194 1574年・秋
── 初秋 ──
この年資晴の弟資宗が元服し秋の収穫前に正式に会津蘆名家居城黒川城に入る、一旦元服を終え急ぎ黒川城に入城し、向かい入れの儀式というも言うべき重臣及び主な配下との謁見を行った、急いだ理由は養父となる蘆名盛興が酒毒による症状が悪化し危篤となった為である。
形式上は盛興が当主であり嫡子不在という事で養子に入り嫡子となり家を継ぐ形になる、現在院政を行っている盛氏は前当主であり、盛興の父であり、53才という高齢に差し掛かっている、一通り領内の主な面々と謁見も終わり、それを見届け養父盛興は安らかに旅立ち永眠された。
資宗は養父の喪主を務め葬儀を終え今度は那須にトンボ帰りを行い49日を過ぎてから那須からの配下を引き連れて再度今度は当主として入城し発表する事に、重臣等の配置替え、新たに登用する者の検討を那須の地で熟慮し概ね整えた。
会津蘆名を新体制で整える中三河の地と京の地で天を揺るがす事態が起きていた、その主役は徳川家康と織田信長である。
── 三河の粛清 ──
事の発端は家康の正室築山御前の執念深い夜叉の性格があらぬ方向にまで発展し信玄と結びつき、徳川家を乗っ取る計画を考えた信玄と、憎き織田信長を亡き者にしたい築山、そして織田の同盟者となり反目する夫婦となった家康と築山、結果奥方の考えた浅慮な策は岡崎城のある三河の地は息子の信康に残し、浜松の地を信玄に渡す、邪魔な家康は姦計にて亡き者に、新しい夫は信玄が用意するという筋書きが出来た、実に愚かであり浅慮な謀と言える。
信玄の方は失敗しても何も痛みは伴わず、成功した場合は勝手に大きい益が転がり込んで来たという策であった、しかし、既に信玄は亡くなり、新たに考えた策は家康を亡き者にして徳川家の当主を信康に継がせ、自分は気に入った者と淫らな生活を続ける事であり快楽を求めての姦計へと突き進んだ、その策がいよいよその時を迎えた。
6月下旬に浜松から1500名の兵に守られ岡崎城に入城する家康、城主は家康であり信康は城を守る城代である、3年振りに帰還した家康は正室の築山、嫡子の信康と面談し、七夕のお祝いを親しい家族で過ごそうと話され何事も知らぬ素振りで、城を守って来た配下の者達にと面談しては次々と指示を出し精力的に政を進めて当日を待つだけとなる。
「大賀の動きはどうだ?」
「はっ本多様、相変わらず御前様へ様子お伺いをしており詰めております」
「ではこちらも動ける準備を致せ!」
大賀一派と築山御前の考えた姦計とは、節句の祝いを行う際に家康に毒酒を飲ませる事であった、毒酒の効果は牢に繋がれた者、無宿者を捉えて何人者実験を繰り返し、毒酒を飲んでから数時間後に心臓発作で無くなると言う関係であった、毒酒を用意し何度も調合した者は減敬という信玄が送り込んでいた医師である、医師減敬も信玄が亡くなり、今では代官となった大賀弥四郎の配下となっていた。
嫡子信康が信長の娘と結婚した間もない時に、母の築山から側室があてがわられており、その側室は減敬の娘であり名を『あやめ』という、信康とあやめは姦計については一切知らされておらず信康の荒い気性が表に出ている時に慰め落ち着かせる側室であった。
七夕当日夕刻、築山御前の御殿に招かれた家康、そこには正室の築山御前、嫡子の信康、信康の正室(徳姫)と侍女数名が家康の到着を待っていた。
夕刻となり居室から出る家康、その姿を見届け動き出す一段。
「半蔵、指示通り、予定通り動け!」
家康が連れて来た1500の兵が一斉に動きだし、数十もの組に分かれ、岡崎城の各く門を一斉に閉じられ、指定した場所に兵が配置された、正室の築山が住む区画は築山御殿と呼ばれ男性が訪れる場合は専用の通路からであり配下の侍女が用件を受け許可を受けてからしか入れない、例外は家康と信康という家族及び親近者となる。
御殿現れた家康に一通りの挨拶を行い茶を飲みながら短冊にそれぞれが願い事を書き節句を祝い夕餉の配膳が、そこには家康を亡き者とするべく毒酒が用意されている。
「ささ殿、お久りぶりの事にて妾がお注ぎ致します!」
「お~これは忝いのう、折角じゃ、信康も母上からお注ぎして頂け!!」
「殿それは駄目ですよ、目の前に徳がおるのです、信康は信康でそこの酒を徳から頂くのじゃ、妾が注げば徳が気を悪く致しますぞ、殿!!」
「あっはははー、そうであった徳姫よ済まぬ、では若い者は若い者にて致すが良い!!」
「では、頂くとするか!!」
築山御前から酒を注がれ一気に飲む家康、これは美味い酒じゃ、今日は特に美味い、瀬名の酒ゆえ美味いのであろう、もう一杯頂こう!! 瀬名に返杯じゃ、そちも飲むが良い!! と述べ盃を渡そうとするも築山は、瀬名は酒を断っており医師より暫く控える様にと特に夕餉に飲む酒は動悸が騒ぎ胸が苦しくなる時がありまして今は飲めぬのですと説明する築山御前!!
「それは心配であるのう、何かの病ではあるまいか、医師はなんと申しておるのじゃ?」
「殿方には判りませぬ、これは女性特有の、年相応の事の様で病ではありませぬ、徳も知っておるであろう? 殿に説明してあげよ!!」
「はい、義父様《家康様》、義母様《築山様》が申された話は本当でありまして、人ら依っては症状は違いますが、体調を崩される方が多くおります、医師が酒を控えるとの話であれば無理は行けませぬ!!」
「そうか、儂も信康も男ゆえ判らぬが、徳までも言うのであればそうなのであろう、病気という事で無ければ良い!!」
「申し訳御座りませぬ、ささもうひと注ぎ致します」
この夜は楽しい七夕の節句となり家族が水入らずで数年ぶりに過ごした一時となりお開きとなる頃に正信が家康に用事があるとの事でお呼びされていると侍女から告げられ一同散会となった。
「正信よ、本当に酒を入れ替えたのであろうな、結構飲んでしまったぞ、大丈夫であろな!!」
「既に賄い方は入れ替えております、毒酒も押収しております、配膳した侍女は半蔵の手の者になります、ご安心下さい、それと間もなく大賀が築山様の館に来られるでしょう、殿が退出された事を確認すれば行かれるでしょう、今夜寝静まりまして封鎖を行います!」
「うむ、判ったでは儂は部屋にて休息しておる、封鎖したら伝をたのむ!!」
家康が御殿を退出し戻った事を知った大賀はその足で築山御前の元に向かった。
「御前様、滞りなく運ばれましたようでおめでとうございます」
「今生の別れであれば妾にも情があり精一杯のもてなしをしたまでじゃ、酒だけは特別な物であったが、どうやら美味いと申しておったので問題無く楽しい一時であった事であろう」
「では明日の朝が楽しみで御座いますね、では某は今夜はこれにてお暇致します」
この夜、大賀弥四郎一派の家々と築山御前の住む御殿と信康が住む区画と徳姫が住む区画が封鎖された、封鎖された理由は殿、家康が呑んだ酒に毒が含まれており七夕の関係者全てを狙った罠かも知れず、又は容疑者と関係している者がいるかも知れないとの理由で賄い方、出入りの者達を調べる事になったと、築山も信康も容疑者の一人でもあるとの理由で生活区域以外は出入り禁止なった。
「正信、儂が毒など関係ある訳ないであろう、儂は嫡子ぞ、どんな理由で父上に毒を盛らねばならぬのじゃ、儂の封鎖を解け、命令ぞ! それと父上のご様子はどうなっておるのだ、父上は大丈夫なのか?」
「殿は今懸命に手当てを受けておられます、医師の話では胃液より毒が吐かれ間違いなく毒を盛られたとの見立てであります、今少し判明するまでは我慢して頂くしかありませぬ、区画以外から出ようとすればするほど疑いが及びます!」
「う~判った、状況が判明したら直ぐに知らせるのだ、正信、良いな!!!」
同じ話を築山御前と徳姫にも行い、徳姫は驚きのあまり倒れてしまった、それに引き換え築山御前は呆れた事を正信に伝えた。
「そうか殿に毒が盛られたのか・・・信長の罠であるまいな、その辺りも調べるのだ、妾は織田信長の罠であると、きっとそうに違いない、信長に問いただすのじゃ!!」
「ふ~やれやれ、あそこまで織田様を嫌われているとは恐ろしき執念であるな、とんでもない奥方じゃ、殷の国の妲己とならぬ前に対処出来て良かった、後は信康様を殿はどうされるのか、頭の痛い事じゃ!!」
その夜の深夜に首謀者一味の家に押し入り大賀弥四郎一派は捕らわれた。
「何事でありますか、深夜に某の家に押し入るとは、本多様でも只事では済まされませぬぞ、この様な狼藉許されませぬぞ!!」
「言い訳はどうでも良い、その方、大賀よ、殿を亡き者にしようとした首謀者であると露見した、これより捉える、覚悟致せ!」
「何を言われます、どうして某がその様な事を、言いがかりで御座る!!」
「既に倉地も捉えておる、それと減敬なる怪しい医師も捉えておるぞ、それでも白を切るのか、判ったであろう、お主の策は露見し見破られておる覚悟致せ!!」
「そそそれは築山様の築山御前様の謀り事である、某は関係御座らん、築山御前様が用意した酒でだー、某は命令されただけである」
「吐いたな、誰が酒の事を話したのじゃ、儂はまだ酒の事など話しておらぬぞ、者ども屋敷にいる者を引っ立てろ、締り所に押し込めよ!!」
大賀弥四郎とその配下3名は捕まり締り所で厳しい詮議を受ける事に、結果大賀弥四郎は鋸引きという死を与えられた、地中に身体を埋められ、頭だけ地面から出ており、首をノコギリで切られ絶命した、他の者も処刑された。
同じく医師の減敬も処刑され、その娘あやめも処刑と決まるが信康が抵抗し騒ぎが大きくなる所であったため、姦計については一切知らされておらず、家康の配慮もあり三河の地を追放となった。
家康はこの姦計の首謀者は正室の築山御前という事もあり、正室を当主が処刑する訳にもならず離縁という事で三河の地を追放とした、問題は信康であった、信康には200名以上も配下がおり、場合によっては家康に刃を向ける事も考えられた、そこで家康は信康と対面し話す事にした。
「信康よ、此度の姦計については仔細判ったであろう、父としてもやむなく対処したのじゃ、お主はこのまま岡崎に残るか、それとも母に着いて行くか、着いて行くなら徳姫とは離縁し織田家に返す、如何致す? そちの存念を言うが良い!!」
「母上は本当に父上を亡き者にと考えていたのでありますか、その証拠はなんでありますか、言葉だけでは信じられませぬ、証拠無くば父上と争いまする!!」
「判った、では証拠を見せよう、ここにある文がその証拠じゃ、全て読み進退を考えるが良い!」
家康から渡された文は躑躅ヶ崎館で最初に見つかった信玄の下書き、そのご築山御前が信玄宛てに書いた文も館で見つかり、その返書も築山御前の部屋から発見された、そこには家康を亡き者にする事、岡崎の城は信康に、築山には新しい夫を信玄が用意する一連の事が書かれた内容であった。
「な・・・なんと母上は愚かな・・・こんなことをして某、信康が喜ぶとでも思ったのか・・・母上・・・これでは・・・」
言葉を失う信康に声を掛ける父家康。
「良く聞くのだ、此度の件は既に岡崎と浜松では皆知っている、徳川家で仕えている多くの者が信康も一味と考えている者が多い、儂はお主が一味とは関係ない事は知っているがこれ程の大事になりこの件が忘れ去るまで相当な時間を要する、残念であるが信康よ、お前は嫡子であっても家を儂の後を継ぐ事は出来ぬ、岡崎に残る場合でも肩身の狭い思いをする事になろう、儂の希望を伝える」
「一旦城から離れるが良い、母の築山とお主は仲の良い母と子じゃ、儂にも瀬名には殺されかけたが情も残っておる、瀬名の戻る家はもう無い、三河を追放となれば行く先も無く路頭に迷うであろう、信康が守ってあげるが良い、生きて行くだけの困らぬ費えは用意する、信康はほとぼりが冷めるまで城から離れるが良い、これが儂の希望である!!」
「では一つだけお許し下さい、あやめは何も知らぬ者にて同じく行く宛の無い者になります、追放となれば死を選ぶだけであります、あやめも連れて城から出て参ります!」
「うむ、判った、それと困った事が起きた場合は甲賀服部家に行くのだ、そこの者がお主を信康を守るであろう!」
家康が行った三河からの追放は事実とは大きく違う処罰であった、史実では築山御前も、信康も、あやめも亡くなっている、信玄が生きている内に姦計が行われていない事が史実とは違う結果をもたらしたと言えよう、この大賀弥四郎事件により徳川家はより一枚岩の団結を生む事になる。
徳川家の大賀弥四郎事件を処理している頃に、同盟者織田信長は火炎地獄の災いを自ら行っていた、2万もの大勢の人々を焼き殺していた。
なんとか徳川家康は危機を乗り越えた様ですね、史実とは違う処断となっていますがこれはこれでと書きました。次章「流れ」になります。




