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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
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208 当主とは

 




 祖を与一とする那須家、1169年誕生~1189年9月に亡くなっている、享年21才と言う若さである、兄弟は13人いるとされ、与一は十あまる一(余一)、つまり十一男、上から十一番目の家督継ぐ資格が全くない立場であった。



 源平の合戦で平氏側に付き9人の兄達は源氏と戦った、家に残っていた千本為隆《十郎》、与一、頼資、宗久はまだ年が若いとの理由で平氏側に参加していない、その事が那須家の運命を大きく変えた。



 源平の合戦がいよいよ始まると言う時に、奥州平泉にいた源義経が、兄の頼朝に加勢するため、治承4年《1180年》戦勝祈願の為に、那須温泉神社を参拝に訪れた際、那須岳で弓の稽古をしていた、兄十郎為隆と与一に源氏方に従軍させる約束を交わしたと云われている、これが与一と義経の出会いで、その後の那須家一族の運命を左右する事になります。



 屋島の戦いは、平安時代末期の1185年3月22日に讃岐国屋島《現・高松市》で行われた戦い。



 湾には多数の平家の船が、浜には源氏の軍勢が結集していた、2月20日夕刻、平家方から女官が乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射させようとした、外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する、十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した、与一はやむなくこれを引き受ける。



 与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え唱えた。



『南無八幡大菩薩、とりわけ我が国の神々、日光大権現、宇都宮大明神、那須温泉神社なすゆぜんじんじゃ、願わくばあの扇の真ん中を射させてくれ給え、これを射損じる位なら、弓を折り腹をかきさばいて、再び人にまみえる心はありませぬ、今一度本国《那須》へ返そうと思し召されるならば、この矢を外させ給うな~』



 もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し神仏に誓い、鏑矢を放った、矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった、しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。



『平家物語』の名場面、『扇の的』である、美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏はえびらを叩いてどよめいた。

(箙は矢筒などの容器)



 この源平の戦で見事な功を示した事で敵側の平氏に仕えた9名の兄達は与一の功により許される事に、その他にも五つの荘園を頼朝から与えられた、その五つの荘園は丹波国五賀庄《京都府船井郡日吉町》、信濃国角豆庄《長野県松本市、塩尻市》、若狭国東宮河原庄《福井県小浜市》、武蔵国太田庄《埼玉県行田市、羽生市》、備中国荏原庄《岡山県井原市》となる。




 13人の兄弟は活躍した与一宗隆むねたかが那須家の当主になり与一から領地を分地され治める事になり本家である与一を支える事になる、これが祖を与一する戦国那須家の始まりとなる、その13人とは、太郎光隆てるたか、森田(現・那須烏山市森田)に分地、次郎泰隆やすたか、大田原市佐久山に分地、三郎幹隆もとたか芋淵いもぶち(現・那須町梁瀬字芋斑)に分地、四郎久隆、片府田(現・大田原市片府田)に分地、五郎之隆、大田原市福原に分地、六郎実隆、滝田(現・那須烏山市滝田)に分地、七郎満隆、沢村(現・矢板市沢)に分地、八郎義隆、堅田(現・大田原市片田に分地、九郎朝隆、稗田(現・矢板市豊田)に分地、十郎為隆、千本(現・茂木町千本)に分地を行った。





「よく聞くのだ資晴、祖である与一様は合戦から僅か4年半でこの世を去るのだ、僅か四年半で亡くなるとは実に痛ましい事であり凝縮された人生であったか、矢を、扇の矢を射る時に寿命の多くを削り、那須家の運命を背負い、一射を放ち、兄達の命を救い、領内が荒れぬように分地を行い、心血を注ぎ次の者に託したのだ、16才という若さで全てを背負ったのだ、与一様の人としての矜持こそ、那須家の本幹なのだ、当主に求められる力量とは、与一様が示した矜持から流れ伝わる血脈こそ、人としての生き方こそ血脈なのだ、その血脈を背負う覚悟ある者に資格があり当主となるのだ」



「来春に資晴は婚儀となる、年の暮れには代替わりを行う、次の当主として覚悟を固めて行くのだ、儂が元気な内に後ろ盾となる、この大地に根を張るのだ、資晴という根を、どんな嵐にもびくともしない大樹となる根を張るのであるぞ、これが儂の遺言じゃ、確と伝えて置く!!!」



「父上、誠にご教授ありがとうございました、資晴父のお言葉生涯忘れませぬ!!!」



「では儂が留守の間、城代となり那須家を守るのだ!! 行って参る!!」



 那須家当主資胤は小田原北条家に向け出立した、その理由は北条氏政の嫡男新九郎の元服式を迎える為である、北条家も後進に道を作る時を迎えていた、史実では北条家最後の五代目当主となる北条氏直である、これにて氏直も表舞台に登場となる。



 灰汁の強い幻庵、氏康、氏政に隠れていた、氏政の息子新九郎が14才となり元服式を迎える事になった、新九郎の烏帽子親は幻庵であった、直系のひ孫では無いが、幻庵は師匠として軍略を授け、厳しくも暖かく誰よりも育てて来た師として烏帽子親となった、此度も謙信が烏帽子親を希望したが相手が幻庵であり、北条家の生き仏に逆らえず身を引いた、代わりに猶子を希望したが、上杉家には景虎を養子に入れており、今更必要無いであろうとやんわりと断わった。



 10月下旬北条家で大勢の当主が見守る中、新九郎の名が氏直と命名され無事に元服式が行われた。



 史実の北条氏直は1580年に家督を継ぐ事に、この元服を終えて5年後に五代目当主になります、秀吉が小田原成敗で敗北する1590年に氏直は自分の命と引き換えに家臣の命を守ろうとして降伏します、その潔さで秀吉は氏直を助命し、生きながらえます。



 高野山にて謹慎生活していた氏直を1591年に秀吉から赦免され1万石の小大名に復活します、しかし残念な事に身体が弱く30才で亡くなってしまいます、正室は家康の娘を妻としていたので関ケ原以降も生きていれば北条家の復活もあったと評する歴史家もいます。



 元服式には多くの大名当主も参加しており家康も隣地の大名でもありこれまでの経緯から招待されていた、式を終え歓待の饗応が始まる中、氏政より家康に再婚についてそろそろ動く時期であると、むしろ動けという意味の話をされた、この事は本多正信からも北条家の意向を伝えられ、家康も内諾をしていた、家康もお田鶴のお方《引馬御前》とは幼馴染であり、浜松城を得た経緯もお田鶴のお方からの好意とも受け取られ感謝しており、家康には何ら問題なく、むしろ正室として迎えるにはこの上ない女性であった、が、しかし、男どもはやらかしてしまう、氏康と氏政の落ち度により家康は漏らしてしまう事になる。



 徳川家康、三英傑にして最後勝ち上がり江戸幕府を作った戦国の大英雄、その生涯の中で唯一の大敗は三方ヶ原における武田信玄との戦であり、武田軍のあまりの強さ、死との恐怖で馬上で脱糞した家康、あの時の恐ろしい経験が時々蘇り、目覚めると布団の中で脱糞をするようになってしまった家康、信玄が刃を向け首に刀を振り下ろす度に脱糞してしまう家康、その恐ろしい夢に対し家康は贖う術が無かった、経験した者にしか解らぬ深層心理と言えよう。




 氏政からお田鶴のお方との話を進める様に告げられ、小田原城に数日滞在する事に、元服式という慶事であり奥方衆や親族の女性達もなにかと忙しく家康はお田鶴のお方と接触する機会を待っていた、五日を経過した頃にやっと招待した客達も減り城内は落ち着き初め、これならお田鶴のお方と接触しても良いであろうと正信を通じて会う事になった。




「三河様この度は態々のお越し氏直様も喜ばれ妾も縁する者にて喜ばしく安堵しております、ありがとうございました、ところで妾に御用とのお話ですが、何か不都合などありましたでしょうか? 遠慮のうお話下され!」



「お祝いの慶事もひと段落となり、椿様《幼名》とお話を進め、何時頃が宜しいかとお伺いをお聞きしたく、お話しがしたくてお呼びしてしまいました、お許し下さい!」



「まあー懐かしき響きであります、椿などその名を知る者はもうどこにも居りませぬ、嬉しい響きです、ところでなんの話を進めるのでしょうか?」



「え~と、進める話とは、お二人の今後の事を椿様にもご都合がありましょうし、失礼があってはなりませぬゆえね遠慮せずにお教え下さればと思い、その事になります!!」



「三河様お二人の内お一人とは私の事でありましょうか?」



「椿様、お一人とは貴方様になります!!」



「ではもうお一人とはどちら様の事になりましょう?」



 徐々に嚙み合わない会話に発展し、眉間に皺を寄せ声が高くなるお田鶴のお方、お田鶴には家康との再婚は何も伝えられていない、勝手に男達が考えた話であり、氏康と氏政の手抜きである、家康はお田鶴のお方に再婚の話が伝わっており内諾を得ていると理解していた。



 しかし、話している内に、あれ? なんでであろう、お田鶴のお方は恥ずかしがっているのであろうか? ここは男としてはっきりと言うべきであると考え姿勢を正し、口を開いた!!



「椿様もう一人とは某し家康であります、椿様と某の婚を結ぶ話であります、どうか宜しく願います」



 姿勢を正し胸を張り再婚する話をした家康、再婚の話を聞きお田鶴のお方は。



「もう一人とは三河様でありましたか、暫しお待ちあれ!!!」



 怒り顔で退出したお田鶴のお方、部屋に残された家康は、ふ~はっきり言えた、これで良いであろうと、顔が赤くなっておったが恥じらいであったのであろうと、自分の心ノ臓の鼓動も些か早く成っておる、やれやれとニンマリする家康であった。




 廊下の奥より足音が近づき、勢いよく襖が開けられ、そこには、たすき掛けしたお田鶴のお方が、片手に薙刀を持ち仁王立ちで家康の前に立ち塞がった!!!



 史実のお田鶴の方は、飯尾連龍の妻であり今川氏真の奸計により夫が殺され、夫の代わりに曳馬城を守り女城主として城兵と侍女ともに徳川家康と戦い討死する、吉田松陰の雑記である『辛亥歳雜抄』では烈婦の一人として扱わた烈女である。



 薙刀を持ち現れたお田鶴に家康は目をこれでもかという程見開き口も開けていた、薙刀の刃を家康に向け。



「妾になんの断りも無しに婚儀の話を仕向けるとはお主も今川氏真の如く姦計を謀り妾を篭絡する心算であったか、妾を女子と思い侮るとは許せぬ、その首切り落してくれる、その命貰い受ける覚悟致せ!!」



 お田鶴からの激情の吐露に信玄が目の前に現れたと心の恐怖が無意識の内に湧現し、お田鶴が向けた薙刀の刃が首筋に中てられた瞬間に家康は脱糞した!!!



 恐怖の塊となった家康、その家康が脱糞した事で・・・・首筋に刃を中てたお田鶴のお方、緊張感漲る両者の距離は僅か1mという近距離、動かぬ家康に首を切ろうとしたお田鶴に家康の脱糞の悪臭が襲った、興奮していたお田鶴はその悪臭を肺の奥まで吸い込んでしまった・・・・咳き込み眉間に皺をよせ。



「なんじゃこの悪臭は? 何なんじゃ!!!」



 大きい声で叫ぶお田鶴のお方の声に、はっと我に返る家康、気づけば恐怖のあまり脱糞していた己に・・・

 進退窮まったと悟った家康、脱糞した状態で姿勢を正し。




「お田鶴様にあってはならぬ失礼を致しました、私は1人勝手にお田鶴様に恋心を抱いておりました、大変失礼致しました、さらに武士としてこのように恥ずかしいお姿をお見せ致し、最早顔向け出来ませぬ、これにてお許し下さい!」



 家康は言い終えると小太刀を抜き、腹に向け命を絶つべく、突き刺した、その瞬間薙刀の刃が小太刀を薙ぎ払った。



「許せ三河殿、妾が間違っていたようじゃ、妾とて恋心は持ち合わせておる、何も知らぬ事であったゆえ許して欲しい、それにこの場には妾しかおらぬ、妾には何も見えておらぬ、見てもいない、では日を改めてその恋心とやらを御聞かせ願いたい!」



 さっと部屋から退出し何処かに向かったお田鶴のお方は、この怒りをぶつける相手として氏康と氏政を探し見つけ大騒ぎとなった、薙刀を持ち、詰問するお田鶴を配下の者達が羽交い絞めにして押さえつけ薙刀を取り上げ話を聞く中、結局氏康からも謝罪があり、全ての責任は氏政の配慮が足りなかった事として家康にも謝罪する事になった。



 脱糞した状態で一人となった家康は本多正信を呼びつけ、袴と褌を脱ぎ脱糞処理を任せ、急ぎ下半身を洗いに外の井戸にて洗う事に、ブツブツ・・・何故に儂が殿の糞の始末をするのじゃ、なんで部屋にて糞などしていたのじゃ、お田鶴のお方と一体何をしていたのじゃ? お二人は・・・思考が止まる正信、それにしても臭いと嘆く正信であった。




大英雄家康を脱糞でいじってしまい、家康ファンにはなんとか許して頂きたい、おそらく脱糞の事はこの章で最後になります、多分です。

次章「思えば遠くに行ったもんだ!」になります。

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