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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
210/331

210 佐久間ドロップ






「玲子さん、那須家に仕官を求めて武将ですが、本当に有能なのですか? ネット検索すると良い事が書かれてなくて、資晴もどうして良いのか私に聞いて来てますが、どうしますか?」



「昨日言っていた事ね、あのね歴史を単なる文献や資料から考察する研究者から見れば無能な武将と言われているけど、心理学的な人としての行動原理から歴史を考察する人達からだと反対に人間らしくて有能だったと評されているのよ、オタク系の三英傑を英雄視する人達には無能の代表者なんだけど、私の斜めから見るオタク系では有能と言う言葉より、生かして見たい武将ね、伸びしろがある武将だね!!」



「戦国時代も現代の戦争でも同じだと思うけど、戦場で空気を読める人って第六感の感覚が優れていないと死んじゃうから『退きの佐久間』って揶揄する人がいるけど、身の危険を回避する能力に長けた人なんだよ、織田家で大軍を率いる中で一番犠牲が少ない軍勢は佐久間の軍勢なんだよ、秀吉より上なんだよね、凄いと思わない?」



「信長から見ると反対の評価になるけど、佐久間は貴重だと思うよ、色々な使い道があるように、私なら切り札の一つにしておくかもよ!!」



「へえー変わった人なんですね、玲子さんが伸びしろがあるって評価は、有能かも知れないという表現だから結構人材かも知れませんね、切り札になるなら隠し玉になりますね、敵になるより余程良いという事ですね、では資晴にはそのように伝えておきます」



「ごめん、勘違いしないで、有能かどうかは私にも判らないよ、でも害にはならないと思うから、信長の父親、信秀にも仕えていた人で、織田家で一番の最古参の一人、もう一人も確か追放されているから、え~とそうそう、林佐渡おけさじゃなくて、林佐渡の守、林 秀貞でそれこそ最古参の重臣、信長の後見役、この林って人も、佐久間と同じで最初から信長を支持して守った人だけど、口煩く諫言するものだから追放されたの、息子達も優秀だから、京周辺にいる筈よ、拾えるなら拾った方がいい人よ!」



「判りました、その林さんの事も伝えておきます、那須家は急に大きくなった家ですから人材はどんどん入れないとなりませんからね!!」



幕臣の和田を頼って那須家に仕官を求めたのは佐久間信盛であり、この時47才であった、信長から突如長年に渡り織田家に仕えるが功少ないとの色々な理由によって織田家を追放となり、京周辺にいたが、信長が京に戻った事、又、追放される中、北条家、小田家、那須家が京の治安を守った差配などを見て、昔より誼を通じていた幕臣の和田を頼って那須家に仕官を求めたのである。



「佐久間殿と申したな、いろいろと話は聞いておる、安心して那須に仕えて欲しい、そちの名は多くの大名家で知れ渡っている、その名を生かし、那須が目指す安寧な政に尽くして欲しい、それと一つ教えて頂きたい、何故信長殿は降伏している女子供まで殺すのだ、例え一向宗の信者であっても降伏した者を容赦なく殺していると聞く、儂には到底理解出来ぬ、近くで見て来た佐久間殿であればその理由を知っているのではあるまいか?」



「はっ、この佐久間、那須家の目指す安寧なる政に身命を尽くして参ります、忝くありがとう御座いまする、織田信長様、いや織田殿は、幼少の頃より奇天烈といいますか、奇行多く自らの行動で批判を集め不評の嫡子でありました、当時は私も何故そのように奇天烈なる振舞をするのか判りませなんだが、数年して判明しました、全ては、誰が敵であり味方なのかを見定めていたのです、幼少の頃より敵と味方を判別していたのです」



「なんと幼少の頃から既にそのような事をしていたのか?」



「はい、父親の信秀様にも主家である織田本家があり分家の家でありましたが、分家である信秀様が戦上手で本家を凌ぐ家となり基盤を築かれた方です、周りには敵も多くありましたが力を得た信秀様には逆らう者は力づくで抑えておりました、その嫡子が信長殿です、何れ当主となる時に備え、敵と味方を見定めていたのです、そして当主となり信長様は敵と見定めていた者達は重臣であっても閑職にした上で戦で功を得た者には臣従したと判断し徐々に重責を与え、逆に功薄き者は隅に追いやり戦となれば前線で戦わせ何れ亡くなります」



「織田信長という人は味方か敵なのかで政を進める人であり、敵と認めた者は誰であっても許しませぬ、女子とか子供とか関係ないのです、それともう一つ、役立つ者と役立たぬ者、これも重要になります、役立つ者はかつて敵であった者でも重用します、役立たぬ者と見定めた味方は隅に追いやられます、私は恐らく役立たぬ者と見定められ、追放となったと理解しております」



「ふ~それでは人としての矜持は必要無いのであるな、全ての基準が織田信長という所から出発しているのだな、私の那須家とは全くの別物であるな、それで良く多くの大名が付き従っているのであるな、不思議な事である!」



「付き従う大名にも容赦は致しませぬ、厳しい差配を致しますので皆恐怖を感じておると思われます、敵と見なされば潰されます」



「それでは付き従う重臣達も大変であろうな! 仕えるに疲れる主君であると思うが、もうこれからはその様な事も考えずに那須の為に力を貸して下され! 屋敷も和田殿の近くに手配致す!! 完成するまで和田殿の所に厄介となるがよろしく頼む!」





佐久間信盛、織田信秀に仕え、後に幼少の織田信長に重臣として、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟、信時を守山城に置くよう進言し、城主だった信長の叔父・織田信次の家臣、角田新五らを寝返らせ、信長の弟、信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った、その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ『退き佐久間』(殿軍の指揮を得意としたことに由来)と謳われた。



吏僚としての活動も見られ、永禄10年(1567年)に徳川家康の長男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に岡崎城まで供奉、家康の領地と接する西三河を任された。翌永禄11年の信長上洛後には畿内の行政担当者の1人に選ばれ、大和国の松永久秀を交渉で味方に付けている、浅井長政が信長に敵対した直後の元亀元年(1570年)5月、近江永原城に配置され、柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)、姉川の戦い、志賀の陣にも出陣している。



元亀2年(1571年)8月、松永久秀が白井河原の戦いで敗死した和田惟政の居城・高槻城を接収しようとしたが、信盛が交渉を行い撤兵させている、9月比叡山焼き討ちで武功を上げ、知行地として近江国栗太郡を与えられた、 11月には松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当、久秀と順慶を和睦させたという。



1月には平手汎秀・水野信元と共に3,000の兵を率い、徳川家康軍8,000の援軍に派遣されるも、信盛は戦場となった三方原で27,000の武田軍を目の当たりにして、徳川軍に勝ち目はないと判断しほとんど戦わないまま三方原南方の浜名湖の今切まで退却した。(三方ヶ原の戦い)



佐久間の武将としての紹介されている内容は信長を幼少時より一貫して支え続けている、その功もしっかりとある、織田家が大きく成る中で自分を誇示していた事もあろうが、信長の目には厄介者としか映っていなかった、佐久間追放時に19条からなる理由が述べられている。



信長による19か条の折檻状の全文は下記となる。 (現代語訳)



一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。



一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか、武者の道というものはそういうものではない、勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。



一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした、羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし、池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した、これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。



一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。



一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。



一、信盛の与力、保田知宗の書状には、本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう、とあり信盛親子も連判している、今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。



一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている、三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にも、七ヶ国から与力をあたえられている、これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。



一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである、言語道断である。



一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった、これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。



一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ、これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。



一、先年、朝倉をうち破ったとき(刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った、これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。



一、甚九郎(信栄)の罪状を書き並べればきりがない。



一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない、その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。



一、与力ばかり使っている、他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず、領地を無駄にし、卑怯な事をしている。



一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している、自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。



一、信長の代になって30年間奉公してきた間『信盛の活躍は比類なし』と言われるような働きは一度もない。



一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない、しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟、身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない、あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。



一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。



一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。



右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった、そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。



以上が織田家追放のあらましとなる、その佐久間が那須家に仕える事になる、史実では実質的に追放という形となり、嫡男の信栄と少数の郎党達らと共に高野山へと上った、その後、高野山にすら在住を許されずにさらに南に移動したと伝えられ、郎党達も信盛父子を見捨てて去って行く、信盛退任後の畿内方面軍軍団長に就任することになったのは明智光秀であり、蜂屋頼隆が引き継いだ和泉を除き旧佐久間軍団は本能寺の変の実質的実行部隊となった、明智軍記には佐久間らへの情け容赦ない処分を引き合いに出して、明日はわが身と家中が反乱に傾いたという記述もあり、これが事実であれば動機面での影響もあったことになる。



佐久間が率いた軍団が明智に引き継がれ、その軍勢が本能寺の実行部隊となるとは歴史とは皮肉な結果で信長に仕返しをしたと言える。

その佐久間信盛が那須に来た、歴史の修正力はどう動くのであろうか、那須に来た事でその命運がどう生きるのか楽しみな展開である。







『退きの佐久間』って、逃げ上手という揶揄ではなかったですね、殿上手でしたね、でもやはり徳川の三方ヶ原の戦では、とっとと逃げたようですね、19ヶ状に書かれてましたね。

次章「バザールと祭り」になります。

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― 新着の感想 ―
[一言] 佐久間追放も、信長が先々を考えてのことだっていう説がありますね。畿内にある家臣の領地を直轄地化し、自身や信忠以降の政権を安定させるための一環だったと考えられると。 秀吉は旧毛利領へ。光秀も坂…
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