解剖に参加した医師の中に、後年この奇病の原因解明に大きな役割を果たすこととなる、若き日の三神三朗医師がいた
三神は県病院の病理技師から杉山なかの肝臓には変形した虫卵の固まりを中心とする多数の結節が出来ており、同様の虫卵と結節は腸粘膜にも認められ、虫卵の大きさは従来から知られている寄生虫の十二指腸虫卵(鉤虫)より明らかに大きいと知らされ、この奇病はまだ知られていない新種の寄生虫が大きく関与していることを確信した。
当時は高価であったドイツからの輸入品である顕微鏡を自費で購入すると、三神は罹患した複数患者の便を集め、いくつかの便から今までに見たことのない大型の虫卵を見つけ、『肝臓脾臓肥大に就て』の題で1900年《明治33年》発行の『山梨県医師会会報第3号』に報告、同会報には杉山なかの解剖を執刀した下平用彩医師、さらに軍医石井良斉による同疾患に関する報告もされたことから、俄然この奇病の原因解明に向けた機運が高まり、県医学界の重要研究課題となっていった。
この奇病、日本住血吸虫症はヒトだけではなく他の哺乳類にも発症する。そのため甲府盆地の各所では、農耕で使うウシなどの家畜や野良犬など、哺乳動物の腹部が大きく膨らんでいる姿が多数見られた。
日本住血吸虫は、腸から肝臓へ血液を送る肝門脈の中で宿主の赤血球を栄養源とし、雄が雌を抱きかかえた状態で寄生し、雌は門脈の中で産卵する。血管中(血液の中)に産まれたはずの卵が消化器系を経由し糞便の中に出てくる理由は、腸管近くの腸間膜血管に運ばれた卵がタンパク質分解酵素を放出することによって周囲の腸壁を溶解し、卵ごと腸内に落ちるからである、その一方で血流に乗った虫卵は肝臓に蓄積され、同様に放出されたタンパク質分解酵素により肝臓内に結節が形成され繊維化し、やがて長期間にわたる虫卵の蓄積で肝硬変を発症する。
このように日本住血吸虫は、腸内や胆管などの消化器官に寄生して産卵する従来から知られていた他の寄生虫とは全く異なる寄生様式を持っていることが、その後の検証により解明された。
農民たちが泥かぶれと呼んでいた皮膚のかぶれは、日本住血吸虫の幼生が、終宿主である哺乳類の皮膚を食い破って侵入する際に起きる炎症であり、今日ではセルカリア皮膚炎 と呼ばれている。
ヒトへの感染ルートが飲食物経由ではなく、水を介した皮膚経由であることが判明したことは、その後の感染予防対策の困難さを予見させるものであった。経口感染であるなら飲食物の煮沸によってある程度は感染予防が可能であるが、肉眼で見る限り汚濁もなく清潔に見える、小川や水田などの自然水を介した経皮感染となれば簡単な話ではない。健康な皮膚であっても感染罹患する日本住血吸虫症の予防対策は困難なものであり、後述するように病気の撲滅には長い年月を要することに。
一向に減らない地方病に感染防止の難しさを感じ、この奇病を根本的に根絶するには中間宿主であるミヤイリガイの撲滅しかないと考え、ミヤイリガイの天敵であるホタルの幼虫を増やすための餌となるカワニナを多く育てホタルを増やす事にした、他にも水路を埋め、ミヤイリガイの生息地を減少させるなど、やがてそれは官民一体による地方病撲滅運動に発展し、1925《大正14年》年に『山梨地方病撲滅期成組合』が結成され、終息宣言を迎える71年後までの長期間にわたり山梨県民一丸となって進められた。
日本人の凄い処は困難に直面すると団結し立ち向かう遺伝子が流れているのではないかと思う、果てしない見えない敵、寄生虫という病魔との戦いに71年間も費やし勝利した山梨県民を称えたい、それと検体を申し出た一人の婦人『杉山なか』の存在は語り継がれる事であろう、医師の吉岡順作氏と三神三氏には敬意を表したい。
泥かぶれについて記載した理由、約35程前に私の息子が『川崎病』という名の難病に罹患した経験があったので記載する事に、当時初めて聞く病名に驚き、何か恐ろしい公害に関わる難病でもなったのかと親戚も含めていろいろと情報をえる事に奔走しました、その際に偶然にも1967年に小児科の川崎富作先生がこの病気について発表されその難病指定になるのですが、この川崎先生と電話で話が出来たのです、息子の症状と入院している病院など話し、きっと大丈夫だと心配しない様にと励まされた記憶があります『泥かぶれ』という苦しまれた歴史を考えれば是非作中に何らかの形で書くべきと考えました、詳しく知りたい方は
『泥かぶれ』で検索すればヒットします。
次章「那須家第二十一代当主那須資晴」になります。