05.夜桜
これで二日連続で葵が出てくる夢を見た。悪夢というほど悲劇的ではないが、夢の内容は悪い。多分この夢の内容もしばらく忘れないんだろう、そんなことを思うからより忘れられないのかもしれない。
これで仕事がうまくいけばいいのだけど、夢見が悪くなってからは仕事もやはり上手くいかない。今日明日で、今回の契約まで漕ぎつけないといけないのに、うまくたどり着ける自信がない。啓太郎は昨晩の帰り、コンビニで買ったおにぎりを食べる。部屋の隅に積み兼ねられた段ボールに入ったままの啓太郎のものではない荷物が、この部屋の殺風景さをより増している。
冷たい朝食を食べ終えた後、いつものように身支度を整えて家を出た。
今日は何駅目かで電車に座ることができた。昨日のように何通ものメールの返事をする。申し訳ないが、ほとんどはテンプレで返し、可能であればその人向けに一言を添える。まるで年賀状みたいだ。ああそうだ。親にも連絡しておかないと。金曜を休みにすることはもう無理だ。金曜夜の夜行バスをキャンセルしなくてよかったと思うしかない。
オフィスに着いても啓太郎がすることは、まずメールチェックだ。昨晩遅くまで残業していたから、その後来ているメールはDMなど碌なものが無かった。それから昨日連絡が取れなかった顧客と長電話をして解決策を探る。当然ながらあちらもあちらで、いろいろ事情があるようだ。本当にお金の話は面倒くさい。技術部の担当者、機械のベンダ、あちこち連絡しているうちになんとか合意点が見つかったのは、お昼を食い損ねたあとだった。
そこからはそれぞれの部署で、上司の了解を得る必要がある。幸い部長も多少の利益が下がることについて了解してくれた。ギリギリだが、今年度の利益目標が達成されるからだ。その後稟議の準備をしながら、他社や他組織の連絡を待つ。結局、その日も遅い帰りになったが、明日、各社・各部署で正式な稟議を回せばよいところまでこぎつけた。
「お客様からご発注のご内諾を頂きました!」
啓太郎は既に誰もいなくなったオフィスで敢えて声を張り上げた。上司とその上司には、メッセージアプリを使って、明日の朝イチから稟議を回すことを伝えた。一度作成した資料のうち、金額や条件などの修正を加えてからオフィスを出た。これで明日部長に説明して、稟議書を回しきればいい。
連日のおにぎりは止めよう、そう思っていたけど、終電の1本前の電車を降りた後、この時間でも開いている飯屋に入る気もせずやはりコンビニに入った。そして結局またおにぎりとお茶を買った。もう重いものを食べる気がしない。だが、このまま家に戻って一人で食べる気もおこらない。少しだけ回り道して小さな公園に来た。そこには一本しかない街頭に照らされた桜が、見事に花を咲かせていた。
そういえばここにも桜があったな、と公園に着いてから啓太郎は思い出した。もう日付が変わって、この小さな公園には啓太郎の他には誰もいない。一つだけあるベンチに腰かけて、桜を幾度も見上げながら、おにぎりをお茶で喉に押し込む。啓太郎にとって、桜は常に葵を思い出させる。幼稚園の頃の葵。小学生の頃の葵。彼女はいつも啓太郎の視界にいて、そして輝いているように見えた。葵に会いたい。声を聞きたい。そう思ったが今はもう無理だ。
啓太郎の脳裏に、幼い頃の葵が桜の木の下ではしゃいでいる姿が目に浮かんだ。そして中学生の時に一人桜の下にたたずんで花を見上げる葵の姿も。啓太郎は、3階の廊下からそれを見つけてひとりニヤニヤした自分を思い出した。
そして啓太郎は一人泣いた。
自分でもなぜ涙が出たのかわからない。仕事は今は忙しいが、もう目処がついて、後はその仕上げをするだけ。それが終わったら来週は丸々お休みだ。プライベートだって皆が羨むような状況だと思う。実際ここのところ啓太郎に寄せられるメールのほとんどが、羨みややっかみが混じった祝福の内容だ。
それなのにどうしてこんなに悲しい気持ちになるのだろう。もし、このベンチの隣に、今は遠くにいるはずの葵が座っていたら、そして彼女を抱きしめることができたのなら、この悲しさが癒やされるのだろうか。そんなありえないことを啓太郎は考える。
違う。
啓太郎は思った。もし葵がここにいたとしても、この悲しみは癒やすことができないに違いない。この悲しみは絶対に癒やすことができない喪失感だ。
花吹雪のなかではしゃぐ幼稚園児の葵、かき集めた花びらを啓太郎とお互いに掛け合った小学生の葵、中学の庭の桜の木の下である時は一人で、また別の時は友人たちと並んで花を見上げる葵。それらを再び目にすることは決してできない。人は過去に戻ることは決してできない。あまりにも当たり前のことだ。
「自分の事ながらあまりにもバカすぎる」
深夜の公園で啓太郎は小さな声を出して自嘲した。なんて馬鹿な奴だ。啓太郎は食べ終わったゴミを公園のゴミ箱に捨て、ただ寝るために自宅へと戻った。
街灯と、満月を少し過ぎた月の光が啓太郎の夜道を照らしてくれていた。