142 駿河侵攻・・・3
最近キャンプブームですね、ソロキャンプに出掛けるとキャンプ場はソロってなに? という程混んでいるとか、新型コロナで密を回避したい、などもその理由でしょうか。
── 那須正太郎 ──
駿河侵攻が開始される中、那須の地は平穏その物であり、新年を迎え例年通り忙しい恒例行事をこなし正太郎館で主な配下達と評定と新年の宴が開かれた。
「では石の切り出し、木材の線引き加工、工夫の手当、全て手配済みという事で良いな」
「はい、忠義殿と何度も確認しております、出発する日時さえ数日前におっしゃって頂ければ問題ありませぬ、特に忠義殿が石の事詳しく助かりました」
「まあー忠義の領地がそもそも芦野だから石の産地なのよ、石切の職人も多くちょっとした農家であれば石の蔵を持っている家までおる、此度は芦野衆に世話になった」
「しっかり若様から銭を頂けましたので皆喜んでおります、鹿沼大谷石の石切職人とも交流を結ぶ事が出来ましたのでより大掛かりな事にも対応出来ますでしょう」
「そうであるな、芦野と大谷衆は今までは別な家であったが、那須という家で一つに納まったから良い結果になったという事よ、中々この烏山城まで手を入れる事は出来なかったがそろそろ石積みの城壁も検討したい所であるな、父上にも伝えておこう」
「それが宜しいかと思われます、正直この烏山城は蘆名の会津、常陸の太田、宇都宮等の城と比べますと残念ながら大きさはありますが、堀や土塁に石を使っておらず一段低い城になっております、城普請は何年もかかる事業です、そろそろ大きく行う時であろうかと思います」
「そうよなあー、小田原の城のでかい事、城下町全てが入る城ぞ、あれだけの城を作るには10年以上要するであろう、烏山は山城だから難攻な城ではあるが、ちと貧相な城かも知れん、父上も貧乏性ゆえ、中々言い出せなかったのであろう、築城に詳しい者は我らでは誰であるか?」
「城に詳しいとなれば十兵衛殿、半兵衛殿、和田殿では無いでしょうか?」
「それと本家の城です勝手に城割を行う訳には参りませぬので七家の中で詳しい方を入れませぬと」
「一体誰が詳しいのであろうか?」
「以前大田原殿が各地の城の絵を趣味で書いていると言われておりました、もしや日頃研鑽しておるかも知れませぬ、一度聞いて見る事にしてみます」
「成程それでは聞いて見てくれ」
「此度の工夫達が寝泊まりするあのグルといういう天幕は便利で御座いますな、あれがあるからこの時期上野にも行けます、良い物を紹介頂きました」
「洋一殿の話では蒙古の遊牧民が利用する家だそうだ、250張り作らせた5000人が寝泊り出来る、それに箕輪城も3000人は侍屋敷と城中で寝泊まり出来るとの話だから、これで一気に改築が出来る」
「本当にそこまでして頂き宜しいのでしょうか? 某何か皆様に御迷惑をおかけしていると思い恐縮してしまいます」
「これは長野殿だけの話でありませぬ、箕輪城の備えが強化される分、隣の下野が助かるのです、那須領全体の事に繋がりますので、そうで御座いますよね若様」
「その通りよ、確かに大掛かりな改築ゆえ、費用は嵩むが、それは父上も重大な事だと理解したので費用を用立て事ゆえ、長野殿が気にしなくても良い事である、立派な城になるであろうから楽しみである」
「今までの倍以上は大きくなりますから元からいる箕輪衆2000と那須からも1000の兵が常駐する大きい城になります、曲輪内の侍屋敷も井戸も何もかも増えます、戦時には最大12000もの兵が収容出来る上野一、ニを争う規模になるでしょう、武田が全兵力をぶつけて来ても抗える事間違いなしです」
「城も大事ですが長殿もそろそろ身を固めねばなりませぬな、これまでにも話は来ておりませなんだか?」
「以前あったのですが、若の計らいで那須に来ましたので断ち切れたと思われます」
「では纏まる前に立ち消えになったので御座るな、それであれば遠慮せずに探せますな」
「では若、箕輪城の改築が出来ましたら長野殿の婚儀を考えましょう」
「判った、では父上にお伝えしておく、儂には荷が重い、そもそも儂も相手が決まっておらぬ、子供に相談されても困る話だ、あっははははー」
「笑い事ではありませぬぞ、そろそろ若にもその様な話の一つや二つ出て来る頃かと思われますぞ」
「一応元服するまでは断る事になっておるからどうなる事やら」
「若様大分柔らかい話になりましたついでに、某の奥にやや子を授かりました」
「十兵衛やったではないか、それは目出度い、煕子殿にやや子が出来たのじゃな、それは良かった、確か姫が一人であったな?」
「はい、6才の玉になります」
「6才であるか、長野殿には些か無理であるか」
「私はそれで宜しいですが、長野殿があと10年程お待ちになってしまいます、それでは流石に酷かと」
「しかし、目出度い事だ、嫡子が生まれると良いな、ではこのまま新年会と致そう、梅準備を頼む」
今川で起きている駿河侵攻に比べ一見平穏に見える那須の地、いよいよ那須が玲子の軍略の初手となる箕輪奪還と城の新しい築城が始まる。
── 掛川城攻防戦 ──
2月に入り武田軍は一旦甲斐に戻り体制を整え、再度遠江側、引馬城を目指し進軍を開始した、徳川軍と合流し掛川城を攻撃し、そこより先の駿河に侵入する為である。
2中旬。
「では徳川殿は搦手門を我ら武田は大手門と致す、攻撃は明朝より行うという事でよろしいか?」
「それにて結構で御座る、では」
これに先立ち、掛川朝比奈は武田が合流した事で外に布陣していた軍勢4000を城に入れ、迎撃態勢を準備し後は敵が城を攻め入るのを待つだけであった。
那須弓士隊200名。
「では皆の者配置に付け、敵将を先に狙え、次に堀と塀を乗越えようとした者を狙え」
弓士の配置は大手門後方に高櫓が設置されており、そこに50名、搦手門後方にも高櫓を設置し50名を、残り100名は控え、交代要員を配置した。
掛川城への入り口は大手門と搦手門の二口であり、他の多くは城壁と水の張った広い池が堀の役目を果たしている、曲輪櫓は六ケ所、三の丸、二の丸、本丸からなっており、さらに所々に門があり侵入を防ぐ形になっている。
「兵を押し上げ門前に迎え城を包み込み攻撃を開始せよ!」
午前11時頃に正門と搦手門に兵が殺到し門の破壊を目指した。
「よし敵が来たぞ、狙え、まだまだ、良し放て!」
那須弓士以外にも多くの弓士がおり一斉に矢が放たれ戦闘が開始された。
一斉に多くの矢が放たれ、武田側、徳川側で悲鳴が響き合い倒れる者、離脱する者が出始める。
「盾を使え、盾で矢を防ぐのじゃ」
「良し、今だ、那須五峰弓にて敵の盾を打ち砕け!」
武田も徳川も那須五峰弓の攻撃力を知るのはこの日が初めてである。
盾兵に矢がそのまま突き刺さり倒れる者が続出、近くで絶叫を張り上げ指揮する敵将が次々に討取られてしまった。
「まずい戻せ戻せ、門から兵を戻せ!」
「敵が、徳川も武田も戻ります、陣に引き上げております」
「驚いたで御座る、我らの弓より小さき弓でしたので不安でありましたが威力が凄いで御座いますな、いや驚きました」
「この弓は若様が考案した特別な弓です、那須五峰弓と申します、簡単な盾であれば貫き敵を倒します」
「この弓だけで防げる気がしましたぞ、お見事です」
「まだ他にも用意しておりますので感心するのはちと早いかと、これからです、朝比奈殿」
「それはなんとも心強い、頼りがいのあるお家で御座います」
「始まったばかりで御座います、敵も工夫して来ましょう、見張りを残し先に休みます」
武田徳川軍は五峰弓の強さに驚く初日となった。
この日の攻撃では一度も門前に辿り着けた兵はおらず陣に戻る事になる武田と徳川。
「なんじゃ、あの弓は、盾では防げぬぞ、これでは門に攻撃が出来ぬぞ」
「矢が竹ではなく木の棒から出来ています、これは杉の木の矢になります、重さがある分盾を突き抜けるのでないかと思われます」
「では如何する?」
「盾の厚みを増やし防ぐ以外ないかと」
「では早速そのように手配せよ、門に辿り着けぬでは攻撃も出来ぬ」
結局初日は何も出来ずに犠牲者だけを出しただけである、徳川武田側の陣では翌日の攻撃に備え深夜まで作業に追われる中、夜明け前の深夜に、風魔による夜襲が襲った。
「一体見張りは何をしていたのじゃ、陣幕が燃えてしまったでは無いか、被害はどうなっておる」
「被害は軽微のようです、荷駄が少し焼かれた様です」
「今日よりは攻撃を終えた後は引馬に戻った方が良いかも知れんな、これでは夜襲を警戒せねばならん」
その頃、那須正太郎は。
「飛風が戻りました」
「お~ご苦労であった、遠江の状況はどうなっておる?」
「若様の言われていた通り武田が徳川と合流し掛川の城攻めを開始しました、しかし、我らの弓士達の活躍で両軍とも門に辿り着けておりませぬ」
「飛風は戦模様を何日見ていたか?」
「開戦して三日間見ておりました」
「では今日で開戦してより5日経過した所か、頃合いとしては良い時かも知れん、我ら正太郎軍の陣振れじゃ、三日後に上野に向け進軍する、三日後朝に出立する、各所に通達せよ!」
そして三日後朝。
「ではこれより上野に向け進軍致す、出立せよ!」
陣容は長野箕輪衆2000(歩兵中心)、騎馬荷駄隊1000騎(築城資材の運送部隊)、大工他石職人500、工夫4000、正太郎騎馬隊1500(太郎槍騎馬隊1000、弓騎馬隊500)他100という大規模な陣容で西上野の箕輪城に向け進軍を開始した。
「なんか心が躍るのう、儂は戦での出陣は未だじゃが、多分こんな感じなのであろうな」
「箕輪城にいる武田の兵は200程しかおりませぬ、主に足軽です、この軍勢が迫れば退散するしかありませぬ、戦にはなりませぬが、油断は禁物で御座います、兵が多い時程油断が生じ大負けに繋がります」
「うむ、父上から厳命されておる、戦になったら真っ先に逃げ戻れと、お前はまだ戦ってはならぬ、と厳命されておるから、その時は頼むぞ、逃げて帰らねばお仕置きを受けてしまう」
「判っております、某もお仕置きは嫌で御座います」
「長野殿は嬉しいであろう、やっと戻れるのじゃ、城も立派になる、これで良かったのじゃ」
── 掛川城の攻防 ──
「まだ完成出来ぬか、あれが無ければ近づけぬ、もう10日も過ぎておるのだぞ」
「はっ、なんとか明日には完成致します」
掛川城の攻防は五峰弓から放たれる強力な矢によって被害が拡大し兵達が怯え、城門に近づく事を拒否し、戦闘が思う様に出来ない事態に陥ってしまっていた、そこで信玄と家康は急遽破城槌の上部に矢で撃ち抜けない厚みのある屋根を付ける事にし、兵達にも荷車の上部に大きい屋根を作り矢を防ぎ、城門前に辿り着ける様に一工夫したのである。
城門前に辿り着ければ、城門の高さがある為に矢からの攻撃を防ぐ事も出来る予定であった。
「忍びより報告が入りました、敵徳川と武田は破城槌の上部に屋根を施し矢の攻撃を防ぎ迫る模様であるとの事です」
「どうやら敵も新しい策で来るようで御座いますな、破城槌と敵兵が多く集まりましたら例の物をお願いします、敵兵が多く集まってからお願い致します」
「承知致した、それにしても良い武器をお持ちです、敵も苦労するでしょうな」
「攻めてくる以上、仕方ありませぬ、大義はこちらにあります」
翌日掛川城攻城戦再会!
「敵が屋根付き破城槌らしき物を押しながら搦手門、大手門二手に向かっております」
「良し、矢を放て!」
「敵の動き止まりません!」
「よしそのまま門まで突き進め、後続の兵を送り出せ!」
横からの来る矢に対しても強化された盾を作りこれまであれ程犠牲を出していたが死傷者の数も減り破城槌がついに門前に辿り着けた。
「良し、後続も続け、そのまま門を打ち破るのだ」
朝比奈軍も門の上か石を落とし被害を与えようとするも屋根がある事で動きを止める事が出来ずに搦手門、大手門に敵の軍勢が数百人と集まり出し、門を打ち破れば一気に流れ込む態勢であった。
門前に数百人とい敵軍勢が集まったのを確認し、福原長晴が。
「良し『てつはう』を投げ入れよ!」
この『てつはう』こそ佐竹包囲網で小田城が籠城戦で使った武器であるが、その時より弓之坊が改良し強化されていた、爆発力と飛び散る油の量も増えており密集した人混みの中で爆発すれば10~15人に燃え広がる程の威力を持っていた。
投げ込まれた『てつはう』は弧を描きゆっくりと落ちて行く、敵兵の足元、頭上で爆発し一斉に火の点いた油が散乱し辺りを燃やす『てつはう』の炎が敵兵を襲う、屋根付きの破城槌、盾兵のトンネルにいる壁兵も火には敵わず崩れ始める、阿鼻叫喚の紅蓮の炎、恐ろしい爆発音が何度も続き、その炎に悶え苦しむ兵達は数百人と密集しており戻る事も儘ならず、搦手門、大手門を守る堀として利用している逆川に飛び込むしかなかった。
服に燃え移る者、燃えている油を被った者、悲鳴をあげ逆川に飛び込むもそのまま戻らずに溺れる者多く、岸を上がろうとする者へ容赦ない矢に止めを刺され息を引き取る者、もはや言葉が無いという状況があっと言う間に広がり、撤退の合図すら出せない程てあった。
「なっ、なな、何が起きたんだ、門を破ったのか? あの煙と悲鳴、火薬が爆発したのか? ここからでは判らん物見を放て、急ぎ確認せよ」
家康の陣も信玄の陣も500m程離れており、昼間に使われた『てつはう』の炎は見えず、火薬が爆発した音と煙、そして悲鳴が聞こえるだけであった。
「大変です、敵が火を投げ入れ兵達に燃え広がり味方の兵が多く撤収も出来ず、堀に飛び込み、そこへ弓が放たれ次々と兵が倒れております、混乱し騒然としており指揮官の声も届きません」
「なんだと、退太鼓じゃ、退太鼓を打つのじゃ、一斉に退太鼓を打て!」
退太鼓で撤退を知らせるも被害は甚大であった、搦手門の徳川軍では200名以上が打ち取られ、負傷者は同じく200名以上と言う大きい物であった。
武田軍の方は大手門側の方が広い場所と言う事と、退太鼓の効果もあり、亡くなった者が150名、負傷者が同じく150名以上であった、掛川城攻防戦でこの日一番の被害であった。
掛川城の攻防戦、史実でも大戦であったようです、朝比奈軍の抵抗強く、半年間耐えます、最後落城ではなく、最後城が孤立してしまい、北条側に氏真ほか城兵を逃がすために明け渡した今川家最後の拠点ですね。
次章「駿河侵攻と西上野」になります。