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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
202/331

202 資晴出陣

 




 加賀と奥州相馬での戦が開始される中、織田信長は戦には出陣していない、副将軍として京に滞在し朝廷に対して、力を背景に圧力を加えていた、一向勢力との戦いで苦労した事で又これからも続くであろう一向との戦いで僧侶の力を剥ぐ事で弱体化させようとしていた。



 僧侶には独自の階級が存在し、身に付ける法衣によって身分が分けられる、特に一向宗の僧徒は権威付けされている、現代では、大僧正 緋色、権大僧正 紫色、他一般僧侶 水色又は茶色、修行中 黒色となっており10階級以上に分かれている。



 特に紫衣しえは紫色の袈裟であるがそれを着用出来る者は、特別に朝廷が認めた者であり最も位が高く尊い僧侶とされた、但しこれはブッタ《釈迦》の教えには一切関係無い事であり、釈迦の精神と反する行為だと見抜き信長は弱点を見出した、紫衣は、朝廷が定め始めた、中国唐代の則天武后そくてんぶこう法朗ほうろうら9人に下賜したのを模したとされる、朝廷が僧侶より上の立場であるという意味合いもあり上級の僧侶に紫衣を与え許し与えた事に始まる。



 着衣の色で階級を分ける歴史は古く律令の仕組みに取り入れられ冠位十二階級、日本書紀には七色十三階冠という説明が書かれている、信長は一向衆又は日本の仏教界の危険な程の権力と武力まで持つ事に解体を行うにはどうするべきか、力を弱める為にはどうすれば良いのかを突き止めた、その結果権威の象徴となっている衣を取り上げる事にした。



 仏教の基本精神と違う事に対して信長は朝廷に圧力をかけ強訴とも言うべき力技を使い戦う為に戦での指揮を執らずに京に残っていた。



 朝廷に要求した内容は今後は妻帯した僧侶は僧に非ず、現在妻帯し嫡子がいる場合、その嫡子の身分の保証は継承されない、紫衣は五戒の戒律を守る者に限られる。



 必ず真言宗一向門徒が大騒ぎとなるであろう条件を朝廷に認めさせようとしたのである、五戒すら守れない僧侶は僧侶に非ず、衣を着た犬畜生である、人に逆らう畜生であれば成敗するだけであるという事を公に迫り、それを朝廷に認めさせようとしていた。



 五戒とは仏教における信者が守るべき5つの教えであり信者として生きる上で最低限のルールとして5つの戒めである。



 不殺生戒:殺生・無益な殺生をしてはならない。

 不偸盗戒:盗みを働いてはいけない。

 不邪淫戒:不貞行為・不倫をしてはいけない。

 不妄語戒:妄言・嘘をついけはいけない。

 不飲酒戒:飲酒・お酒を嗜んではいけない。



 ここでお酒について、お酒を飲むと気が緩み上の4つの戒を破るから禁止にしたとされる説と身体に悪いという説など諸説あり、但し既に戦国期の坊主共は、酒の事を薬として身体のために少しぐらい飲むのならよかろう、酒として飲むのではない、智恵のわきいずるお湯、という意味を持った『般若湯』という名前で堂々と酒を煽っていた。



 僧侶が女性と交わる行為は快楽の世界に入る事であり煩悩を払う事ではなく煩悩を自ら求める行為として釈迦は絶対に出家する者には認めなかったとされる、出家とは俗世間の欲から離れる事であり悟りを求め自らの使命に目覚め人々を救済して行くという尊い行為が出家と言えよう。



 余談だか世界の仏教界で、日本の仏教界とアジア各国の仏教界では大乗経、小乗経という大きな枠の違いはあるが妻帯を認めている国の日本の僧侶は異質であり、日本の妻帯している僧侶を僧と認めていない国が多い、親鸞の教えにも影響されているが他宗でも妻帯を認めた日本の国の政策に大きい問題があったと言える、江戸時代にキリスト教禁止の政策を推し進める中で檀家制度を各宗に強要し、代わりに布教しなくても暮らして行けるように妻帯を認め、各家々は強制的にどこかの寺に配属され檀家制度が作られた、その檀家制度により、一定数の信者がいる事で僧侶が俗世間に浸る事に繋がった。



 僧侶は出家者であり俗世間の欲から離れた者である筈が、高級車に乗り、飲み歩き、ゴルフ勤しみ、女性を囲う等の不埒な僧侶が問題を起し時々ニュースに登場する、今日では布教する僧侶を探すのは大変に難しく珍しい事になった、日本の仏教界は葬式仏教になったと言われている、葬式さえしていれば食べて行けるからであろう。



 しかし、その葬式すら釈迦は、僧侶が携わっては行けないと教えた、葬式は在家の者に任せ、葬式に携わる暇があるなら布教に歩きなさい、修行を行いなさいと言う教えである、釈迦か亡くなる時に弟子に命じたと教えに残っている。



 信長の着眼点は合理的と言える、自分の目的を妨げる障害物には力で粉砕し、自分に反発する者にも力で粉砕すると言う、一言で言えば判りやすいと言える、しかし、この事が契機となり朝廷との軋みが生まれる事に、朝廷は信長を危険視して行く事になる、信長は朝廷の存在も認めなくなるのでは無いかと疑義という大きな災いが生まれる事に。





 ── 謙信無双 ──




 織田との戦いが始まると見た謙信は三家の参戦とは別に能登の主要な入口となる大聖寺城を柴田側が動く前に占拠し、奪い取った、ここが能登への入り口であり加賀への侵入口と読み取り軍勢を派遣し、織田家侵攻に備えていた、その読みは正しく大軍が戦うにはある程度の広さが必要であった。



 大聖寺城は現在の錦城公園がある城址公園である、平城ではあるが小高い山を生かし曲輪が作られ、標高は70m程の見晴らしの良い城であり、敵の動きを見張るに適した城を占拠した謙信。



 柴田は織田信忠本軍が到着する前にこの地を取り返し何度攻めるも謙信に蹴散らされ、むしろ追いやられ被害が増える中で又もや秀吉と軍議の席で大喧嘩に発展する、那須に対して調略を何度申し述べても許さず、ついに秀吉の堪忍袋が破裂した。



「柴田様は本当に戦に勝つ気があるのか、正面から戦うだけが戦ではありませぬ、いい加減負けている事を認めなされ、負けを認めてこそ次の手が浮かぶのです、これでは亡くなった者達が浮かばれませぬ、いい加減にして下され、皆が柴田様をおやじ殿とお呼びしておりますが、ただの糞おやじではありませぬか!!」



「貴様!!何様の積りだ、殿の衣に隠れた猿がキツネの真似をしてさも自分が功を取ったと猿芝居で城持ちとなる卑怯な猿の正体を儂は知っておるぞ、猿の人誑しに騙されているだけよ、儂がその面に隠れている醜い正体を、面の皮を剥いで化物の正体を曝そうぞ!!」



 余りの悔しさで柴田の顔に唾を飛ばし、唾を飛ばされた柴田は刀を抜き切りかかる、軍議の席が修羅場と変わる中、両者を止めに入る滝川他の皆々、振りかざした刀が滝川の肩にあたり倒れ込んだ事で、大変な事になっと理解し騒動が納まる事に、滝川は負傷してしまう、柴田軍は信忠が到着する前に戦どころでは無くなった。



 仕方なく信忠の到着を待ち、本陣を守る事になった、史実でもこれと同様な事が起きて居る、柴田と秀吉は水と油、5月下旬に織田家本軍が到着した、柴田と秀吉が争った事、滝川が負傷した事で、指揮官は信忠に移り、秀吉を戦線から離脱させ長浜城で蟄居を命じた、これにより織田軍の指揮官は正式に信忠となった、京でこの知らせを聞いた信長は秀吉に激怒し戦終わり次第切腹を言い渡す予定となった、相手が謙信である以上近い内に信長親衛隊を率いて檄を飛ばしに行く事になる。






 ── 資晴出陣 ──




 最上、伊達、南部が連合し相馬と津軽安東家に向け進軍を開始したと言う知らせを聞いた資晴のもとに大田原が5000の兵を引連れ越後春日山城に到着した、大田原は津軽安東家に援軍として派兵された部隊である。



「大田原殿、先ずは城にて休まれよ、我らも津軽安東家への戦について話していた所じゃ、大田原殿はどのように援軍を運び戦う予定なのじゃ?」



「はっ、若様正直我らの5000の兵は初めての地であります、御屋形様からは越後より海側の道を行けばなんとか行けるだろうと言われただけであります、どうすれば良いか教えて下され!」



「誰か道を知る者はおらぬか?」



「はっ、某何度か津軽には和田様より使いとして行き来しております」



「では海側の道をいけば良いのか?」



「途中で川に阻まれ向こう岸に行けず、このような人数では無理であります、海岸の道は崖も多く、陸側の道で行かねば無理でありましょう!」



「はっ? では無駄足であったのか?・・・・」



「十兵衛、半兵衛どうしたら良いのだ?」



「・・・・あの~宜しいでしょうか?」



「お~先程の和田衆よ、良い案が教えて頂きたい!」



「私で良ければ津軽安東家に越後に船を寄こす様にお伝え致しますが、大勢の者が海側からは行けませぬ、後は来た道を戻り奥州街道に入り会津を抜け羽州街道で津軽に向け行くしかありませぬ、それであれば行けますがここからであれば戻る事になりますので、あと30日は要しますかと!!」



「済まぬが当分儂らは動けぬぞ、ここに来るだけでも結構身体にきておる、さらに30日とは、無理であるぞ若様!!」



「父上も道も知らぬのに適当に海側を行けとは・・・どうすれば良いかのう?」



「宜しいでしょうか?」



「お~十兵衛遠慮せず申せ!」



「大田原殿が来た事で我らは今2万の軍勢であります、今は管領様が全面に出ており、北条様の一万五千と我らの兵二万は待機しておりますが、出番はまだ先でありましょう、そこで管領様と北条様には那須に手向かう家が現れた事を話し、半分の1万を津軽に向け出立しましょう、越後と津軽であれば船であれば数日ので行き来出来ます、津軽安東家の船に来て頂き、我らは向かいましょう!」



「大田原殿と引連れた5000の兵にはここに残って頂き体力の回復を行って、疲れていない1万の兵が向かう事にしてはどうでしょうか、それと半兵衛殿にはここに残って頂かねばなりませぬ、加賀の戦で変化が起きた場合に半兵衛殿は必要になります、津軽安東には某が参ります!」



「成程、和田衆よ、そちの足で津軽安東家まで幾日で行けるのじゃ?」



「ここからであれば4日で行けまする、船を出して頂き七日か八日後には向かいに来れるかと思います!」



「では文を書く、それを持って渡すのじゃ、津軽安東家の一大事にのんびりと一ヶ月も歩いて向かっておれん、皆の者それで良いな!!」




 資晴は正確な地図を持っていてもその地図には道があるとは限られていない、戦国時代は主要な街道はあるが特に海沿いの、海岸通りは安全とは言えない、そもそも道が整っていない時代である、結局津軽安東家の船が那須の軍勢を運ぶ事に、那須家の船は小田原に参集しており、佐竹海将も不在な資晴軍。



「では半兵衛、後を頼む、儂もここにいてもやる事が無い、大田原殿も来たゆえ、代わりに儂が出張る事にする、太郎と十兵衛を連れて行く、一豊と千本は残してゆく、さっさと片付けて終わりにして来るゆえ安心致せ!」



「そうじゃ、百合に文を書くのじゃぞ、儂に苦情の文が届いた、文も寄こさず音沙汰が無いとの文句じゃ、帰ったらただではおかぬと書いてあったが、仲良くやるのじゃ、儂に苦情が来ても困る、青い顔をしてないで文を書くのだ良いな半兵衛!!」





 津軽安東家の迎えの船が越後に来た、幸いな事に、そこには那須家の300石船1隻が交じっていた、交易で蝦夷に出向していた船が越後に那須の援軍を迎えに行く話が伝わり1隻だけ駆けつけ交じっていた。



 更に後日那須ナヨロシクが蝦夷の戦士1000名を引き連れ十三港に援軍として駆け付けた事で、津軽安東家、那須家、那須ナヨロシクの軍勢が17000という数に膨れ上がり南部家との攻守が逆転した、防御から攻撃に、南部領に向け反攻が開始される事となった。




津軽安東家が反転攻勢する中、上杉家は大聖寺城を織田信忠の織田本軍に抗しきれずに明け渡し、撤退する事になった、織田本軍の数が多いと言う事もあるが信忠は英才教育を受けた、若き武将であり、軍の動かし方は信長より一歩上を行く巧妙さを備えており単なる嫡子という訳では無かった、その的確さと速さに驚き撤退した謙信、防衛線を手取川の岸に横陣を敷き防衛ラインを明確にして第二ランドの準備をした、第二ランドには北条も那須も参戦する事に、ここに手取川合戦が、史実と同じ場所で戦が始まる事に。






織田家と謙信、そこへ最上、伊達、南部、それと戦う相馬と田村、さらに援軍の岩城氏が参戦、そして資晴が津軽安東家に、しかし、まだ動きが読めない最上がおります、原稿を書く私の身になって下さい、頭が追い付きません。

次章「艦隊動く」になります。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 真言宗一向門徒 浄土真宗一向門徒の間違いですか?それとも真言宗と一向門徒ですか? あと浄土真宗は親鸞上人が黒色の袈裟を着用していたので基本的には黒色だと思います。
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