182 菓子と公家
砂糖で戦に勝つ物語、史上初でしょうか?
── 公家と資晴 ──
「どうであるか、順調に育ちそうであるかのう?」
「やっと芽が出ました処です、那須の季候に合えば順調に行けるかと思われます」
「何でも夏に種蒔きをして秋に収穫出来ると言っておったから、北条殿に頼んで琉球を経て明から仕入れたのじゃ、甘くてホクホクする野菜だと、それに馬が飛びつく様に食べると洋一殿が説明しておった、何でも身体に良い食べ物で煮物にも相性が良いそうじゃ!」
「若様が大金を使って仕入れた品でありますから、なんとか頑張ってみます!!」
「それとあれは絶品でありましたぞ、作り方も茶筅と竹べらがあれば作れます、『那須プリン』『珠華プリン』『蜜のカステラ』と同等またはそれ以上に流行りますぞ、作る方がちと暑くて大変かと思われますが、季節の例えば秋から春にかけて食する菓子とすればなんとか行けるかと思われます」
「やはり絶品であったか、洋一殿話では砂糖に余裕が出来たら試す様にと言われておったので、ぺトニとキビからの砂糖が順調に入る事になったので、そろそろかと思ってな、あと飯之介には入り豆のこれじゃ、甘い入り豆の砂糖菓子も完成した、これも店にて麦菓子と一緒に売れるであろう、子供への褒美の品にも使える!」
「こちらは麦菓子と一緒に年間を通して作れますな、砂糖の力とは凄い物ですな、それとあの赤い茶も好評ですな、都にも無い品が那須には沢山あります、是非帝にも食して頂きたい品でありますな!」
「そう言われてものう、那須と京ではちと遠すぎておるし、後は作れる者を派遣するしかないのう、下手に近づいて騒乱に巻き込まれても困るし厄介であるし、良い案があればいいが」
「京を抑えているのは織田様でありましたな、その筋を頼れば案外簡単かも知れませぬぞ、織田殿から感状が届いたと言うておりましたな、であれば若様その線を頼れば上手くいくのではありますかないな?」
「確かに感状が届いておった、確かに京を支配しているのが織田殿じゃ、織田殿に警護を頼めば良いという事じゃな、ついでに京周辺の事情も掴んでおく方が良いかも知れん、最近は油屋も音信不通じゃ、さっぱり向こうの様子が判らん、甲斐も落ち着いたし良い頃合いかも知れぬな!! ちと父上と相談して見る、帝に差し上げるとなれば那須家菓子ご意見番の飯之介が出張るしかあるまいな!!」
「某も一度都に戻り牛痘の件を報告致します、那須には今多くの医師が育っておりますので問題ありませぬ、それと牛痘に罹患している牛を連れて行きます、向こうで探すとなれば面倒です、若様から資胤様に了解を取り付けて下され」
「うん、そうじゃの、牛痘の牛がおらねば予防が出来ぬ、山科殿にも協力を依頼しよう、なんせ儂の仮親であるからな、子が親を大切にせねば、300貫程用意すれば充分であるかのう、それと公家殿にも大目に費えを渡して置く、向こうで食えずに困っている公家殿達に配慮をして差し上げるが良い、何なら那須に来いと誘ってくれ、忘れておったが後はあ奴をどうするかである、北条殿にお返し致すか?」
「北条殿へお返ししても困りましょう、儂が一緒に京に連れて行きましょう、公家達と交流をしておりました家であります、調度良いかと!」
「お~公家殿がそう言って頂けるのであれば助かる、母上がピクピクしておって、名を出すだけでも不機嫌になるのじゃ、本当に困った御仁である、元は三ヵ国の太守の息子であるというのに、母上の侍女に手を出そうとするとは、立場を弁えぬ愚か者じゃった!!」
愚か者とは今川氏真の事である、北条家で暫く預かって欲しいと依頼され預かり、当初は資晴の学び舎で語学など教鞭を取っていたが、当主資胤の奥方、お藤のお方様の侍女に手を出し、失敗し一時締り所にて罰を受けていた氏真、戦国の世でも馬鹿に付ける薬は無かった。
史実でも氏真は立場を利用し今川館で好色に耽るなど愚かな振る舞いをしていた、ただ戦国の世では現代の感覚と違い女性も開放的な所があり、相手が絶対的な上位の者であった場合、御手付きされる事が一種の認められたという意味合いもあり、懐妊すればお家安泰となる慶事として捉えられる向きもあった。
資晴が明から取り寄せた作物はニンジンである、東洋系ニンジンと言われ、現代の金時ニンジンである、色鮮やかで甘く正月料理に欠かせない京野菜である、金時ニンジンは江戸時代初期に中国から伝わる野菜で、13世紀には中国では利用されていた食材とされる、広く利用されている事を知った洋一が一足早く仕入れる事を伝えた、高血圧に良い食材であり、塩分過多の人には適した食材と言われている、この時代は小氷河と呼ばれ、豊かになれば成程、どうしても塩を多めに利用する人が増える為に洋一が教えた。
もう一つの絶品なる菓子とは、卵と砂糖だけで作るスフレケーキを教えた洋一、作り方は簡単であり茶筅と竹べら、そして器ごとオーブンで焼く菓子である、砂糖が豊富に手に入るようになった那須ならではの贅沢な菓子と言えよう。
砂糖に困らず卵の生産に困らず、氷室箱に入った新鮮な海の魚、豊富な砂利を使い主要な道の拡張と整備が既に8年近く延々と行われ、日に日に烏山城下の町が発展する事で各地の七騎を初めとした家の城下も見習う様に発展を遂げている。
町にも農村にも子供が溢れ人口がいつしか倍にも増えている那須の領国、そこへ新しい菓子が又もや登場する事になる、烏山城の町にはいつしか甘味処が10店舗となり甘味処発祥の地として三家でも呼ばれるようになり菓子職人達がそれぞれの店で弟子入りし、修行を終え各地に広がっていった。
「父上、公家殿の話は進めても宜しいでしょうか?」
「牛痘の件はとても大切な事じゃ、帝や和子様が疱瘡に罹患したら大変な事になる、よう気づいてくれた、信玄との戦で忘れていた、それと菓子ご意見番の飯之助も、もしかすれば帝に菓子を作る事になるやも知れぬ、是非つれて行くべきじゃ、信長には儂から文を書いておく、これで警護の者を付けてくれるであろう、山科殿と油屋も音信不通じゃ、色々と探って来るのにちょうどよい、安全の為船を出し、色々と品も買い付けて来るが良い、椎茸の代金も油屋から回収せねばならぬ、その銭だけでも余る計算じゃ!!」
「そんなに椎茸を送っていたのですか?」
「お前が不在の間も今回送れば3回分にもなる、毎回5貫は送ってあるから1700貫程は貯まっている筈なのだが、儂も自分の使える銭が厳しくなって来ておる、政に使う銭は勝手に使えぬから、一体油屋はどうしたのであろうな?」
「和田殿にも行って頂きましょう、不慣れな者が行ってもややこしい話であれば埒が飽きませぬ、それと良さそうな浪人なども誘って頂きましょう、特に内政が出来る者が不足しております、今は戦より内政をしなくてはなりませぬ!!」
「お前の村で育って来た者達はどうなのだ?」
「皆とても優秀ですが、親無しの子達でしたので養子縁組などで名を持たせその家の家格を継げるようにして奉行所で勤めておる者もいます、あと三年程しましたら現場にて責任ある立場になる者も生まれるかと、他の家でも学び舎から巣立つ者も出て来るかと、それでもまだまだ足りませぬ!」
「甲斐の国も那須に従臣となっから今年は200万石を優に超えるぞ、もしや北条殿の石高を抜くかも知れぬぞ、恐ろしい話ぞ、儂も何れ隠居となるが、恐ろしい石高ゆえ、どのように隠居して良いのか見当もつかん!!」
「父上、それは卑怯であります、某とて困ります、200万石など無理です、眠れなくなります、それに来年、竹太郎の元服になります、蘆名家へ入る事になります、当面は隠居などしないで下さい、某に負担をかけないで下さい」
「じゃーあれだ、お前が婚儀をあげる時まで棚上げにして、嫁を迎えたら代替わりじゃ、それでどうだ?」
「えっ・・・そう言えば婚約は致しましたが婚儀は何時なのでしょうか? 聞いておりませぬが?」
「鶴姫は・・・幾つだったか?」
「某が15なので13かと思われます」
「それであれば後2~3年って事になる、取り合えず資晴も心の準備だけはしておくのだ、良いな!!」
八月に入り和田殿、公家の錦小路、飯之助他10名が山科邸に訪れ都での状況と信長と本願寺勢力との戦などについて説明を受けた。
「よくぞ訪ねて参った、信玄を倒すとは京で那須の事が噂になっておる、麻呂が猶子にしたゆえ、那須に付いて聞きたい者が多く、引っ張りだこであった、大きい声では言えぬがようやったでおじゃる、儂もあの一向門徒は狂っておると前々から憎くて思うていたのでおじゃる、銭はうなる程持っており、僧でありながら人を殺し、昼間から酒を浴び、夜鷹を囲って煩悩に支配された悪僧である、成敗も行ったと聞きすっきりしたでおじゃる」
「それとあの馬鹿将軍であるが、毛利の処で庇護されておる、噂であるが毛利も京に上り信長と対峙するという噂でおじゃる、それと武田家の新しい当主も兵を率いて京に来るという噂まである、一体どうなるのやら、帝もお疲れのようじゃ!!」
「いろいろと山科様も大変でありますな、それとこれは資晴様から山科様へご自由にお使い下さいと託されました、どうぞお納め下さい」
「お~それは流石わが息子である、近い内に那須に顔を見せに行かねばならん、儂は隠居したのちは那須の地に住む事を考えておる、京は日ノ本の中心ではあるが今は騒乱の中心地である、心が休まらぬ、それに儂の息も役付きとなり顔役になりつつある、次の世代に移せるという事も幸せな事じゃ」
山科言継は既に66才という高齢に差し掛かっている、世代交代出来ない理由は朝廷を支える集金者が他におらず帝より隠居を止められているからにすぎない、それほど山科の手腕は秀でており右に出る者がいなかった、混乱した戦国期を支えた功労者である。
「京での活動は離れを用意する、それが一番安全じゃ、自由に使うが良い、安心して使うが良いぞ、何ならずーっといても良い、賃料は頂くゆえ儂も助かる(笑)」
「ではお言葉に甘えてお借り致します、それと堺の様子はどうなっておりましょうや?」
「あ~堺は完全に信長が支配しておる牛耳っている、表向き自由に交易を行っておるが代官もおり交易したた品を届けているそうよ、反信長派と繋がっている者は一掃されたようじゃ、その位しか判らぬ」
「それと錦小路殿が連れて来た牛で疱瘡の予防が出来る話であるが慎重に進めねば危険であるぞ、公言すれば錦小路殿の命が狙われるであろう、どのように進めればよいか思案するのでそれまでは動いては成らぬ、事は重大な案件でおじゃるぞ」
魑魅魍魎とした巣窟それが都である、戦乱であれた世を象徴する一番危険な地、それが京で帝が住まう都なのである、それと堺は日ノ本一の交易の港であり大都市のため信長は奉行を設置した、堺奉行は幕末まで続く、取り合えず初期の代官は松井友閑(1570年)石田三成(1586年)小西寿徳(1586年)が就任している。
和田一行は錦小路と飯之助と数名を残し堺へ、残された公家と飯之助は山科家で那須で日頃食されている菓子を作り披露した、その美味しさに山科も驚き、先ずは帝に献上せねば、そして我が家で親しい者を集め歌会を致そう、となり帝に献上する事になった。
後日錦小路と飯之助は御所に移動し監視の元、初日は『高級麦菓子』『那須プリン』を二日目には『珠華プリン』『スフレケーキ』を献上した、宮中では正月と盆が同時に来た騒ぎとなり、帝を大いに喜ばせる事に、その後作り方を指南し御所を後にする二人、二人には特別に雅な風呂敷と化粧箱が贈られた。
大変喜ばれた帝に山科は疱瘡の件を伝え後日話し合われる事に、ご神体の帝に針を打つ事はどのような理由があっても許される事では無く、無理であること、しかし、幼少時の童であれば可能性がある事を宮中における皇室典範と前例を紐解き治療が出来る事になった、但し時の帝が裁決しどうするかを決める事に決まる、尚、秘密裏に本当に予防が出来るのかを確認するために密かに山科邸で小さい童を集め治験が始まった、山科も医師であり錦小路に劣らぬ医道に通じた者である。
公家の錦小路と飯之介が活躍している頃三河の家康に危機が忍び寄っていた、信玄が倒れた事でその目論見が立ち消えとなり徳川家を乗っ取る事が出来なくなり家康を罠に嵌め殺害する計略が練られていた、その首謀者は家康の妻、瀬名である築山御前であり、女盛りの瀬名を手籠めにしていた大賀弥四郎一派である。
妻の瀬名はあろう事か隠れて信玄と通じて家康を亡き者にして、さらに信玄から気の利いた男を主人として紹介する約束と息子の信康を岡崎城の城主にする約束を取り交わしていた、その企みに一枚嚙んでいたのが大賀弥四郎と言う岡崎城の財政を担う大切な職を持つ、家康の家老の末席まで上り詰めた者である。
そもそもの原因は家康と瀬名の不仲の災いが呼び込んだ事と言える、今川義元を討った憎き信長、それと同盟を組み浜松から帰らぬ家康、瀬名は信玄の間者、医師である減啓と情事を交わし、さらにそれでは物足りずに家老の大賀弥四郎に手を出し乱れて行く。
いつしか減啓が武田の間者と知り、弥四郎を巻き込み信玄が岡崎を攻める際に城を乗っ取り信玄に渡し、新しい男盛りを主人に与えられ、息子の信康も城主に成れるという愚かな奸計を取り交わしたのである、所が肝心の信玄が敗北し亡くなった事で新たな謀を廻らせる、歴史に残る悪女である、それが今、家康を殺害する為に罠を仕掛けた。
元気な山科殿でした、結構高齢だったとは。
次章「姦計」になります。




