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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
207/331

207 飼殺し

ごめんなさい、この章の配信を日付を間違えて昨日に設定していたため、一部読めた方と今日になった方へ、今日の9月10日が正しい配信になります、申し訳ありません。

 




 ── 制裁 ──




 上杉との一連の戦いの始末が付き、京に織田軍も戻ったのは8月に入ってからである、その際に京からそれぞれの領地に戻る北条、小田、那須の連合艦隊を確認する為に信長は態々大阪湾に停泊している艦隊を確認その規模の大きさに驚くと共に、急ぎあれを上回る艦隊が必要だと考え、織田家の支配下にある海賊衆、南蛮の者ども、船大工などに命じどんな手を使っても良いから船を揃えるように命じ、岐阜に戻った、城では悍ましい制裁が行われる事に。



 岐阜城に戻り信長は三日間に渡り評定と言う名の鉄拳制裁リンチを見せしめの血祭を行った、制裁された相手は息子の信孝である、京を簡単に放棄した事、一度も戦わずに帝を敵の手に渡した事、戦の大敗は京を獲られた事であり、敵が大阪から進軍した事を知り直ぐに加賀に向け使者を送れば援軍として間に合い簡単には獲られずに済み、戦も負けはしなかったという理由の元に制裁が行われた、制裁はこん棒で叩く、籠手を付けて殴る、蹴るを評定にいる場全員に次から次と行わせ、手を抜いた者は同じ制裁を受ける事になる為力を抜けず嬲られ続けた。



 気を失えば水をかけ、最後は信長が気のすむまで殴り続けた、顔面は変形し、腕は折れ、死の淵を三日間彷徨い続け、もはや痛みも感じない、生ける屍となった信孝、三日目にして重臣達からの懇願で解放され医師達による看病が行われた、生死を彷徨いギリギリの所で一命を留めた信孝はもはや別人であった。



 片目は潰れ腐り眼球を取り除かれ、髪の毛は白くなり、おしとなっていた、その後、秀吉から懇願され、信孝は秀吉の所で預かる事になった、話せる様になるまで一年程要し、信孝は秀吉に命じられるままに仕事を励み学び始めた、信孝が別人として生まれ変わり信長に許されるまでにこの制裁リンチから3年後であった、信長の生い立ちは尾張を統一するにあたり、弟を殺し、叔父を殺し、親族を殺して来た、息子であっても嫡子でもない、側室の子であり、期待に応えない息子は敵より始末に負えない邪魔な存在、戦国期の下剋上とは親兄弟との殺し合いから始まり配下の者が裏切りのし上がる、情を切り捨ててこそ自分を守もられ家を守れるというのが信長の信念でもあった。





 ── 接触 ──




 加賀大戦が終わり祝勝会が春日山城で行われ那須烏山に向けそろそろ戻る頃に小太郎よりある人物がどうしても会いたいとの依頼があり、密会する事になった。



「この度は大変なご活躍、私からも御礼を申し上げ致します、軒猿より重大なる話を聞きました、上杉家お家一大事の話に心底驚き、ここはどうしてもお話を聞く必要があると判断させて頂きました、御実城様に相談する事も出来ず、まかり越しました、どうかお許し下さい、それと軒猿より聞きました事はどの様に回避すれば良いのかどうかご教授願います!!」



直江兼続かねつぐ殿ですね、ご苦労をお掛け致します、大家となった上杉家を守るために其方の力が必要なのです、先ず私が話す事を全て信じて下され、私の話が真実だという証拠はこの10年間の那須家の石高を見れば一目瞭然です、僅か5万石の家が今は200万石を優に超える家となりました、全て私が父上に進言し行って来た政により大きくなりました、それだけで信じるに充分な裏付けとなりましょう」



「では本題に入ります、謙信様、御実城様は既に軽い卒中を病んでおります、祝勝の祝いでもそうでしたが、酒強く、塩を舐め嗜んでおります、長年の嗜好ゆえ身体が酒を求め今更止める事は無理でしょう、残念ながら御実城様に残されたお時間はあと二年半程になります、少しでも延命出来るように塩だけでも取り上げて下され、そして問題はその後になります」



「残念ではありますが、御実城様には実子がおらず養子であります、景虎殿、景勝殿になりますが、次の継がれる当主を選ぶ事無く亡くなられます、それにより家が二つに分かれ大きい争いとなり力が半減し何れお家滅亡の危機が訪れます、それを防ぐ為に直江殿に接触したのです!」



「その話が本当なのか正直判りませぬが、冗談で話せる内容ではありませぬ、仮にそうなるとした場合は、某にどのように致せとの話でありましょうか?」



「宜しいですか、この話は景虎殿の兄である氏政様も既に承知しております、上杉家でお家騒動にならぬ様に既に氏政様は動いております、そこで、御実城様がお亡くなり葬儀を終えましたら我らも葬儀には参加しておりますので・・・・・のようにして手配りを願います、後はこちらにて動きます、御実城様の身に何も起きなければ幸いであり、起きた場合に何もしなければ上杉家は滅亡の危機が訪れるとお考え下され!」



「お一つ教えて下さい、何故那須様は未来を読めるのですか? この話を信じる事大切なれど、刻である先の未来が読める事・・・誠に人なのでありましょうか、妖の類に思えてなりませぬ、話の内容は上杉家の一大事を回避する話なれば某もなんでもご協力は致しますが、どうそこを理解すれば良いのでしょうか?」



「そうであるな、妖の類と思われても仕方なし、今はその妖と思うて下さって構いませぬ、私の説明は何れそうなります、今はこの戦国の世を平穏なる世に変えるには上杉家の力を弱めてはなりませぬ、北条、小田、那須の三家は鉄の結束にて平穏なる世を築くために動いており、此度の上杉家で起きた織田家との戦に援軍として来た理由はただ一つ、平穏なる世を築くために上杉家が必要であるからです!! その大義の為に来たのです!!」



「判り申しました、刻が来ましたら未来を読める秘事を教えて下され、今の私が聞く事では無いのでしょう、では私も備え動くと致します!!」



「頼みましたぞ、直江殿!!!」



 直江兼続は上杉家での次の当主になる景勝の懐刀であり、上杉家を支える重鎮となる、家の進路を見定め方位を示す上杉家きっての快刀になる、直江兼続がいなくば上杉家は残らなかったであろうと評する歴史家も多い。




 この年、関東以北の地域から離れた土佐の国で大きな戦が起こり一つの家が表舞台に登場して来る、大きな戦とは四万十川の戦いと呼ばれ、長宗我部氏と土佐一条氏の合戦の事を指す、この合戦によって長宗我部元親の土佐《高知県》統一が決定的となり戦国大名として四国統一の流れが加速していく。





 朝廷と信長の綱引きは、信長が京に戻ってから問題が再燃した、その問題とは僧侶の力をはぎ取る五戒と紫衣の件である、朝廷も黙ってはおらず、信長に再度別の角度で対抗した、それは南蛮の追放である、この南蛮の追放とは、信長が勝手に1569年にフロイス達の京での布教の許可をした事に始まる。



 正親町天皇は、信長が勝手に布教を許した事に怒り宣教師追放を命じる南蛮追放の綸旨りんじを出した経緯がある、この綸旨を認めず信長は強硬にフロイスに『気にすることはない布教をして良いと許可を与えた』その結果、天正3年《1575年》に信長の援助で教会を都に建設してしまったのである。



 上杉家と和睦の際に朝廷は秀吉に紫衣については朝廷の、帝の専権事項として信長からの要求は受け入れられない事を承諾させ、勅命を出す条件にしていたが、京に戻った信長は又もや同じ要求を行い正親町天皇を大いに怒らせ朝廷と対立する事になって行く、しかし、その朝廷には武力は持ち合わせていない。



 そこで朝廷は信長に対抗する為に、日ノ本66ヶ国に南蛮追放の綸旨を宣布すると信長を脅し、66ヶ国に天下統一前に帝が綸旨を行った場合の影響力は不利と悟った信長は、紫衣については朝廷の専権事項と認め、南蛮の宣教師追放の綸旨の発布を食い止め両者痛み分けとなった、しかし、朝廷はこの事で信長は朝廷蔑視の者として断定し画策していく事になった。



 この正親町天皇が信長を朝廷蔑視の者として断定した事で公家衆の主だった者達も天皇を中心に軸が出来上がった、朝廷の力が弱まるという事は公家の力も弱まる事であり、朝廷あっての公家が成り立たなくなる、信長の一連の出来事に危惧していた実力者の元関白の近衛前久さきひさが信長の元からゆっくりと悟られない様に立ち位置を朝廷側戻し、反目していた現関白の二条晴良はるよしと密かに通じ始めた、公家とは時代の流れを読み、水が枯れない水路を見つけ生きながらえる者達と言えよう。





 ── お鶴の姫 ──




 北条氏康の娘、お鶴の姫も12才となり明年5月に田植えが終わる頃に那須に、資晴の元に嫁ぐ事になる、お鶴の姫は北条家現当主の氏政の妹であり、資晴に嫁ぐ事で氏政と資晴は義兄弟となる、これは何年も前に資晴が元服する以前より北条家で、なんとか資晴をもっと身近な味方にするべく政略として望んでいた事であり、それがいよいよ明年実現し、迎える事に感無量の北条家であった、当然と言えば当然である。



 迎える側の資晴も那須家を上げて館を作り失礼の無いように準備していた、その際に資晴の母上であるお藤のお方のが住む館も今では手狭となり新たに隣に新館を作るべく建築が工事が始まっていた。



 200万石を超える家同士の嫡子と姫の結婚である、北条家からも侍女が20名、従者の侍達が50名と移り住んで来る、当初はこの四倍もの人数が来る予定であったが最小限の人数でと資晴から頼み込み、この人数となった、理由は簡単である母であるお藤のお方でさえ侍女は20名程なのに侍女80名、侍達従者200名と聞き慌てて人数を減らした。



 北条家は三代前から一国の太守という大きい家、那須はまだ12、13年で大きくなった家である、大国としての経験が浅く、政は問題なく出来ておるが、城も含めてインフラがまだ整っておらず、ばかでかい小田原城と比較されても困るのである、そんな事は何も知らないお鶴の姫が来春に来るの事になる。



 北条氏康には側室の子も含め12名と多く、実際にはそれよりも多くいたと言う話も残されている、お鶴は六女とされているが実際の所確定は難しい、この時代男子については記録が多くあり女子の子供は名前すら記録に残っていない事が普通であり、結婚した後の婦人としての呼び名が記録に残れば良い方である、そこは北条家でも同じであり、お鶴の姫も名前として正しいのか不明である、どこかにあった記されていた鶴姫を採用している、当主の娘であっても名前の記録が残っていない時代、如何に女性蔑視の時代でもある、現代であれば政権交代に繋がる蔑視と言えよう。



 上杉景虎は兄となる、この鶴姫は史実では武田勝頼に嫁ぎ、最後は勝頼と共に19才で生涯を閉じる事に、亡くなる直前に詩を『篠の一夜の情にだにも、命を捨つ、すてらるるは、いもせの中なるに、増てや申さん相馴れ参らせて、今年早七年に成と覚えたり、縦小田原へ越たり共、をくれ先立つ世の習なれば、御身は末の露と消玉はんに、身づからは本の雫と残りてもなにかはせん、元より夫婦は二世の契と申せば、渓にて共に自害して、死出の山三途の川とかやをも、直に手に手を取組て渡り、後の世までの盟をこめんこそ本意なれ。甲乱記』




 桂林院殿は最後まで残ってくれたわずかな家臣に多くの者が逃れる中で最後まで従ってくれたことに礼を述べ、女ながら立派な自害を遂げたことを小田原に伝えるように黒髪を一束切って念仏を唱えつつ、脇差を胸に突き立てて自害した、辞世の句は『黒髪の乱れたる世ぞはてしなき、思に消る露の玉の緒』。



 法名は桂林院殿本渓宗光、兄の氏規が天正11年《1583年》の没後供養の際に贈った法名である。

 勝頼が武田家を継ぎ、信長、家康と争い続けた事で武田家は滅亡する、鶴姫は資晴に嫁ぐ事で運命を大きく変える事になるであろう。






 ── お田鶴のお方 ──





 北条氏政も小田原に戻り、父氏康と幻庵様に無事に勝利し終わった事、妹の婚儀となる、明年の那須資晴についての嫁入りの話などするする際に、父と幻庵に、お田鶴の件、引馬御前の今後を決着してからお鶴の件を進めるべきと相談した、何しろ年齢的にも放置していると出家してしまうと、出家されては話がおじゃんになると考えた。



「儂も悩んでいたのだ、姪っ子ではあるがお田鶴は強情である、どうすれば良いか中々なのだ、女子は静かな者に限る、お田鶴は我が強いのだ、正直どうすればよいのか判らん!!!」



「父上が判らぬ事を某に言われても、そもそも父上の案ではありませぬか、私とて良い策などありませぬぞ!! 若い女子を囲っております幻庵様なら如何でしょうか?」



「仕方ないのう、儂が教えて進ぜよう、情強き女子程、落とせるのじゃ、情が強いという事はその情を超える甘い言葉を伝えればイチコロなのよ、女子に強い意思でそなたが欲しいと言えばそれで大丈夫なのじゃ!! お主らは経験が少ないのう、それでは儂のように若い女子に好かれぬぞ、もう少し儂を見習うが良い!! 二人ともくだらん味噌汁で言い争いをしている場合では無い!! あっははははー」



 徳川家康の正室であった築山御前から毒酒で殺され掛け、離縁し追放した事で独り身となり、同じく家康と今川館で幼馴染であったお田鶴と再婚を画策していたのだ、家康には本多正信を通じてこの案を伝えており、上手く再婚出来る物と考え、織田との戦が終わった後に実行しようと練っていた、しかし、お田鶴は家康の首に薙刀を・・・・危うし家康となる。






信孝悲惨ですね、親である信長は今の時代では逮捕案件ですね、危ない親です。

次章「当主とは」になります。


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