02.お前がうざったい
これは啓太郎が小学4年生になって間もない頃のことなのだろう。昼休みで人がまばらな教室で、もう名前が思い出せない新しいクラスの男子の何人かと、馬鹿な話を大声でしていた。お気に入りのマンガの話とか、自分のハナクソをどこまで飛ばせるかとか。啓太郎は男友達の机の上に座って話に参加していた。
啓太郎の学年は5クラスあり、学年が上がるたびにクラス替えがあったので、そこで新たな人間関係を作る必要がある。この新しいクラスには、これまでの学年で仲が良かった友達がいない。啓太郎にはそれが苦痛だった。なんとか距離感を測りながら、新しいグループに潜り込もうとしていた。
そんな矢先に葵の話が出たのだった。グループの男子の一人、リーダー格がこんなことを言い始めたのだ。
「なあ、八重樫ってさ、生意気だと思わね?」
この時点で啓太郎は身構えた。そしてこの男子グループに入るのは危険ではないかとも思った。
先日この男子がある女子の消しゴムを取り上げたこと、そして拒まれたのに返さなかったことで、近くにいた葵から注意を受けたのだ。啓太郎が思うにこいつが悪いのだから、むしろ葵があの程度で済ませたことの方がむしろ不思議だった。
「だよなー。ちょっと頭がいいからってチョーシにのってんだよなー」
「先生に気に入られてるからだよ。ひいきだ。ひいき」
啓太郎は、話の流れが危険だと感じた。今のうちに葵の欠点について、なにか話すべきだ。なにがいいだろう。結構強引なところとか? だが啓太郎が考えているうちに、矛先がこちらに向いた。
「なあ、ケータ。さっきからなに黙ってんの?」
「こいつさー、八重樫と仲いいんだよなー。幼稚園から一緒なんだろー?」
八重樫葵は目立つ。見た目だけではなく、行動でも目立つ。明るく、何事にも積極的に取り組むので、幼稚園の時点で既に女子のリーダーとなっていた。また一方、こちらは彼女の容姿のせいだろう、一部の男子たちが葵にちょっかいを出したり、幼いながらも気をひこうとする園児が絶えなかった。そう、幼稚園児の頃からだ。
啓太郎はそんな葵をできるだけ守ろうと、彼女の傍にいようとしたが、そのうちそれが逆効果になることに気が付いた。啓太郎が近くにいる時の方が、葵は他の男児に絡まれやすいのだ。それに気が付いた啓太郎は中途半端な距離を取ってしまった。
小学校に入ると葵が他の男子に与える影響の強さをより、思い知らされることになった。現在だと小学生のカップルでも珍しくないのだろうが、あの時代、男女の付き合いなんてものはなかった。女子は敵。男子のほとんどは少なくとも表向きはそう振舞っていたと思う。そして啓太郎もそうだった。
たまたま葵と廊下で話をしただけで、こんなことを言われたことがある。
「あれって2組の八重樫だろ? なんで別のクラスの女子と話してんの?」
「いや幼稚園で仲がよかったし、久しぶりに会ったからね」
最初はこんな感じでやり過ごしていた。だが、学年が上がるにつれ葵はより目立つ存在になり、男女の仲に敏感になって、やや過剰な反応を示す子どもも増えた。啓太郎はできるだけ学校では葵と会わないように彼女を避けるようになり、その一方で二人だけで会う特別な時間を増やそうとした。学校から帰った後とか、休みの日とか。でも葵には友達が多いから、なかなか二人だけで会うのは難しい。だから夜、葵の家に何度か電話をかけたりした。
「その日はね、クラスのみんなでアスレチックに行く予定なの。その次の週はどうかな?」
葵が啓太郎のことをどう思っているのかはわからない。でもこうやって時間を取ろうとしてくれるのだから、そんなに悪くは思われていないと思う。
そして4年生。小学校に上がってから啓太郎は初めて葵と同じクラスになった。
このグループには3年の時も同じクラスの奴もいるが、これまであまり話したことがない。だからそいつも含めて付き合いがまだ浅い。だから啓太郎と葵のことは、まだ誰もよく知らないに違いない、そう思っていた。
『こいつさー、八重樫と仲いいんだよなー。幼稚園から一緒なんだろー?』
先ほどの男子の言葉が、啓太郎の頭の中で繰り返される。
余計なことを言うなよ。3年の時も啓太郎とこの男子は同じクラスだったが、葵は違うクラスだった。こいつと葵にどんな接点があるのか、啓太郎にはわからない。
「いや、お前らだってたまたま幼稚園が一緒の奴とかいるだろ?」
啓太郎はなんとか話しをごまかそうとしたが、それはうまくいかなかった。
「そういや、この前八重樫と仲よさそうに話してたじゃん」
「前にさー、家に遊びに言ったことがあるって聞いたぞー」
だから余計なことを言うなよ。啓太郎はとにかく話題を変えたかった。
「だから。昔の話だってば。今は関係ないって」
だが、この新しいクラスの友達候補は啓太郎をからかうのを止めない。
「ホントかなあ。ムキになるところが怪しいよなあ」
「そーそー。前からあやしー感じだー」
「実は八重樫のこと好きなんじゃねーの? ケータ?」
なんでそうなるんだよ。啓太郎はもう耐えられなかった。このクラスになってから、最初に仲良くなった奴らだ。このグループでは3年までの友人たちとのような付き合いの積み重ねが足りないからか、まだ居心地は良くない。だがここを出たら、既に形成されつつある別の男子グループにうまく入らないといけない。だから周りを見ることもせずに、叫んでしまった。
「そんなことないよ。俺だって八重樫のことうっとうしいって、思ってるし」
言ってやった。これで満足したか?
「へー。五島って私のこと、そんな風に思ってたんだ?」
話しているうちに昼休みが終わる時間に近づいていたのだ。閑散としていたはずの教室。そこに多くの児童が戻ってきていて、啓太郎の声は教室中に響き渡った。そして当の葵が教室にいることに、啓太郎はまったく気が付かなかった。だから葵本人に、啓太郎の言葉がはっきりと聞こえてしまったのだろう。
冷たい目をした葵が近づいてくるのを、啓太郎は呆然と眺めていた。
「啓太郎は私のことをそんな風に思ってたんだ?」
葵はわざわざ呼び方を変えて、同じ問いを繰り返した。その言い方が、先ほどまで呆然としていた啓太郎の頭に血を昇らせた。啓太郎はそれまで座っていた友達の机から立ち上がった。
「そうだよ、俺はうざったいお前のことが嫌いなんだ」
啓太郎は葵にはっきりと言い放った。その瞬間、頭に昇っていた血が今度は一気に体から、教室の床から下の階まで零れ落ちたように感じた。自分がとても馬鹿なことをしたことを、取り返しのつかないことをしてしまったことに気が付いた。
「そう……じゃあね」
葵は啓太郎の元を去ると、すぐに午後の授業が始まるにも関わらず、そのまま教室を出て行った。啓太郎のせいで教室は静まり返ったままだ。啓太郎はゆっくり自分の席に戻った。心のどこかで、今すぐ葵の後を追うべきだ、そう思ったが体を自分の席から動かすことができなかった。だってどこに行ったのかはわからないから仕方がない。啓太郎は自分にそう言い聞かせた。
担任教師がやってきて午後の授業が始まったころに、葵が教室に戻ってきた。
「すいません。遅れました」
啓太郎は葵を見たが、葵は啓太郎の方を見向きもしなかった。
別にいいや。これでちょうどよかったんだ。
だがその日は、授業も、帰宅してから読んだマンガもテレビも、何もかも啓太郎の頭の中に入ってこなかった。葵のことが啓太郎の頭の中から根を張ったように動かなかった。
「そう、これで良かったんだ」
啓太郎は声に出して自分に言い聞かせた。