228 雪遊び
12月に入り真冬本番の前の板室温泉に資晴の正室鶴と梅、忠義、千本、福原、一豊、太郎、十兵衛、半兵衛、佐竹、長野、飯富、錦小路、鞍馬天狗、菓子職人飯之助、船大工幸地、村長幸地等多くのこれまで資晴を支えた武将や職人の奥方を連れて板室温泉に逗留する事になった、当主となる成る前にこれまでの慰労を兼ねての骨休みを休養期間をプレゼントした、勿論楽しみにしていた鶴姫と梅も同伴している、総勢120名の大所帯での慰安旅行であった。
板室温泉の近く高林に武田太郎の母上である三条のお方と夫の飯富が暮らす館もあり今では多くの者が利用する温泉地となり繁盛していた、宿屋は当然として、居酒屋と今では甘味処まである栄えた温泉地となっていた、板室温泉は会津蘆名とも接しており会津山通りの通り道となっている、宿屋の数も20件と増えており温泉宿場町と変貌している。
資晴一行が逗留する事は数ヶ月前より連絡を受けており宿屋の女将衆によって歓迎の催しと初めて鶴姫を迎い入れる準備が着々と整えられていた、女将達が用意したのは雪国ならではの幻想的な雪のかまくらを多数作り、ゆきんこ祭りで資晴一行に楽しんで頂く事であった。
ゆきんことは雪っ子とも言われ雪の精霊、雪の子が戯れ遊ぶ楽しき冬の風物詩の遊びである、板室の地は雪深い会津の地と山繋がりで行き来出来、その風習は色濃く会津の影響を受けている、板室温泉地はのこの時代は雪に覆われた地である。
冬の厳しい雪国では次の年も豊穣に恵まれる事を祈る思いで雪のかまくらを作り童達と家族が楽しく遊び苦しいはずの雪の冬を楽しみ春を待つ、夕方には春を待つかまくらの中にろうそくの灯りが照らされていた、もちろん小田原には無縁の風習と言える。
鶴の育った小田原は山からの雪が舞う事はあるが雪が降る事は珍しく積る事は一度も経験していなかった、温暖な地で育ち雪国の冬という季節を初めて経験する事になる。
幻想的なかまくらが見え始め温泉街に到着した一行、女将衆と旦那衆達から挨拶を受け数件の宿屋に別れ逗留する事になる、明日は資晴主宰の恒例となった炊出しが行われる、温泉地だけの宿数では足りず幾つものゲルが太郎の騎馬隊によって設置されており多くの警備の者達も逗留している。
早速湯に浸かる一行、湯舟では男女に別れての入浴となる、板室温泉は後冷泉天皇の時代、平安の康平2年《1059年》3月に、那須三郎宗重が狩りのために山奥に入り発見したと伝えられている、那須七湯の一つに数えられ、温泉の効能から『下野の薬湯』と呼ばれており泉質は主に無色透明のアルカリ性単純泉で湯温は約38~40度前後とややぬるい温度が特徴で時間をかけて体を温める。
『下野の薬湯』と言われる由来は、湯殿の天井を支える柱から綱が垂れ下がり、立ったまま深めの浴槽に浸かる独特の入浴法、その効果は胸あたりから足元にかけ水圧かかり、温泉の効能が末端の毛細血管まで行き届き血行が良くなり、膝や腰などの関節痛に特に効果があると言われている。
膝を悪くしていた飯富が数ヶ月間に渡り温泉地で湯治した際に膝の痛みが取れ身体を蘇らせ若返った話は那須家でも広く伝わっており評判の温泉地、三条のお方様は板室温泉の常連客であった、甘味処も支援し烏山の城下町で流行る品を一早く取り入れ那須プリンにたっぷりのぺト二を注がれより甘くなった別名『三条プリン』と呼ばれる温泉地だけでしか味わえない菓子もある。
「梅様は蝦夷に行かれてますね、蝦夷の地はここより寒いのですか、雪も多いのですか?」
「蝦夷の地はこの那須の高原地域と似ており、もっともっと大きく広い処になります、雪の量は私は海に近い地域しか知りませぬのでここと同じ位でしたが、とんでもなく寒い処です、鶴様も今夜は寒いかと思われますが、ここよりもっともっと寒い処が蝦夷という地でありました、それと驚いたのが熊を知っておりますか?」
「熊という獣の名前は知っております、人より大きく危険な獣と聞いております」
「そうなのです、その熊が那須にいる熊より倍程もある巨大な蝦夷熊というのがいるのです、牛を知っているかと思われますが、牛より大きい熊がいるのです、その毛皮を若様がお持ちですので見れば分かりますが、鶴様と私の二人を同時に包む事が出来る大きい毛皮なので驚かれましょう」
「そんなに寒い処に巨大な熊とは、蝦夷の方達の生活は大変では無いのでしょうか? 鶴ではきっと生きて行けないと思います」
「鶴様でも大丈夫ですよ、蝦夷の領民も寒い冬に家の中で暖を取り衣服を紡ぎ美味しい食事で過ごしております、冬でも雪がありますので水には困りませぬ、後でかまくらを訪れましょう、中に入れば判りますが、雪と言う氷で出来た部屋なのに暖かいのです、餅を食べ、猪汁などを食せば汗が出るほどです、冷たい部屋なのに不思議と暖かい部屋なのです、蝦夷の家も室内は温かいので快適でしたよ」
「私はワクワクしております、雪も初めて、かまくらも、なにもかもが初めてなのです、この温泉というのも初めてになります、城の湯殿とは違います、何しろワクワクしております(笑)」
「私も山奥で育ち若様の侍女となった時は鶴様が言うワクワクが毎日しておりました(笑) 新しい芋や菓子が出来ると若様が最初に食して良いと言われるので目を丸くして食べておりました、それを見ている若様が中々食べるのを止めないでおりますと怒るのです、儂の分まで食べるなと(笑)」
「あはははは、判ります判ります、祭りの時に私も、鶴もそうでした、若様が横で何かを話すのですが食するのに夢中になっておりました、ただ頷いて食べておりました(笑)」
湯舟の中でも楽しい話に花を咲かせる鶴達。
宿の広間では女将と中居が忙しく配膳の支度に追われていた、組み立て式の囲炉裏を幾つも用意し那須家の伝統を受け継ぐ巻狩鍋が用意され、他にも沢山の祝い膳が所狭しと並び、後は主役を待つだけとなった。
那須の巻狩は建久四年《1193年》三月、源頼朝を総大将とし、和田義盛、千葉常胤、三浦義村、畠山重忠、小山朝政、梶原景時等の重臣その他の武将多数、総勢実に一万余騎により行われた、三月二十一日鎌倉を出発、四月二日那須野が原に到着、巻狩は二十二日間にもおよび、史上最大規模のスケールで行われた、この事は書物に当時の様子が記載されている。
狩を行った地域は現在の那須町、那須塩原市を中心に六里四方《24キロ》の地域におよんだという、東小屋、南郷屋、上郷屋、夕狩、弓落、十六竈等の地名はそのときの狩場のいわれを物語るところであるとされる、頼朝はこの巻狩を催すに当り、地頭たる那須光資《那須家5代当主》に知行を加増してその準備にあたらせた。
巻狩鍋の巻狩りという名前を使用するには具材にある条件が、鍋に入れる肉の種類を三種類以上入れる鍋を巻狩鍋とされている、那須塩原市では例年那須野巻狩まつりを行い、直径2.2mの巨大な鍋で作られた鍋が振舞われる、使用される鍋は東北新幹線那須塩原駅前の広場に設置されておりいつでも実物が確認が出来る。
「ささ今宵は無礼講である、皆と一緒に楽しい一時を過ごそうでは無いか!!」
「鶴も麦湯も甘酒もある、好きなように食するが良い、梅よろしく頼む!!」
「何をお飲みになりますか、酒はまだ駄目でありますよ!!」
「麦湯でお願いします、麦湯に砂糖を入れても宜しいでしょうか?」
「大丈夫ですよ、ぺトニがありますから、好みの甘さにしてお飲み下さい」
「この小さい魚はなんでありますか、大変美味しいのですが、初めて食する小さい魚になります、小田原では食した事がありませぬ」
「それは板室の沼地で取れるワカサギという小魚になります、小さい針で釣り上げ油でさっと揚げた魚であります、この小さき魚は大変に美味なのでこの地では評判の魚になります」
「このように美味しいと菓子のように食してしまいます」
資晴達男衆も戦国の世とは思えぬ楽しい時を過ごしていた、一刻が過ぎようとした頃に資晴の元に百合が感謝を込め一献注ぎに来た。
「若様一献どうぞ、それとご配慮ありがとうございました」
「時々は白河の城に帰らねばならぬぞ、今は城主の奥方じゃ、それと半兵衛は他に女子など囲っておらぬから大丈夫じゃ、儂が見張っておる、のう半兵衛!!」
「えっへん、ごっほん、若様某を見張らなくても大丈夫であります、百合も心配せずにこれ以上儂を・・・・てくれ!!」
「今なんと言うたのじゃ、最後の言葉聞こえんかった、百合は聞こえたか?」
「儂をどうだとかこうだとか囁いたようです」
「いや、何でもありませぬ、儂も百合をいつも思うておると、言ったのです!!!」
「天狗殿は聞こえましたか先程の囁きを?」
「某最近耳が遠くになり儂をじ・・・なんとか言っていたような、じという言葉しか聞こえませんでした」
「いやそれは鞍馬殿、儂も実はと言うたのです、実は百合の事をと言ったのであります!!」
「あっははは、これ以上半兵衛を虐めてもかわいそうじゃ、百合よ今後も半兵衛の事を頼む!」
嫉妬深い百合の為に資晴は城に呼び戻し半兵衛の近くにいられる様に手配した、半兵衛は嫉妬などせずに儂を自由にしろと結局言えずに次回に持ち越しとなった。
太郎の騎馬隊も温泉地でゲルを張り巻狩鍋を食べ盛り上がっていた、その中に資晴も宿を抜け出しサプライズ訪問をしては皆を喜ばせた、資晴がこのように破目を外し先頭を切って盛り上がる事は大変に珍しい事であった、梅の側室になる事も了解が得られた事で蟠りが取れ気分が清々しく盛り上がった資晴であった、鶴も雪の世界を楽しく過ごし、雪合戦をしては身体が凍えては温泉に浸かり、かまくらで餅を焼き、竹で作ったそりに乗り、雪だるままで作り散々雪遊びをした初めての那須の冬であった。
年が明け当主資胤の元、最初の評定が開かれた!
── 1577年正月 ──
「今話した通り3月に儂は当主を引退し世継ぎを行う、以前より日が定まったら行う事は皆に伝えていたが3月15日に代替わりを挙行する事にした、那須家は大きくなったゆえ他家を呼ばずに那須家280万石の領主達だけで執り行う、それと儂の引退と共に各七家でも代替わりするの家がある、代替わりとなる前領主は儂と一緒に那須家御伽衆という職に就く、那須には無かった職である、和田殿説明を頼む!!」
「はっ、御伽衆とは時の将軍や大大名の家にて、将軍、当主が進める政の助言を行う役目の職になります、大家の政です、間違いは許されない事になります、ゆえに豊富なる経験と知識がある者が就く職となります、誰でもなれる訳ではありませぬ」
「そういう事じゃ、那須家280万石を左右する職じゃ、責任は当主が担うがそれへの手助けする職と言える、今は各七家で代替わり出来る家が慎重に事を進めておるので誰がその職に就くかは後日に伝える、勝手な噂が立てば代替わりに支障がきたす、この評定での話は他言無用と心得よ、良いな3月15日に代替わりとなる、饗応役幹事筆頭、明智十兵衛、介添え、和田惟政と佐久間信盛と致す、那須家21代当主の誕生となる、触れは後ほど時期を見て回す、皆の者以上じゃ!!!」
1577年3月15日に第20代当主資胤から嫡子資晴が第21代当主の誕生となる事が伝えられた、那須資晴19才、いよいよ戦国大名の当主として力量が試される、戦国の世を勝ち抜けるか、歴史を変える事が出来るのか、那須家滅亡の歴史を大転換出来るのか試される運命ど真ん中に入る事になる。
史実では1590年北条討伐に小田原に参陣をせずとの理由で豊臣秀吉に那須家は改易とされる、滅亡まで残り13年、激動の戦国期終盤を迎える時期である。
なんとか元服してからの青年期が過ぎようとしてます、間もなく嫡子の立場から当主の立場が始まります、どんな展開なのはまだ原稿を書いておりませんのでどうなって行くのでしょうか、誰か代わりに書いてと・・・甘えずに頑張ります。
次章「七家の代替わり」になります。