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那須家の再興 今ここに!  作者: 那須笑楽
201/331

201 軸

奥州の地で那須に向けて策を練り領地を増やそうとする三家、その首謀者は。


何とか201回目の投稿までこぎ着けました、ここからは連投での投稿は徐々に控えていく事になりますのでご了承願います。

 





「では最上殿は我らが津軽を攻めても我らとは戦わぬという事でよろしいのか? それと我らの隙を突き伊達殿は南から我らに攻め上がらぬと言うのであるな!!」



「疑いは最もであります、過去を振り返れば我らは敵同士であり戦って来ました、那須が我らに交易の話で戦を止めた事で領地を増やす事が出来なくなりました、勝手に敷かれた道の上を歩かねばならぬとは我ら東国の武将を支配下にでも置いた心算でいたのでしょう!!!」



「南部殿の所にも文が来ておりましょう、我ら三家に織田殿からの要請であります、天下の副将軍であります、管領より上の方からの要請であります、これで遠慮なく動けます、後は我ら三家がお互いの領地には攻め入らぬと言う約束を行えば安心して動けます、輝宗もそう思わぬか?」



「最上義光《義兄》の言う通りなのですが、某那須には、息子を救って頂いた恩がありまして、躊躇しております、それと戦をした場合本当にあの那須に勝てるのか、あの者は何か我らとは違う、得体の知れぬ恐ろしさを秘めております、それともう一つ、我が伊達家が攻める場所は相馬になります、相馬に攻め入れば会津蘆名が出て来ます、南部殿と違い伊達家は大戦になるやも知れませぬ!!」



「伊達輝宗《義弟》の言う事はあながち間違いでは無いであろう、むしろそうなるであろうな、だからこそ儂が、最上家がいるのだ、蘆名が相馬に向かえば、その隙を突き最上が会津に攻め入る、であれば安心であろう、息子を救った恩など、あの話は偶然じゃ、那須が手当をしなくても助かったのよ、恩をきせ、その方を調略したのよ!!!」



「此度は織田家からの要請であり、大義はこちらにある、領地を堂々と増やせる機会が訪れたのじゃ、奥州の、この東国で那須と戦える家は我ら三家しかないのだ、我らが動けば日和見の腰抜け共もこちら側に来るであろう!!」



 尚、この時点の1575年5月の段階では津軽氏は南部家の支族であり独立した勢力としては存在していない。




 織田信長は加賀での戦に那須が参戦した事で那須の力を弱める策を見出していた、一見すると平穏と見られていた東北の地に狼煙が上がる事に、その首班格は最上義光である、義光の妹が伊達輝宗の正室であり奥方の義姫、最上御前と呼ばれ、伊達政宗の母親である、この時点での最上家と伊達家は特に反目はしていない。



 最上義光は戦国期に出羽を平定し、無事にやり過ごし家康の時に57万石という大家にまで石高を増やした最大の功労者と言える、しかしその後、義光の死後家督問題が生じ、幕府が介入するも家中不届きの咎で改易となる。



 そして最上と言えば娘、駒姫の不幸な最後を語らなければならない、豊臣秀吉の甥である秀次、関白豊臣秀次の側室に、最上義光は一度は断るも秀次より懇願され、仕方なく側室へ送る事に、文禄4年(1595年)、駒姫は側室になる為に京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日に秀次は豊臣秀吉の命により高野山で切腹となる、そして、駒姫も8月2日に他の秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ、11番目に処刑された、このとき、まだ実質的な側室になる前だったといわれている。



 最上は娘を秀吉に殺された事で、悲劇はさらに続く、娘の死を聞いた母の大崎夫人も、処刑の14日後の8月16日に亡くなった、娘の跡を追った可能性は高いとされている、義光の憤激と悲嘆も激しく、この悲劇がのちに義光が関ヶ原の戦いで東軍に属する伏線になったとする指摘もある。



 娘の命が奪われ、妻も後を追い、逝ってしまった義光の怒りと悲しみは数百年経た今でも語り継がれている、家は大きくなるも結局は改易となる運命の最上家、史実とは違う道が開かれるのかどうか、今は未定である。






 ── 資胤 ──





「御屋形様、和田衆の忍びより知らせが入りました!」



「・・・・何! ・・伊達家と南部が戦支度をしていると?」



「それが伊達、南部の他に最上も戦支度をしているとの報であります!!」



「伊達が南部と戦をするのか? 最上は伊達の援軍か?」



「それがそうでは無いようです、三家に使者が行き来きしている様であります、三家は別の所で戦をする魂胆かと思われます、今探りを入れておりますが、戦支度に入ったとありましたのでお知らせに上がりました!」



「では三家の狙いは何処じゃ? 伊達の隣は相馬じゃ、相馬の隣は、田村と岩城じゃ、又は二本松もおる、まさか三家連合で管領家に手向かうのか? なんの為の戦支度かを早急に見極めなくなてならぬ、忍びを多く放ち探るのだ、今は資晴もおらぬ、我らで対処せねばならなくなるやも知れぬ!!」



 この時の三家の石高は最上24万石、南部、30万石、伊達30万石である、史実と違い大交易と言う流れの中で領地拡大の争いが出来ず今一つ石高が増えていなかった、その事にも不満がある三家と言える。




 加賀の地で柴田を中心とした織田軍と上杉家の戦が徐々に激しい事になりつつある中、南部が津軽半島に進軍を開始した、それに合わせて伊達が相馬に向け進軍を開始した。




「御屋形様、伊達が相馬に向け進軍を開始しました、それと南部も津軽に向け進軍を開始したと飛風より報告が入りました!!」



「良し、では我らは相馬に向け進軍を行う、陣振れを致せ! 大田原と大関を呼ぶのだ!! 資宗には留まるようにと伝えてあるな!!」



「はい、御屋形様が相馬に向かう事を伝え、留まるようにと念を押しております!」



 那須家当主資胤は歴戦の当主であり、資晴の後ろ盾となり家を大きくした名将である、これまでにも大きな包囲網の戦いを経験しており、此度、最上、南部、伊達の三家が戦支度を始めた事で大方の予想を見越していた、その中で最上がどこに向かうかによって不利な場面が作られると考え、会津蘆名《資宗》には兵を集め、城に留まるように指示をしていたのである。



「南部の数は、兵数はどの位じゃ?」



「南部は9千、伊達は1万の軍勢であります!」



「良し、我らも二手に分けよう、儂の最後の戦いとなるであろう!!」



「御屋形様、大田原殿と大関殿が参られました!」



「殿、御屋形様、伊達が動いたそうですな、我らも動く時が来ましたな!!」



「そうなのだが、最上がまだ動かぬ、資宗には留まるように伝えておる、ただ南部の兵が多く津軽安東家が危ないであろう、我らも二手に分かれる、大田原は5000を引き連れ、会津より管領様に向かってくれ、越後より隣の津軽安東家の援軍に行くのだ、それであれば南部に動きを察知されぬ、それと大関は儂と一緒に相馬に向かう、烏山城は千本に城代を担ってもらう、此度は儂の最後の出陣となろう、ゆえに大関も一緒に行くのだ!!」



 伊達の進軍は海側の浜通りを南下し相馬家の居城中村城を取り囲んだ、相馬家の兵は1800と田村家700の援軍の計2500が籠城として詰めていた。



 相馬家の居城中村城の歴史は大変に古く、築城したのは坂之上田村麻呂であり築城年は800年、小高い場所に建てられているが平城に近く、土塁の堀が幾重にも張り巡らされた一昔、二昔前の古城であり、籠城しても10日も持たない城と言えた。



「良し、降伏の使者を送れ、降伏すれば皆の命は助けると申すのじゃ!!」



 伊達の軍勢は1万と言う大軍、降伏をするであろうと使者を送ったが・・・・・



「何・・使者が切られたと申すのか?」



「はい、敵の田村が使者を、問答無用と申し、切り殺され申した!!」





「おお叔父上・・何故使者を殺したのですか? 某に諮らず、何という事を仕出かすのですか!!」



「儂はお主の覚悟を決めさせる為に切ったのじゃ、それにあの使者の横柄なる態度は殺されて当然じゃ、これでお主の腹も決まったであろう、降伏など許さん!!」



 援軍で駆け付けた田村清顕きよあきは坂之上田村麻呂の末裔であり、現当主、相馬 盛胤の妹於北清顕の正室であり、田村清顕は頑固者の糞爺である。



「叔父上、この城では10日も持ちませぬぞ、如何するのですか?」



「な~に、なんとかなるもんよ、娘婿がなんとかするであろうよ!!」



「本当に会津殿が来てくれるのでありましょうな!! 裏は取ってあるのでありましょうな?」



「そんなものは無い、儂は田村であるぞ!!」




「南より新たな軍勢が向かって来ております、その数1500!!」



「旗印は見えたか?」



「・・・櫺子にれんじにつきです、岩城の旗印であります!!」



「岩城だと・・・岩城も我らに攻め入るつもりか?」




「殿・・・岩城勢が伊達の軍勢に攻撃をしております、西門の伊達の兵に向け攻撃をしております!!」



「なに、援軍か? これは好機ぞ、西門より田村家が出張る、儂が出張る、門を開けよ!!」



 中村城を取り囲んでいた伊達家の兵は1万という大軍ではあるが一ヵ所に集まっている訳ではない、西門に配置されていた伊達家の兵2000に急襲した岩城の軍勢、当主岩城親隆ちかたかは伊達晴宗の長男として誕生するも伊達家を継げずに岩城家に養子に出され、岩城家の当主となっていた。



 伊達家の当主輝宗は弟であるが近年は従属を求められており、反目していた、そこへ伊達が相馬に進軍したと聞き、相馬の次は自分の岩城を攻めて来ると察し、自ら行動を起こし相馬に向け進軍を開始した、この事に一番驚いたのは伊達輝宗であった。



「なんだと西門に配置した兵が兄の岩城に蹴散らされたと言うのか、兄が敵となったと言うのか? 信じられん! 戦況はどうなっておるのだ?」



「城からも兵が、西門から兵が出陣し我らの兵が蹴散らされ、岩城の兵が城に入りました、我らの被害は200程亡くなりまして御座います!」



 大歓声の中、西門から岩城の兵1500が入城した事で城には4000の兵力となり大きい戦力となった、岩城家の石高は12万石である。



「相馬家の危機と聞き、勝手ではあるが参戦致しました、我らも援軍として戦いますのでよしなに願います!」



「岩城親隆殿、よくぞ来て下さった、そなたこそ相馬家の守護神である、この事生涯忘れませぬ、良くぞ来て下さいました!!」



「な~に、弟輝宗の考えは判っております、相馬の次は我ら岩城を蔑ろにする積りです、相馬が勝つ事が我らも勝つ事になります!!」



「いやはや天晴な御仁でありますな、この田村感服致しました、千人力の力を得ました、勝つ事間違いなしでありますな、あっははははは!!!!」




 複雑な展開を見せる中、那須資胤の援軍が到着する前に予想外の岩城家が相馬家の援軍として参戦する事になった。





どんな戦に発展して行くのか、名将資胤の最後の戦を期待したい所です。

次章「資晴出陣」になります。

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― 新着の感想 ―
[一言] 誤字脱字あっても全く気になりません。 書籍化となれば、手を入れてくれる人が いるでしょうから気にせず思いのままに つづるほうが勢いがある魅力的な作品に なるかなと、主観ですが。 一つ残念な…
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