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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
215/331

215 天下布武の城

 




「よう参った、この地には其方達を奴隷として扱う者はおらぬ、手に持つ技を使い職人として生活を営み、良き相手を見初め家庭を築くが良い、これからは怯えて暮らす必要は無い、安心するが良い!! 通じているようだが言葉は話せるのか?」



「はい、ここに来る前にロレソンより会話を習い一通り話せるようになっております」



「お~それは良かった、ではこの透明なる石で馬とウサギを作ったのはその方であるな、名は何と申す?」



「硝子職人のグレイザーと申します、硝子《切子》にてそこの馬とウサギを作りました」



「お~素晴らしい出来栄えじゃ、儂には職人達が住む村があるのだ、そこには色々な技を持った者達が集まっており役立つ品を沢山作っておる、グレイザーと申したな、そちにも仕事に困らぬ様に準備を致す、後でここにいる福原に村に案内させよう!! その横にいるのが革の職人であるな?」



「はい、サンドラーと言います、動物の革でいろいろな物を作ります」



「我らにも革で作る物が沢山おるが違いはあるのであろうか?」



「この国では革の靴がありませぬ、特にサンダリオンを作る者がおりませぬ、実に残念であります、私であれば一番最初にそれを作る事をお勧め致します」



「サンダリ―なんとかとは、なんであろうか?」



「この国の草鞋であります、革で出来た草鞋をサンダリオンと申します」



「足に履く草鞋の事か、それが革で出来ていると言うのであるな、なるほど、それは丈夫そうであるな、一度儂が履くサンダリンを作って見てくれ、良ければ普及させようぞ!! そしてそこにいるのが姉妹なのだな、名は何と申す、年も教えて欲しい!!」



「はい、姉のエルケと申します、年は10才になります、こちらが妹のエルカナ、7才です、私達はパン職人の娘でした、南蛮船でパンを焼く事で家族四人が雇われていました、しかし・・・この国の戦で京の近くにおりました時に騒乱となり離れ離れになりました、その後私達は別の南蛮の船でパンを焼く奴隷になりました」



「その京近くでの騒乱とは何時の事じゃ?」



「去年の事になります」



「去年とは春に起きた騒乱の事か?」



「はい、あの時にパンを焼く事を依頼され商人の所に向かっている道中で騒乱に巻き込まれ離れてしまいました、私は妹を抱きしめて離れない様にしており、それ以来父と母にはお会いしておりません」



 姉妹の話を聞き、昨年の三家の連合軍が京を制圧した時に織田信孝が京都から逃走した騒乱にこの親子が離れてしまったと理解した資晴、この親子が離れた原因に那須家も関係していた事に驚き、なんとかしなければならないと判断した。



「そうであったか、もう心配しなくて良い、京から二人は儂の館で住むが良い、そこには伴という優しいご婦人がおる、二人の面倒を見てくれる、儂もその方達の父上と母上を探して見よう、今の話を聞いたと思う、フロイス殿この姉妹は騒乱に巻き込まれたのじゃ、南蛮の者達に伝え両親を探して頂きたい、儂は儂で伝を使い捜索して見る、なんとか見つかれば良いが!!」



「そうじゃ、そのパンとやらはどんな物なのじゃ?」



「そのパンは小麦粉から作る物にて硬い物です、南蛮の者達はそのパンを主食にしたりしております、無くてはならない物になります」



「そうであるか、では私の館にも竈が何台もある、いつでも良いので試しに作ってみて欲しい、必要な物があれば伴というお方に言えば揃う、今度皆で食して見よう!!」



「今日はゆっくりと休むが良い、皆儂の館に泊まるが良い、美味しい那須プリンを進ぜよう!」



 フロイスが連れて来た奴隷の四名はユダヤの民である、ユダヤの民は職業によってその家系の名前が付けられているとされる、革職人のグレイザーが話したサンダリンとは革のサンダルである、古代ローマ時代から普通に利用されているサンダル、日本に革の靴が普及しなかった、普及が遅かった理由は家の中では草履を脱ぐという文化が影響している、西欧では家の中でも靴を履いて過ごす、その違いが一番大きいとされる。





 ── 安土城 ──




 フロイスは帰路する際に資晴の技術の村を見学し、この国を支えている大切な所だと、この村が原動力になっていると、5才の時にこの村づくりを始めた資晴の事を聞き、織田信長の上を行く者だと確信した、織田信長はこの国の中で一番合理的に物事を考え新しい物、技術には誰よりも貪欲に取り入れる武将であり間もなく天下を把握する王だと理解していたが、那須の技術村を見学し、信長とは違って自ら新しい技術を作り育てている、奪うでは無く、作るという点で信長とは全く違う嫡子であり、自分の知る限りこの日ノ本には比類する者はいないと悟った。



 フロイスは那須を離れ京に戻る事に、その途中で築城中の新しい城を見て、やはり織田信長がこの国の王になると、信長しか王に成れる者がいないと判断した、あの資晴は王になろうとはしていない、別の者であり、信長は王を目指していると城を見て判断するのであった。



 織田信長が新しい城を築城している事を知りどの様に城が作られるのかを知る為に安土の山に、元々その地には観音寺上の支城のあった安土山に城の縄張りを終え、山が切り開かれ多くの人工が作業に従事していた、その規模は山を丸ごと城にするという大きさであり想像できない程の巨大な城が出来ると予想出来た、この城は日ノ本の王に相応しい城に、ここまで大きい規模の城が木造建築で作り出す事は至難の業と理解出来るが信長が王だからこそ作り出せるとフロイスは理解した。



 三年後に完成する安土城は地下1階地上6階の天守閣を要する巨大な城が完成する、後にも先にも日本一の城『安土城』である、この城が出来るまでに事故も多発し数百人が亡くなったとされる、特に城の鎮守石とするべく、秀吉は観音寺山と長命寺山の谷から大石を引き出すため人足を集め、石引きの歌声が天地にこだまする有様は、『昼夜山も谷も動くばかり(信長公記)』だったという、なかでも蛇の紋様があった『蛇石』という巨石は五間余《約10m》、推定三万貫《112t》引き上げる途中で綱が切れ、横滑りした蛇石に150人余が挽き潰されたと記録が残っている。



 1579年5月、完成した天主に信長が移り住む、同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。



 フロイスの書かれた日本史に安土城の事が紹介されている。



 中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である、この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された、事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている、外部は、これらの階層ごとに色が分かれている、あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている、ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である、このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている、それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている、屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。



 完成は1579年、廃城は1585年とされる、その原因は本能寺の変が起こり、天下は秀吉に移り、時代が大きく変わった事、本能寺の変にて間もなく何らかの理由で焼失した事で結局廃城となってしまう。



 信長は力による革命で日本の王となる天下布武を目指す事を明確にした、その象徴が安土城といえる。



 信長の目指した天下布武とは理想としては武力による力の支配とは違う様であった、その内容は七つから成り立つ布武であったとされる、その七つとは。



 暴を禁じる(暴力を禁じる)

 戦を止める(戦いを止める)

 大を保つ(天下を保つ)

 功を定める(功績を正しく評価する)

 民を安んじる(民衆を安心させる)

 衆を和す(組合が争わないようにする)

 財を豊かにする(経済を豊かにする)



 信長の理想と現実に行った事を比べた場合何処までがその理想と合致しているのか定かではないが目指す方向性は人として正しいと言えよう、安土城の築城により信長は天下人に近づき、西国を抑えればその野望は達成する所まで上り詰めた、東側の日本には既に上杉家も敵対勢力では無くなった、日ノ本半分以上は自分の力が及ぶ地域と捉えていた、後は宗教勢力と西国への仕置までもう一息の所まで来たと言えよう、信長の天下統一までゴールは目前であった。





 ── 再婚 ──




 小田原城を鶴姫が那須に向け出立丁度同じ頃にもう一組の婚儀が行われていた、旧曳馬城の女城主お田鶴のお方と現浜松城と岡崎城、三河一帯を治める徳川家康のバツイチ同士の再婚が執り行われていた。



 元々浜松城はお田鶴のお方の夫であった飯尾連龍つらたつが城主として治めていたが今川氏真の奸計により殺害され、その後は夫人のお田鶴のお方が城主として取りまとめていた、女性の身ではありながらカリスマ性の魅力を持ち、筋が通らぬ事は相手が誰であれ立ち向かう男勝りの一本気な性格で重臣達からの信頼も厚く兵数は少なくとも一糸乱れぬ軍勢の指揮を執っていた。



 武田信玄が駿河侵攻を行う中で隣地三河の当主であった徳川家康が信玄と連携し遠江に向け進軍し最初に攻略する事になる旧曳馬城が北条氏康の機転と既に武田の駿河侵攻に備えた戦略を行う上で戦う必要のない曳馬の侍達と親類のお田鶴を救うべく動いた事で無血開城し、家康に恩を与え城を渡した経緯がある、その後駿河侵攻は紆余曲折あり諦め、信玄は義昭の要請と信長包囲網を完成させ京を目指す事に、その通り道となる家康の三河攻略する上で三方ヶ原合戦になる。



 三方ヶ原で徳川家は大敗北となり最大の危機を迎える中、三家連合の働きと、特に北条家からの1万5千の援軍のお陰で難局を切り抜け勝利した、信玄はこの戦で敗北と持病の労咳が悪化し亡くなった、その後、家康は旧曳馬城を武田との戦で多くの者が亡くなった事で名を岡崎城と改め新しい城として拡張し再生した、そんな最中に家康を亡き者にしようと岡崎を乗っ取る謀反が発覚した、その首謀者は家康の正室築山殿と情事を重ねていた弥四郎一派であった。



 謀反を事前に察知した家康は弥四郎一派を捉え獄門磔とし、正室の築山殿とは離縁し追放とした事で家康はバツイチとなり、独りやもめになっていた、旧曳馬城女城主のお田鶴のお方とは幼い頃今川家で人質時代からの幼馴染で親しい仲であった、謀反が計画されている事もお田鶴からの知らせで家康は回避する事が出来た、その様な経緯もあり北条氏康が家康とお田鶴のお方をバツイチ同士再婚させるようと計画を進めその事を家康も了承した。



 再婚についてはお田鶴のお方も了承していると勘違いした家康が式について話すと何も知らされていないお田鶴のお方は怒涛の勢いで怒りだし家康の首に薙刀の刃を向けられ殺される寸前に家康が恐怖のあまり脱糞してしまう。



 徳川家康は信玄と戦った三方ヶ原の戦いで恐怖のあまり馬上で脱糞して城に逃げ帰った、その時の恐怖が夢として出た時は何故か脱糞するトラウマを抱えてしまっていた、好意を寄せているお田鶴のお方に、了承していると勘違いした家康、その家康の首に薙刀の刃を押し付けられた時にその恐怖が蘇り脱糞した家康、武士として恥ずかしい行いをした事に腹を切ろうとする家康の小刀を払いのけ、意表を突かれた激臭に顔を歪めたお田鶴のお方、家康が自分に恋心を抱いている事を知り、脱糞した事は誰も知らぬ事、又日を改めてその恋心を共に語りましょうと去ったあの日から二人は無事に再婚する事になった。



 脱糞で命の危機を回避し、脱糞のお陰で再婚出来た家康であった、二人の活躍はこれより始まる事に、史実と違う婦道を歩むお田鶴のお方、これより三河御前と呼ばれる事になる。




 四月下旬小田原を出立した鶴姫一行は予定より早く下野の国に入り、一旦小山城にて留まり新しい生活を行い烏山城に長持ちを運び入れる事にした、長持ちは全部で300箱と、姫の長持ちは100箱、残り200箱は鶴姫と共に那須家に残る20名の家財道具一式という大量の長持ちである、要は姫と侍女20名の引っ越し道具ゆえ大量な長持ちになった。



大量の長持ち、資晴と過ごす新しい館に運び入れては侍女達が長持ちの整理を忙しく行う、長持ちの箱は季節毎の身支度が収められており、長持ちは箪笥の役割でもあった、普段使う物、お祝いなどで使用する品、春夏秋冬にそれぞれが分けられており、それらの管理も全て侍女が行う、余りにも多い嫁入り道具に新しい館には入り切れず、城の蔵を一つ丸ごと鶴の蔵として用意した。




 小山城にて暫し準備が整うまで滞在する事を聞いた令和の洋一から資晴に女性の身体について大切な事が知らされた。




ユダヤの方々の名前の系譜に職業が関わっていると紹介されており、そこから名前を採用しました、何処までが本当なのか不明ですが、失礼な説明でありましたら他意はありませんのでご理解下さい。

次章「婚儀」になります。

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