204 王手
戦の内容を書くのって大変です、書いている側り私は場面を理解出来ても、書いた字を読むと本当にこれで意味が通じるのかと悩みます、他の方も皆さん苦労されていると思います、コツとかあれば教えて頂き所です。
小田原の港を出航した連合艦隊、その頃相馬領での伊達家との戦いも佳境を迎えていた、相馬に岩城が参戦した事で雲行きが怪しくなり、伊達家では何故、会津が動かぬのか、会津が動かねば最上が隙を突いて攻める事が出来ず、このままでは那須が動いてしまう、那須がこちら側に来るのではないかと不安を抱いていた、又、最上も会津が動かぬ事で、伊達を援軍した方が良いのか、場合によっては手薄な南部を攻め落とした方が益が多いのではないかと邪な思惑が駆け巡っていた。
行動が取れずにいた最上に伊達より至急援軍の要請が、火急の知らせが届いた。
「なに、岩城が相馬の援軍に来たというのか、見事じゃ、天晴じゃ、急ぎ、芦野と伊王野に相馬に援軍に向かう様に使いを出すのだ、道は浜街道から相馬に向かえと言うのじゃ、我らと行く予定であったが予定を変える、本体の我ら8000は飯坂を抜け相馬の北側より伊達を叩く、時間との勝負じゃ、最上が動く前に伊達を挟撃致す!!」
当初の予定では全軍で相馬に援軍として向かう予定であったが、岩城が援軍として現れた事により芦野と伊王野の3000を向かわせれば充分と考え、伊達を北側と南側で挟み挟撃する策に変更し、出陣した那須資胤、資胤は5万石という小大名時代より何度も戦を経験しており、那須家は小さくても数百年に渡り一度も負けた事はなかった、那須より他国に攻め入る事はほぼ無いが、他国が那須に攻めかかる事が大半であり、守る方法、勝つ方法を誰よりも熟知していた。
岩城が現れた事で資胤は一瞬で勝機を見出し、奥州街道を北に駆け上がり飯坂を抜け白石を経て名取の浜に着陣し、浜通りを抑え、相馬の北側に辿り着き一気に浜通りを南下し伊達軍に襲い掛かった。
「伊達軍も1万という大軍ではあるが南に相馬家の居城中村城には4000の相馬、岩城、田村の兵が籠城しており、そこへ3000の芦野、伊王野軍が加わり7000となり、中村城攻略に暗雲が立ち込める中、南の名取より退路を塞がれ那須軍が現れた事で、急ぎ最上に援軍要請が告げられた!!」
「なんと、相馬に岩城が来たのか、伊達の兄では無いか、それと会津が動ぬのに那須が現れたのか!! これは拙い、伊達が危ない、伊達が倒れれば最上まで危うくなる、会津が動かぬのであれば、我らは伊達を助けねばなるまい、南部を獲っても伊達が弱まれば結局潰される、我ら最上はこれより相馬に向かう! 出陣致す、相馬に向け進軍せよ!」
本来は会津に向け進軍する予定であったが、那須が伊達と挟撃する為に現れた事で最上も行き先を変更せざる得なかった、資胤も岩城が援軍として来た事でこちらは違う形で有利となり、伊達は危機に陥る事に、最上が動いたと聞き、資胤はさらにもう一手、今度は会津を動かす事にした。
「父上から蘆名に文が来た、これより我らは出陣致す、皆の者我らが向かう先は相馬ではなく最上領に向かう、このまま会津を抜け、山形に向かい山形城を囲む、手向う者は容赦するな、それと結城白河の城代、小峰 義親に動く様使いを出せ、小峰が釣られて尻尾を出すやも知れぬ、松本抜かるなよ!!」
那須の芦野と伊王野に接している白河の関を守る結城白河氏、現当主の、結城 義顕は現在8才となり元服を行ったばかりである、7才の時に父が死亡し稚児当主となるが、親族の小峰義親が城代となり当主は傀儡になっていると前々より噂があり、父である那須資胤より警戒するように資宗が蘆名の当主に成った際に情報を得ていた。
結城白河氏《白河氏》が那須に従属した経緯は10年程前の特殊な事情があった、那須が佐竹から棚倉領を得た際にまで遡る、元々結城白河領の棚倉が佐竹の伸長により半分が獲られており、戦によって勝ち那須の領地となった際に、結城白河が銭三万貫《30億円》で買い取った所から財政が成り立たず城も荒れ果て東北一の貧乏な大名となり、結局那須に臣従し生き延びる事になった。
その後の政策で財政援助と新しい田植え等もあり今では城も修繕され石高も以前とは比べ物には成らない10万石を有する大名に復活した、この手柄は当時から城代として差配した小峰の功大であったと言えるが、その事で増長激しくなり、近年当主が亡くなり幼い稚児当主を支え、昨年元服を行ったが、みすみす築いた権力を幼い当主に譲りたくないと言う邪な思惑が見え隠れしていた、この事は結城白河家に潜り込んだ和田衆の忍びより以前から伝わっており、危険な状態だと那須資胤は把握していた。
此度の最上、伊達、南部が動いた事で、結城白河家も何かしらの動きがあるかも知れないと蘆名資宗に伝え備えさせていた、蘆名家では当主が資宗となり重臣達も配置替えと入れ替えを大胆に行い、蘆名家で飢饉の際に那須家が行った援助と政の姿勢に感服し、当時蔵奉行で家老の末席だった松本が資宗の近臣として採用され活躍していた。
蘆名が動きその隙を結城白河家が動く可能性もありそれを松本が注視する事にした。
「はっ、殿結城白河の動き逐次某が見ております、城の事会津の事、ご安心下さい!」
「うむ、頼んだぞ、では我らはこれより山形に向かう、進軍せよ!!」
会津と山形は街道で繋がっており喜多方を抜け難所の峠を越え、米沢から山形に通じる、その距離30里《120キロ》である、会津の軍勢も多くが騎馬隊であり、荷車を馬が曳いているため移動は三日目には山形に到着し城の見張りと街道を塞ぎ為に一部の者を残し、最上軍の後を追う事に、最上は会津蘆名が山形から、後ろから追われている事に気づかない、いやそのような事は絶対にある訳が無い事であり、徐々に窮地に追い込まれている事には思慮の外であった。
── 手取川合戦 ──
手取川を挟み織田軍本軍5万《鉄砲隊5千含》対、上杉軍2万5千、北条軍1万5千、那須軍1万、計4万5千の大軍が今か今かと開戦の合図を待っていた、大聖寺城から陣を引き、手取川の岸に横陣に配置し、織田軍を待ち構える上杉軍。
上杉軍は大聖寺城を撤退するにあたり、能登の七尾城を落とす必要から織田と戦っている上杉の代わりに七尾城の攻撃を北条と那須に依頼し、2万5千の兵で襲い掛かる事に、城攻めを行う前に那須の大石火矢を城内に向け無数に放ち、石火矢の爆発と燃え広がる火災の消火と煤煙で戦意を挫き大手門を打ち破り三の丸、二の丸を落とし、本丸に籠城する兵に投降を呼びかけ降伏させた、僅か一日で落城をさせていた。
能登の当主は能登畠山氏であり、畠山義綱であるが重臣達が政治合議組織をつくり当主を追放し、合議組織で政を行っており、能登国は実質畠山氏の領国ではなく、この時点で重臣の中で一番力ある長続連・長綱連父子が支配し、七尾城に籠城していた。
降伏を呼びかける中、長親子と一緒に政を行っていた重臣の遊佐続光や温井景隆が親子を裏切り、親子を殺害し降伏となった。
「織田軍が間もなく手取川の岸に来ます、その数5万の全軍と思われます!」
上杉軍が布陣した手取川の土手は海に近く、川幅が200mある広い浅瀬の土手上に横長に布陣した、川幅が広くも浅瀬であれば織田軍は攻撃を直ぐに行うだろうと考え、態とここに布陣を行った、理由の一つに川を徒過する際に鉄砲は使えぬ、水しぶきを上げての徒過中には使用出来ない事、浅瀬とは言え200mも砂利と砂の中を徒過する事は思いの外体力が奪われる事を利用する事にした、七尾城が落城した事を知らぬ織田軍は必ず勢いに乗り攻めて来ると判断した。
「現れました、織田の軍勢が岸向こうに見えております!」
信忠は、父信長と合流し、横にいる父信長に目をやり、信長は首を縦に振り、攻撃する事を許した、それを確認し、全軍に合図を送る信忠!
「敵は退き、七尾と挟まれた、今が好機である、全軍上杉を攻撃せよ!!」
一斉に土手を降り川に飛び込み浅瀬の中を、織田の大軍があたかも黒蟻の塊が移動するように近づいて来る。
その距離約100mを切った所で土手の上から那須五峰弓から矢が一斉に放たれた、織田軍も那須が弓で攻撃する事は事前に知っており兵には盾を持たせている。
石火矢と、五峰弓、鏑矢が乱れ飛ぶ、矢を搔い潜り土手に辿り着く兵、そこへ上杉と北条の槍で始末される、それでも土手を上り切り上杉軍に襲い掛かる者達が徐々に増えて行く、織田軍が鉄砲を使えずやや不利ではあるが、乱打戦に、土手一帯では幾つもの兵達の塊が、渦が大小出来上がり乱打戦が広がって行く。
広い土手の裾野で行われる合戦、織田軍が岸を上り終えた事で那須軍1万は騎馬に騎乗し一旦乱打戦の場を離れ、今度は騎馬からヒットアンドウェイの得意の直射と遠射に切り替え、上杉軍と北条軍の援護に、織田の鉄砲隊が準備を始めてた所には集中的に鉄砲隊に向け石火矢と矢を放ち、鉄砲を放つ射手に被害を被らせ、混乱させる事に、中々戦況が有利に傾かない所で夕闇が迫り、この日の戦闘は終了する事になった、織田軍は大聖寺城に戻り、上杉軍は手取川の岸に陣をそのまま移動せず翌日に備えた。
信長は乱打戦に持ち込むまでに一方的に攻撃をされ、土手を上り乱打戦となっても那須の弓に一方的に攻撃される事に怒り心頭であった、そこで丹羽に命じていた馬防柵を大聖寺に設置した柵を取り払い、明日はその柵をなんとか上杉軍がいる向こう側の土手まで持って行き乱打戦となった場に馬防柵の設置を命じた、鉄砲隊は早朝未明に先に手取川中州まで行かせ、徒過する際に襲って来る敵兵と、柵をもって移動する河原者を守り土手上まで行けるよう援護を命じた。
── 王手 ──
小田守治率いる連合艦隊は極秘の地に向かい、目的地に停泊し、艦隊から30石の戦船が200艘が降ろされ、兵員3万の軍勢と多数の騎馬、木砲、兵糧弾薬が降ろされた、極秘の地とは大阪湾である、軍師玲子からの詰将棋の如く、相手の王《信長》を絶対に摘み取る王手の策を授けられその通り動いた連合艦隊、その連合艦隊の目的は京都、都の制圧であり、朝廷を手中に入れるという壮大な王手である。
信長が副将軍としての権勢を誇れる後ろ盾こそ帝の入る京を支配している事であり、それにより周辺五幾国、 大和国 ・ 山城国 ・ 河内国 ・ 和泉国 ・ 摂津国 を支配下にし、堺からの莫大な財を背景に力を得ていた、信長の本拠地、尾張、岐阜、そして近江等の領地支配を拡大する力の大元は京を手に入れている事であった、日ノ本の中心であり力の源泉を軍師玲子は信長から取り上げる事にした。
織田家が加賀へ攻め入る事、能登を狙い獲る事、手取川で合戦がある事は玲子のように歴オタであればある程度知っている事であり、史実を知る者であれば防ぐ方法も凡そ見当が付く、2年程刻の流れが速い戦ではあるが、織田と上杉が戦うという戦はこの加賀大戦であり、この戦を利用し信長の力を一旦弱め、上杉の力を増やす事を選んだ軍師玲子である、その理由は秀吉の時代を見据えての先の先を手を軍略として今から打ったのだ、その理由は資晴も誰も読み取れぬ手であった。
此度の策で只一人何かを感じていた者がいた、その名は明智十兵衛である、不思議と理由は判らぬが見えていた、いや観得ていたと言える、外から第三者として自分と関係した手が打たれたと肌で感じていた、そのように感じ思うだけではあるが、自分の命に宿っていた深き業が、呪縛から解放された晴れやかな手が打たれたと後日感じる事に。
佐竹海将が大阪湾に入り3万の軍勢が京に進軍する中、京には信長の三男信孝が信長の留守を守る役目を担っていた、信孝の軍勢は八千であり足軽が中心の京を守るだけの役割であり、戦に備えた軍勢では無い、京に向け敵と思われる軍勢が進軍していると聞き、信孝は敵と思われる軍勢を止める術もなく岐阜に向け撤退してしまう、正しい判断と言えば正しいと言えるかも知れぬが、信長から見れば謀反であり裏切りでしかない、この撤退により信孝の運命は大きく変わる事に。
手取川で連日に渡る上杉軍の大戦、鉄砲隊の活躍もあり、上杉側にも被害が出始める中、信長に恐ろしい文が届く、文を読み取り、即断で撤退戦に移るように指示を出す信長。
「如何されましたか、いきなり撤退など、無理であります、父上どうなされたのです?」
信長の顔は土煙色となり黒色となった!
「京が都が敵の手に落ちた!!」
「何ですと!! 敵とは誰でありますか!!」
「奴らだ、あの北条と小田と那須に諮られた!! ここに我ら織田本軍を呼び寄せ、手薄となった京を掠め獲られた、儂の油断である!! 今帰らねば、京を取り返さねば織田は終わる!!」
「今ここで撤退したら追撃されます、甚大な被害を被ります、ここは大聖寺城に兵を残し、父上はお戻り下され、某と柴田は残ります、私まで撤退すれば敗れたと思われ追撃されます、兵1万を残し、他を引き連れ京を取り戻して下され!!!」
この日の戦を終え、大聖寺城に戻り信長は急ぎ帰還する事に、その事をいち早く察知した、この危機を知る者が織田家に一人だけいた事で織田家は被害を最小限に食い止める事に成功した。
「なに殿が、京が敵の手に渡ったのか、北条と小田と那須の連合軍に・・・信孝様は何処に・・・なんと・・真先に岐阜に撤退したというのか・・・拙い拙いぞ・・・殿が危ない・・・織田家が危ない、良しここは儂が京に向かう、支度せよ!!!」
「何を言われますか、殿が出て行っても兵が八千しかおりませんぞ、それでは戦えませぬぞ!!! それに殿は謹慎中の蟄居を命じらているではありませぬか!」
「馬鹿もん、蟄居など今更どうでも良い、それに戦うのではない、儂が出張って有利な形で和議の条件をこさえて来るのだ、織田家でそのような事が出来るのは儂しかおらん!!!」
秀吉は人誑しであるが外交と言う役目も一流にこなす外交上手であり調略にかけては右に出る者はいない、その秀吉が三家と朝廷に手を伸ばし、一定の条件が整えば和議が成功する所までこぎ着けた、あとはそれを信長が認めるかどうかであった。
信長が亡くなった後の事まで考えての深い手、玲子さんって凄い軍師ですね。
次章「和睦と敗者」になります。