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01.彼女の名前

五島啓太郎ごしまけいたろうが会社に戻り、エレベータが来るのを待っていると、後ろから同期に声をかけられた。隣におそらく彼の部署の先輩と思われる人物がいる。少しタバコの匂いがした。ウチの会社はわざわざ屋外の喫煙コーナーでないとタバコは禁止になった。昨今の愛煙家は大変だ。


「よっ、久しぶり」

「おお。本当に久しぶりだな」


特段親しいわけではないが、会えば立ち話ぐらいはするような関係だ。3人でエレベーターに乗り込むと、同期はその先輩に啓太郎との関係を話している。


「こいつ、俺の同期なんですよ。で、前に同期で飲み会した時、地元が同じ、それも同じ高校出身ってことがわかったんですよ。高校時代はクラスも違ったし、話したことも無かったんでお互い気が付いてなかったんですよね」


啓太郎の母校は田舎の名門公立高校だ。クラス数はそんなに多いわけではないが、文理が違えば同じクラスになったことが無いのは普通だから、顔も名前も知らない同窓生がいるのはおかしくない。


ただ、このいかにも都会育ちに見える同期が、啓太郎と同じ地方出身だというのは面白い。彼はうまく都会に溶け込んでいるだろうが、自分はどうだろう。


「へえ。結構世間は狭いものだな」


同期が笑いながら話し、それに先輩が軽く返すのを、啓太郎は黙って聞いていた。やりとりを聞きながら、そういえば同期会も、その一回だけ開かれて、その後はそれっきりだな。そう啓太郎が考えていると、同期がまた話しかけてきた。


「そうだ、五島さあ、八重樫葵やえがしあおいって名前、覚えてるか?」


その名前を会社のエレベーターで耳にするとは思っていなかった。啓太郎は自分の心臓が脈打つのを感じた。不意を突かれた啓太郎は、ああ、覚えているよ、と反射的に返すことしかできなかった。本当は覚えている、などという単純な言語では表現することができない間柄だ。


「いやね、うちの高校で飛びぬけて綺麗な子がいたんですよ。美人なだけでなくて、頭もいいし、気立てもいい。当然すっげー人気者で、校内の有名人でした。やっぱりその頃から大学生と付き合ってるって話でしたけどね。相手はその時の彼氏なのかなあ? さすがに違うか」


同期は、先輩にちょっと説明すると、また啓太郎に話しかける。その時、啓太郎の体に微かな重力がかかり、エレベーターがある階で止まろうとしているのを感じた。


「五島もやっぱり八重樫のことは知っているよな」


そして先輩の方を向くと、うちの学年で、彼女のことを知らない奴なんていなかったですからね、と言ってまた啓太郎の方を向く。


「で、その八重樫が今度結婚するんだってさ。ちょっと小耳にはさんだだけだから、ホントかどうかは知らないけど。不確定情報ってやつだな」


そしてエレベーターの扉が開き、同期は、じゃあな、と言って先輩と一緒に降りて行った。啓太郎は一人エレベーターに残された。


「八重樫、葵」


他に誰もいないので、啓太郎は口に出してその名前を唱える。


同期は知らなかったようだが、その名前は啓太郎にとって決して忘れられない名前だ。彼はそのことを知らないで、たまたま耳にした噂話を口に出したに過ぎない。



啓太郎は彼らの一つ上のフロアで降りて、自分のオフィスに戻る。そして自席に荷物を置いた後、課長に報告した。


「先方の課長があの金額で合意してくれました。これで稟議を回してくれるそうです」


よし、よくやった。

やったじゃないか。

これで今年度の計画達成できるんじゃないですか?


入社3年目の啓太郎にとって、今回の案件がこれまでで一番大きな仕事だ。ぜひ今週中に契約まで持ち込みたい。


「ですから受注と、技術部への手配、物品調達、これらを合わせた社内稟議の手配を始めます。金額折衝とその資料作成に時間を使ってしまったので、まだ作成していない稟議用の文書がいっぱいあるんです。なんとか今週中に全部終わらせないといけませんし」


今日は火曜日。今日中に社内稟議に必要な資料を作れば木曜日までには必要な手続きは終わるだろう。そうすれば金曜日も休めるかもしれない。今日は遅くまで頑張ろう。啓太郎は気合を入れて自分用のバソコンに向かって必要な書類を作り始めた。



夕方、契約書の再チェックが終わったところで、啓太郎は一息入れることにした。休憩室の自販機でコーヒーを飲みながら昼間の同期の話を思い出した。


『で、その八重樫が今度結婚するんだってさ』


あの同期は知らなかったが、啓太郎にとって八重樫葵は特別な存在だ。


母親同士が元々友人で、たまたま結婚後の自宅も近所になった。だから啓太郎は葵と初めて会った時のことをまったく覚えていない。母親によると生後半年に満たない頃に会っているとのことなので、自分たちに物心がつく頃には、啓太郎のそばに葵がいた。


桜吹雪の中で花びらを追いかける幼い葵の姿が目に浮かぶ。


母親たちと一緒にお互いの家や近くの公園で遊んだことをなんとなく覚えているが、あれが本当に自分の記憶なのか、母親から聞かされたせいで覚えていると思い込んでいるのか、啓太郎自身には既に曖昧あいまいで区別がつかない。


『葵ちゃんの方が先に立てるようになったのを見て、あなたも立とうと頑張っていたじゃない』

『そうそう、公園の砂場でケイ君が作った山を他の子に踏まれて、葵が怒って追いかけてたこともあったわよね』

『幼稚園に上がる前も、いつもの公園の桜を並んで見てたわよね』


幼稚園には毎日並んで登園していたし、母親たちに連れられて、プールやスケートに行ったこともある。そして公園では毎年、二組の親子は桜の花を見に行った。


啓太郎がはっきり覚えている最初の記憶の一つは、小学校に上がる直前、母親たちと何度か行ったことのある「いつもの公園」に、ふたりだけで桜を見に行ったことだ。桜吹雪の中を、ふたりではしゃいだのを覚えている。その頃は、啓太郎も葵も、どちらもひとりっ子だったこともあって、ふたりでいることが当然だと思っていた。


小学校では別のクラスになったが、それでも二人で一緒に啓太郎が当時好きだったカブトムシを取りに行ったり、葵が好きな図書館で同じ時間を過ごした。啓太郎にとってそれらはとても懐かしく、今なお大事な大事な思い出となって胸に残っている。


啓太郎は缶コーヒーを飲み干し、オフィスに戻る。今度は契約時に必要なチェックシートを作成することにした。一つの稟議に複数の契約が混じるので必要な文書が多い。今日のうちに残業して、ある程度資料をそろえておきたい。空き缶をゴミ箱に入れて、啓太郎は自席に戻って仕事の続きをすることにした。



メシは会社の近くの牛丼屋で食べた。電車の中ではひたすらスマホでメールをやりとりする。啓太郎が自宅にたどり着いたのは夜中に近い時間だった。疲れはしたが、これで明日以降は楽になるはずだ。


啓太郎の住処すみかになっているマンションは、築年数はそれなりに経っているが、その代わりに値段の割には十分な広さがある。買ったばかりの冷蔵庫には、まだ氷と缶ビールしか入っていない。啓太郎はビールを一本飲み干すと、その足でバスルームに向かった。風呂を入れるのは面倒だからシャワーで済ませて、そのまま寝てしまうことにした。

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