164 一向総起
信長が暴れてますね。
暴君でしょうか。
1571年、三家は平穏な年であり、田畑を増やし、帆船を造船し、北条と小田家は琉球に、那須は蝦夷の地に交易船を運航させ、その富は三家にて分配、更に投資を行うと言う利益の循環が出来つつあった、そして季節は恵みの秋を迎える、しかし、平穏な刻を過ごす三家に凶報とも言える恐ろしい一報が届いた、日本の歴史に残る凶報が届いた。
── 烏山城評定 ──
「皆さまお集まり致しましたか、では和田殿から京で起きた凶報をお伝え致す、お静かにお聞き下さい」
「はっ、では私が見て来た事を皆様にお伝え致します、今後この事が那須家にどのような災いになるのか私には解りませぬが只事ならぬゆえお集まり頂きました!」
「皆様も些かご存じかも知れませぬが、比叡山延暦寺が織田信長により焼き討ちされました、根本中堂が焼かれたのです、亡くなった僧侶数千、信徒の犠牲も数千を超えているかも知れません、延暦寺が消失致しました!」
放心状態の重臣一同。
「ま・・ま・・誠で御座るか、仏教の本地が焼かれたのですか? 何故そのような事が・・・信じられん!」
「和田殿、ば・・ば・・幕府はこの事を・・・お許しなのか?」
「足利将軍には止める術もなかったようです、織田信長の断により焼き討ちとなりました!」
「亡くなった僧侶数千とは、それに信徒が数千を超えるという・・・・理解出来ん、一体世はどうなって行くのだ、帝はご無事なのか?」
「和田殿、和田衆を使い詳細な事を確かめて頂きたい、織田殿が一向と折り合いが付かぬ話は聞いていたが、相手は武家では無い、僧侶ぞ、それに信徒がこれ程殺されているとは、国中が不安に包まれるであろう、那須の領内全ての領民も驚く事になる、今は大事な収穫を終える所だ、余計な障りを持ち込んではならん時、皆も狼狽えるな、勝手な憶測で騒いではならん、詳細が判明するまで箝口令と致す、それぞれが治める領内を騒乱に巻き込んではならん」
「和田殿判明次第教えてくれ、和田殿が頼りだ!」
「判り申した!」
叡山と信長の衝突のきっかけは、信長が比叡山領を横領し、それを朝廷に訴え、寺領返還の命を下しているが、信長はこれに従わなかったとされる、浅井、朝倉との闘いでも不利になれば叡山に逃げ込み、信長も中々手が出せずに時間だけが経過していた、信長に対抗するため浅井、朝倉側も僧徒を使い信長側に被害を与え、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。
1571年9月12日、織田信長は全軍に総攻撃を命じ、坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に攻撃が始まった。『信長公記』九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」(『信長公記』)
信長比叡山を焼く/絵本太閤記 二編巻六、と記されている。坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山地図に立て篭もったようだが、同所も焼かれた。この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、『『言継卿記』には3000~4000名と記されている。
この叡山焼き討ちで信長は『仏敵』という名で呼ばれる事になる。
この当時の仏教界の本地である比叡山焼き討ちの話は箝口令を行うもあっという間に国内に広まり、那須の地でも動揺が広がった、その為、秋祭りは中止とせざる得ない事になった、亡くなった多くの民が安らかに永眠出来る事を各自で祈る事になった。
それとは別に、三家の領内は今年も石高を増やす事となり、大きな力の源となった。
今年の石高は。
北条家 198万石から212万石
小田家 165万石から180万石
那須家 140万石から155万石
合 計 548万石 となった。
この石高には蝦夷と琉球からの得た富は含まれていない、那須においても大子から莫大な金の恩恵も含めてはいない、それらを含めれば三家の石高は600万石を超えていると言える。
── ペンは剣よりも強し ──
日本で最初に本格的に言論で戦ったお手紙将軍の足利兄弟、その弟、足利義昭、1571年より本格的に執筆活動に専念する事になる。
尚、手紙の内容は内政や外交及び政とは関係ない、自分を蔑ろにする信長追討の文である。
そもそも戦国時代に突入したされる主な原因は足利将軍家による専横とお家騒動により歴代の将軍の力が衰退した事が原因であると言われている、将軍と言う権威で政を進めていくうちに特に限界となったのが13、14、そして最後の15代将軍義昭将軍である。
足利義昭、第15代征夷代将軍、最後の将軍、戦国期の混乱を象徴するに相応しい将軍と言えよう、最後の最後まで混乱に拍車を仕掛けます、武器はお手紙、ある意味現代のマスコミもしっかりと言論で物事の正邪を語ってもらいたい、単なる無責任なコメントが言論と言うお粗末な時代、ペンは剣よりも強し、の精神を歪めています(個人談)
さて将軍義昭は、信長に抱えられ将軍となるも、徐々に信長とは反目に、信長の専横が原因といえる? 義昭は義昭で勝手に将軍として政を始めるなど、そもそも最初に両者でしっかりと幕臣を巻き込み仕組みを整えるべき所を省き、スタートしてしまった事により、齟齬が生じていく、この事に修繕を図るのではなく、信長は義昭を抑えつける為に殿中御掟を次から次と発し既に信長の方が主人として振舞い、それにより義昭の面子は潰れ、ペンで反撃を行うのである。
この動きに拍車を掛けたのが武田信玄である、信長の天下取りを邪魔する都合の良い出来事であった、信玄はチャンスが訪れたとして、本願寺を動かす、それは一向宗です、酒池肉林の巣窟本願寺を手の駒にします。
本願寺『顕如』浄土真宗本願寺派第11世宗主・真宗大谷派第11代門主。大坂本願寺住職の顕如と、手を信玄は組みます。
顕如の妻である如春尼は三条公頼の娘だが、その姉は三条夫人(作中では太郎の処にいます)、武田信玄の妻です、信玄と顕如は妻が姉妹という人脈と、信長に無理やり5000貫を取られた経緯もあり、いつか仕返しを考えていた顕如が動きます。
一方将軍義昭を支えたい実力者もいます、関東管領の上杉謙信です、謙信は管領職という事もあり本気で義昭の要請に応えたいという立場ではあったが、動けないのです、何故か? それは信玄が一向宗を使って度々越後の謙信と争っているのです、隣の国、越中は一向の王国なのです。
信玄は将軍の元に謙信を行かせない為に一向宗を使い妨害、片や自分は義昭の要請に応じる形で一向宗を使い信長包囲網を作り上げ、浅井、朝倉、本願寺の一向宗、そして信玄の軍勢で信長に対抗する包囲網を作り上げます。
信長は全方向に配下の将を使い防戦及び勝利を繰り返し、血みどろの戦模様を展開しています、そんな中、信長の重臣中の重臣、森可成が1570年9月:摂津で織田軍と三好三人衆との対峙の最中に石山本願寺が蜂起(野田城・福島城の戦い)。
織田軍は鎮圧の途につくも、背後から浅井・朝倉連合軍が挙兵。可成は宇佐山城守備を命ぜられ奮戦するも、この合戦の最中に討ち死をしてしまう、この鬱憤を含め晴らす場が叡山の焼き討ちに繋がったとされ、この時より一向宗を殺す事に躊躇う事無く、殺戮を繰り返す事になる。
── 南蛮の使者 ──
「父上、南蛮の使者が面会を求めて来ておると知らせが入りました、面会される予定なのでしょうか?」
「以前より何度か文は来ておったのだ、まさか乗り込んで来るとは思わなかった、それも織田信長殿の紹介状を持参して来たのじゃ、暫し待つ様に離れに寝泊まりしている、凡その検討はついているのだが、どうしたのものか、そちならどうする?」
「交易はいいですが、布教は無理です、日ノ本の民を奴隷として買っております、交易ですら断りたい気持ちです」
「やはりそれしか無いかのう」
「私にも立ち会わせて下さい、考えがあります」
「うむ、では最初にお主が会って見よ!」
「判りました」
その日の夕刻に資晴は南蛮の使者と謁見した。
「この度は、那須の嫡子様に拝謁出来ました事、恐悦至極に御座います、私は南蛮の宣教師ルイス・フロイスと申します、こちらは通訳のロレンソ了斎と申します」
「うむ、私が那須家の嫡子、那須資晴である、遠くの地へよくぞ参った、当家の領地で布教の許しを得たいとの事で来たと聞いている、答える前に幾つかお聞きしたい」
「はい、何なりとお聞き下さい」
「では、お聞きする、南蛮の教えの神は崇高なる神であると聞いている、それなのに何故、我らの日ノ本の民を奴隷として買うのじゃ、南蛮の国では普通の事なのか?」
いきなり核心の話を質問する、いや詰問する資晴。
「いえ、我らは絶対にそのような事はしておりませぬ、奴隷を買っている者達は南蛮の商人です、我らは買っておりませぬ」
「では、南蛮の商人は南蛮の教えの信者では無いのか? 信者では無い異教徒が商人をしているのか?」
「いえ・・・商人達も信者であります」
「その方達の国の宗教では異教徒は奴隷にしても良いのか?」
「いえ・・決してその様な教えはありませぬ」
「いいかな、フロイス殿、そなた達の南蛮の教えでは奴隷は行けないというが、しかし、信者である商人は奴隷を買っている、とぢらを信じれば良いのだ?」
「私の言葉を信じて下さい、絶対に奴隷はダメです、買ってはダメです」
「では、フロイス殿は南蛮の商人が日ノ本の民を奴隷として買っている事を知っていたのか?」
「・・・申し訳ありません、知っていました」
「では何故それを放置しているのだ」
「私の国では多くの異教徒が奴隷として売られており、沢山います、残念な事です、私の力では変える事が出来ません、しかし、この日ノ本の民を奴隷にする事をしてはならないときつく注意します、どうかそれでお許し下さい」
「フロイス殿よ、よく聞くのだ、異国の神であれ何であれ、この日ノ本の民を奴隷にする輩を放置する国の神は信用出来ないと思われぬのか? 仮に我らの国の宗教がそなたの国に布教して行った際に、そなたの国の民を奴隷として買っていたら許せるのか?」
「どの国の民であれ、産みの母がおり、育ての父がおる、家族から離し勝手に人を奴隷とするはあってはならぬ事である、異教徒であっても同じである、人の道に反した事をしてはならぬ、そなたは神の教えを広める者であれば尚更見過ごしてはならぬ」
「よいかこの那須の国には九州の地より奴隷となる所を、態々遠くのこの地に大勢の者が庇護を求めて移り住んでいる、そなたの国の宗教に帰依すれば奴隷に成らずに済むようだが、転宗を拒み、この地まで逃げて来たのじゃ、如何思う?」
「私は知りませんでした、申し訳ありません」
「大友という大名が無理やり転宗を強要し、応じない者を奴隷として売っているのだ、そなたの布教に対する精神が本物であれば、買っている南蛮の商人が奴隷を買うのを止めねば破門と致すべきである、儂ならば絶対に許さぬ話ぞ!」
「その上でフロイス殿よ、この那須の地で何を望まれる?」
「本来であれば、布教のお許しを願いたいですが、今の奴隷の話を止める様動きたいと思います、その上で再び、那須の地に参りたいと思います」
「それが正解である、但し我らも交易で誼を結ぶ事は問題ない、奴隷を買わぬ商人であればいつでも寄こすが良い、先ずはそこから誼を開く事が良いであろう」
「失礼ですが、との大名も南蛮の品を欲しがりますが、那須の家ではそれ程欲しい様子ではありませぬ、何か理由はありますか?」
「ほう、鋭いでは無いか、この那須はフロイス殿が考えている以上に他国と交易をしておる、失礼ではあるが南蛮との交易を行わなくても同等の品を得る道を独自に持っておるのだ、品より必要としている物があるとすれば、南蛮の算術を出来る者、切子の職人、鋳物技術の職人であり知識ある人が欲しい所である、それと南蛮医師であろう、もちろん待遇は安心して暮せる地位と銭を渡す、こんな所である」
「その職人達でありますが、元奴隷の者でも大丈夫でありますか?」
「勿論じゃ、那須の国で儂が侍の身分と同じで雇う、大切な者達である、職人とはその者達にしか出来ぬ技を持っており、尊敬する者達である、疎かには扱わる」
「あてがありますので戻りましたら聞いて見ます」
「それは助かる、今宵は歓迎の用意を致して居る、ゆっくりして欲しい」
「ありがとう御座います」
この日の夕餉では資晴の重臣達で歓待した、蜜のカステラ、珠華プリン、那須プリンまで食したフロイスとロレソンの二人、南蛮文化を説明してもそれ程関心を示さず、呆気に取られる二人であった、二人の感想は那須の国が日ノ本の国の中で異国であり、先を走っている国では無いかと、京の様に古い寺が沢山ある訳では無いが町は整い、行き会う領民が豊かであり、不安の無い生活をしている国だと理解した。
この那須の国で布教が出来るのであればそれこそ、騒乱の中で行う布教では無く民の中に入り真実の教えについて広める事が出来るのでは無いかと実感し、日ノ本の国で一番環境が整った国であろうと希望を持つのである。
史実の日本におけるキリスト教の布教は、資晴が指摘した日本人を奴隷としていた事が足かせとなり秀吉が伴天連追放を行い、貿易も縮小し、家康の代で鎖国と言う外国との門戸を閉じる事に移行していく。
フロイスは布教を行う中、日本での出来事を記録しており文献も多数残っている歴史の証人者なんですね、信長が一向宗と壮絶な戦いも記録されています・
次章「砂糖」になります。