07.バスを待つ前に
この3日間、毎日昔の葵の夢を見ている。先程まで見ていたのはこの3日間の中では比較的マシだけど、やはり微妙に嫌な夢だった。目覚ましで起こされなかったらもっと嫌な夢を見ていたかもしれない。
寝たのは日付がとっくに変わってからなのに、今日はいつもより早起きして遠出する準備をする。いつもの通勤カバンではなくてリュックに身の回りのものを詰め込む。2泊するので、いつもより念入りに戸締まりをする。うまくいけば夜行バスをキャンセルして、夕方の新幹線に乗れる。
それでもまだ時間があったので、室内を軽く掃除してから家を出た。昨晩はメールの返事をしてないから、今日も電車の中で、テンプレメールに一言添えたものを次々に返す。会社の最寄り駅に着くと、今日は立ち食いそばを食べて、オフィスに向かった。
昨晩も遅くまで会社にいたので、新しいメールはほとんどない。資料を一通り確認してから、啓太郎は電子稟議システムを立ち上げ起案処理を行った。そして課長に確認と承認をお願いする。課長が承認すれば次は部長へ、それから本部長へとシステムが処理してくれるはずだ。
その後やることは難しくない。既に出来上がっているお客様向けの契約書を印刷し、そして製本する。稟議が終わった時に備えて、収入印紙や押印の準備をしなければならない。
そうしている間に課長のチェックが終わり、問題なしということでご了解いただいた。啓太郎は部長席に向かう。
「おはようございます。おかげ様で今回の契約もまとまりそうです。今部長に稟議システムが回っているかと思いますので、ご確認と御裁可をお願いします」
部長は軽く笑う。
「分かったこれからすぐに見とくよ。今日で無事に終わりそうでよかったな」
それから契約書の製本の続きを終えると、技術部への依頼書と同僚への引き継ぎ書を書く。現状、課題、留意事項、関係者の連絡先。そういったものだ。基本契約さえ結んでしまえば、あとは技術部と納品業者が動いてくれるので、何らかのトラブルが起きなければ、営業の仕事は進捗状況を定期的にまとめて、お客様にご報告するだけだ。
今日できない契約処理の続きは先輩にお願いしなければいけないが、引継ぎと言えるのは、今のところその程度しかない。啓太郎の留守中には何も問題がないだろう。
事前の合意は取れているので仕事は淡々と進む。昼前に本部長の承認も得られたので、今日は先輩たちとゆっくり昼ごはんを食べに行った。
「なんとかなりそうでよかったな」
「僕の不在中になにかあったらよろしくお願いしますね」
昼飯代は先輩たちがおごってくれた。せめてこれくらいさせろよとのこと。
午後からは諸手続きをしつつ、他部署や他社の担当者と連絡を取り合う。
発注先はOK、技術部も問題なし。だが肝心の顧客からは、幹部がなかなか戻らなくて稟議が回せないとの話があった。
「事前に説明して了解を得ているので、問題はないはずです」
一度ひっくり返っているから、担当者からそのように聞いてもなかなか落ち着かない。顧客は大きな会社だから、それなりの面倒があるのだろう。それがわかっていても啓太郎はやきもきする。夕方になってからようやくお客様の社内稟議が終わったという、啓太郎が待ちわびた連絡が貰えた。この後はもう契約の諸手続きだけだ。
啓太郎は既に準備していた残りの手続きを終えると、一通り関係者に報告とお礼をしてまわった。
社内には直接足を運び、取引先には電話とメールをして回った。
それが終わると、課長からねぎらいと改めて祝福の言葉をもらい、啓太郎は机を整頓してから会社を出た。次の出社は再来週だ。
この時間、新幹線はまだまだ動いているが、その後がつらい。実家まで辿り着けるかというとぎりぎりだ。啓太郎は元々の予定通り、今日の夜行バスに乗ること、そしてそのままホテルに行くことを母にメールで伝えた。それから葵に電話する。数コール後にここ数日、ずっと聞きたかった葵の声がした。
「ケータ、今、大丈夫なの?」
「うん、今仕事がちゃんと一区切りして先輩たちに引継いできた。今日の新幹線に乗っても間に合わないと思うから、やっぱり夜行バスで帰るよ」
葵の、ケータの仕事が終わって良かった、という声がする。それだけで啓太郎は嬉しい。
「私は今、駅を降りて実家に歩いているところ。みんな啓太郎にも会いたかったって言ってたよ」
啓太郎より早く、葵は昨日実家に戻っている。そして今日の昼間は、小中学校の時の友達と会っていたはずだ。当然啓太郎の顔見知りも多いだろうけれど、女性ばかりの集まりに参加する勇気はない。
「みんな元気そうだった?」
「うん。もう子どもがいる子もいるからびっくりだよね」
啓太郎はこの後食事して、少し時間を潰してから予約済のバスに乗ることを伝えた。
「明日の早朝、バスを降りたら、飯を食って、そのままホテルに行くよ。ロビーか控室かどこかにいると思うから連絡してよ」
葵のわかった、という返事を聞いた後、啓太郎は少し迷ってから、ここ数日の夢の話をした。
「ここのところ毎晩、昔の葵の夢ばかり見てた。小学生、中学生、そして高校の時の葵の夢を見たよ。なんでかわからないけど、途中までは本当にあったことなのに、途中から俺が葵に酷いことをしてしまう夢ばっかりだった」
電話越しでも、葵の笑い声が啓太郎を和ませてくれる。
「それはケータの願望かな? それともエンゲージブルーとかマリッジブルーかもね」
二人はその後もしばらく話を続けて、電話を切った。さて、今日は独身時代最後の夜だというのにひとりっきりだ。夜行バスまではまだ時間がある。まずは肉でも食べに行くとするか。