196 冥府の主
1574年秋、信長は一向の僧徒及び門徒2万人を焼き殺す、信長の考えは武器を持ち妻帯し肉食を貪る僧徒は敵であり仏教でも何でもない、武家の政を邪魔建てする敵でしかない。
一方の一向僧徒の考えは宗門の権益の中に土足で入り込みこれまでに築いた権威と治外法権の世界に暴力で入り込む者は全て敵であり、織田信長は仏敵そのものでしか無かった、両者の歩み寄る余地はほぼ無くどちらかを倒す以外にない。
仏教が大きな権力を持ち時には強訴という強烈な暴力に近いデモ行動で朝廷をも脅すようになった主因に親鸞と武家の弱体が大きく関係していた、仏教の世界では出家した者は俗世間を離れ戒律を守り修行を行う中で民を救うという大目的があった。
釈迦が出家する際に妻と子供と別れ王子の身分を捨てて出家を行い、俗世間の煩悩と決別する、釈迦の教えに妻帯と肉食は許されていない、釈迦は弟子達にも煩悩との決別する事を出家の際には求めている、世界の中で異質な経緯で日本の仏教界は妻帯と肉食を認めた者がいる。
妻帯と肉食を認めた者は浄土真宗の宗祖とされる親鸞である、その理由の一つがすべての人がありのままの姿で平等に救われるのが本当の仏教であると言う、親鸞の時代は鎌倉時代であり、朝廷と公家が支配する時代から政治が武家に代わり、武力が物を言う時代に入った、そして仏教界も布教の相手が武家と一般の領民へと大きく変化していく。
親鸞の教えは簡単であり、文字の読めない領民に難しい話をせずに南無阿弥陀仏と唱えれば極楽西方浄土に、苦しみのない世界に行けると言う教えであり瞬く間に広がって行く、広がる事によって妻帯と肉食も暗黙の了解が世間の中で通用していく、朝廷は妻帯と肉食を認める親鸞の教えを忌み嫌うが信者が莫大に増える事によって認めるしか無かった。
武家社会で領民に広まる事で自然と武力も必要になり僧が武器を持ち同じ様にいつしか武力まで手に入れる、応仁の乱で足利幕府が弱体し100年に渡り戦国時代に突入した日ノ本国、幕府の力が弱体化する事と反比例するように宗門は武力を増大させて行く、力を付ければ付ける程煩悩の足かせが外れ、僧侶でありながら女性と通じ、酒を飲み快楽を求めもはや釈迦の教えも関係ない世界へと、争いの世界とも言うべき冥府の主となった一向僧徒の集団が顕如が率いる一向宗である。
── 第三次長島侵攻 ──
信長は一向宗との戦いを、その拠点の一つ伊勢長島へ進軍、石山合戦とも呼ばれている。
1574年(天正2年)6月23日、信長は美濃から尾張国津島に移り三度目の長島攻めのため大動員令を発し、織田領の全域から兵を集め、7月には陣容が固まり陸と海からの長島への侵攻作戦が開始された。
陸からは東の市江口から織田信忠の部隊、西の賀鳥口からは柴田勝家の部隊、中央の早尾口からは信長本隊の三隊が、さらに海からは九鬼嘉隆などが動員され海からの兵糧の搬入を抑え包囲を縮め有利に戦を展開した。
史実によれば織田軍の軍勢は10万とも言われ、対する本願寺勢力も10万を超える大勢力の戦になった。
7月14日、まず陸から攻める三部隊が兵を進め、賀鳥口の部隊が松之木の対岸の守備を固めていた一揆勢を一蹴した、15日には九鬼嘉隆の安宅船を先頭とした大船団が到着し長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされた。
一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の城に逃げ込む、大鳥居城では降伏を信長は断固として許さず兵糧攻めに城を抜け出したところを攻撃して男女1000人ほどを討ち取り、大鳥居城は陥落した。
兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、9月29日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられた信長は、残る屋長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火攻めに、城中の2万の男女が焼け死んだという。
こうして伊勢長島の一向一揆との戦いは幕を閉じた、しかし一向宗との戦いは引き続き行われる、相手は宗教と言う勢力であり敵対した大名を倒せば済む話ではなく、諸国の領民に信者がいる勢力である、信長は信者もろとも根絶やしにする事しか頭に無かった、降伏を認めず根を断ち切る事で勝利すると考えていた、顕如が冥府の主と言えば信長も同じく冥府の主と言えた。
── 豊国の頼り ──
那須の国は前年の石高は発表出ずにいた、それは甲斐武田家と勝頼の諏訪の石高か不明であり甲斐の国の情報がこれまでにも公にされておらず信玄が秘匿しており実態が掴めず把握するのに今年に持ち越されていた。
今年の田植えでは新しい田植えに対応出来る村は全体の3割程で、代わりにとうもろこしの植え付けは比較的楽という事とさつま芋の苗も多く植える事が出来た。
これまでの年貢は4公6民時にはそれより厳しい供出米と言う村として別に納めたりと領民は苦しい生活をしていた、その代わりそれを補うのが戦での乱取りと言う強奪である、甲斐の国では苦しくなったら奪って生きろという強奪の習性が身についており、その危険な考えを改める為に年貢は5公5民、食物としてトウモロコシとさつま芋の普及に努め、強奪する必要が無い事を徹底された。
この秋に甲斐の石高も集計され2年振りに資胤に報告が上がった。
諏訪の石高4万石、甲斐の石高26万石、計30万石と報告された。
「思ったより甲斐と言う国は石高が少ないようだが、これで二万を超える軍勢を揃えるとはどうやっていたのであろうな?」
「時には上野に、武蔵に、駿河にと又管領様の隣まで戦に出かけております、いかに乱取りと言う強奪を行い、利を得ていたのでしょう、太郎に聞いた話では戦で捉えた捕虜は売っていたと申しておりました、信玄は戦で商売をしていたのです」
「戦で商売とは・・・どうすればそのような考えになるのか、見当もつかぬ、源氏の血が流れた家がそれでは・・・」
「父上、十兵衛が申しておりましたが、貧しいゆえ苦しみ行き着いた答えが乱取りなのでしょうと、領民が生きて行かれず、その苦しみを和らげる為に仕方なしに行った乱取りが何時しか主となったのでしょう、信玄の戦は戦国ならではの行きついた修羅の生き方になったのでしょう!!」
「京では一向と織田殿で激しい戦を行っておる、どうなることやら!!」
10月下旬に三家の石高が判明した。
北条家 1572年 225万石 1573年 240万石 1574年 245万石
小田家 1572年 198万石 1573年 205万石 1574年 212万石
那須家 1572年 172万石 1573年 統計無し 1574年 216万石
(1574年、武田家を含む、田村家と相馬家は含まず)
1574年の三家の合計石高は673万石という恐ろしい石高に飛躍していた、三家の特徴は領民の家々が子を増やし、人口が大いに増えている事と、米の増産、とうもろこし、さつま芋という腹を満たす事が効果となり安心して子育てが出来る環境が後ろ盾となっている、一番の主因は争いが止んでいる事と言えよう。
西と東が歩む道が徐々に違う方向に行く中、織田家が朝倉を滅ぼした功により柴田勝家越前の国主となり一国の城持ちに、織田家が伊勢長島で信徒2万人を焼き殺し一旦落ち着いた事で、柴田に加賀を狙らわせ、次に能登を取る様に命じる、史実より早い動きがここに出現した。
── 柴田勝家 ──
織田家の武将と言えば、柴田勝家の存在無くして成り立たぬ、木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間という家臣4名の特徴を表した小唄がある、木綿のように重宝する藤吉、米のようになくてはならない五郎左《丹羽長秀》、勇猛で突撃に強い柴田勝家、退却戦が上手い佐久間の四名。
勝家の事を鬼柴田との異名もある、知略で戦わず武で戦う戦国武将、その柴田が加賀を狙う事に、管領の上杉謙信は以前より将軍足利義昭を追放した事に憤っており義昭からの要請に応え戦支度を整える中、信玄が一向宗を使い上京を妨害され断念した経緯がある。
那須が信玄と戦う中、18000もの一向門徒を蹴散らした事で謙信は越中と加賀を支配下に置く事が出来た、この事は北陸方面の動きが史実と違い戦へと発展していく、なにより加賀の隣は越前であり、織田家の柴田が治める地と隣り合わせになった、織田家も上杉家も一向宗は共に敵ではあるが、一向の力が弱まれば、上杉家に取って将軍を追放した織田家は敵であり、反対に足利義昭を支持する上杉家は敵となる。
織田信長に取っては敵でしかない上杉家、戦神謙信との戦いを否応なしに挑むしか無かった、北陸方面軍司令官『柴田勝家』は前田利家、佐々成正、佐久間盛政、不破光春を率いて謙信と戦う事に。
柴田勝家が加賀を狙い軍備を整えているようだとの報告を忍びの軒猿と複数の者達から動きが活発との報に接し、先に動いたのは謙信であった、謙信は柴田が攻めてくる場合、能登の畠山と連携し挟撃で加賀に侵攻して来ると読んだ、能登は当主に代わり配下の神保氏、椎名氏によって支配されており実質畠山家に権限が無く、何度も当主が入れ替わり稚児当主が誕生するなど統制が取れていなかった。
大交易を見据えた場合、能登半島の重要性を考えれば必ず交易に加えさせなければならない地理的な優位性を持っていた、しかし現状では能登は加わらず、領内は重税が続き、神保氏、椎名氏が覇権争いを行っており独自路線を歩む能登、柴田が動けば加賀へ挟撃して来ると先読みして軍を進行させた、ここに七尾城の戦いが2年早く発生した事になる。
信玄の強さは勝つ為に慎重にも慎重を喫し備え戦う事で勝利する戦と言える、それに対して謙信は野性的な千里眼を持って一気に動き、敵に整える隙を与えず一気に薙ぎ倒して行く、それこそが戦神との所以であり強さの根幹である。
能登半島は大きい富山湾の根元から長靴のような形で湾を囲むように半島が出来ており、富山湾は、日本海では最大の外洋性内湾、日本の湾のなかでも、水深の深さと魚が豊富な湾であり湾の中に能登島があり七尾北湾、七尾西湾、七尾南湾という、湾があり、これまた富山湾を更に豊かにしている、現在の七尾市に畠山家の主城とも言うべき七尾城がある。
七尾城は山城で難攻不落の城であり攻略するには孤立させるのが最適と考え謙信は周りの城を一気に落として行く、熊木城、黒滝城、富来城、城ヶ根山城、粟生城、米山城があっという間に落城し七尾城は孤立してしまう、史実では難攻不落の七尾城の攻略を諦め一旦越後に帰還する所を襲撃されるが、史実とは違い七尾城を包囲し続ける事に。
謙信の戦には大きな欠点があった攻撃は一気に行い素早く勝利を収めるが、時間がかかる場合は引き上げてしまうという大きい欠点が若い頃よりなんどもあり失敗している、北条との戦はそれを象徴しており、関東に遠征し国人領主達を配下にするも、帰還してしまう事で国人領主達は北条に寝返ってしまい、その繰り返しで関東の地が荒れ荒廃した。
謙信が何故今回は引き上げず帰還しないのか? それはなぜか、謙信なりの簡単明快な理由があった、三家との石高の格差が大きい事で管領家としてのプライドが傷つき、挟撃を防ぎ、能登を支配し上杉家の石高を増やす事と交易の主要な港を手に入れたいと言う我儘と欲望から、なんとしても手に入れたかった。
七尾城の支城を落とし、本格的な冬となり、落とした城に兵を残し年を越した謙信、冬の北陸は降雪が多く柴田勝家とて雪に阻まれ進軍は出来ない、七尾城に籠る畠山の兵達も雪に閉ざされ逃げ道は無い、全ての者が春を待つしか無かった。
史実より早く訪れた織田家柴田勝家と上杉謙信の戦いが幕を開けた。
いくら何でも信長は人を殺し過ぎかと、まあー顕如にも同情の余地は無いけど。
次章「猪突猛進」になります。




