第四十七話 零落の園――空中恋戯――
「さあ、しゅっぱーつ!」
僕はすいの言葉を合図に、ペダルを踏みだした。
「サイクルモノレール」……。記憶に残っている景色よりさほど高さを感じないのは、僕の身体が少しは成長した証なのだろうか。
「すい」
「なに?」
「ちょっと漕いでみてよ」
「うん」
僕はコースの途中でマシンを止め、すいにペダルを漕ぐよう促してみた。
「むっ……」
クルクルと、空転するペダル。
力が足りないのか、入れすぎなのか、彼女の足は載せた途端にペダルを蹴り抜く。右も、左も。
「なるほど……とりあえず、自転車に乗れないってのはホントみたいだね」
「あっ、疑ってたの?!」
「そりゃあ疑うよ。切田と悪だくみしてたんでしょ?」
「ギクッ」
「いや……丸わかりだよ……」
「……あちゃペロ~」
舌を出すな。
「漕ぐのは僕がやるよ。もともと、そういう役目だし」
「頼んますぜッ! ダンナ!」
僕たちを乗せたマシンが、ふたたびゆっくりと前に進みはじめる。
「すいはさ、自転車乗る練習とかしたことないの? 子どものときとか」
「ないね~。修行ばっかり」
「今からでも練習すれば、すいならすぐ乗れそうな気がするけど」
「こっち来てから、自転車乗ってる人見ても、自分で走った方が早いし、長く走れるし、そんな必要感じなかったね~」
そりゃそうだ。すいの身体能力からすれば自転車なんてただの足枷みたいなものだろう。
「でも、乗ってはみたいかな」
「うん? それは心境の変化……みたいな?」
レールの上にふわり、と風が吹く。すいの髪が揺れた。
「みんなとサイクリングとか楽しそうだよね」
「ああ……なるほどね~」
僕はその光景を思い浮かべてみる。川べりのサイクリングロードを、こんな風を浴びながら、僕たちは並んでペダルを漕いでいく。
「きっと気持ちいいだろうね」
「そうだ、ヨッシー!」
すいがパッと明るい顔を向ける。
「教えてよ、自転車の乗り方ッ!」
「えぇ? 僕が?」
「うん。お料理やスマホの操作を教えてくれてるみたいにさ」
「いや、まあ……」
キラキラと、子どものように瞳を輝かせるすい。その顔は、ともすると、拳一やアルファなんかよりもずっと幼く……。
そうか。すいは、子どもみたいなものなんだ。
少し前まで、すいはずっと山で修行をしていた。お師匠と……ふたりきりで。きっと、料理や自転車なんて触れる機会もなかったのだろう。それだけじゃなくて、他の……普通の社会で過ごしていく上で、僕たちが自然と身に着けていくことやモノ。それらも一切知らないでいる。カラオケなんかもそう。遊園地もそう。電子機器の扱い、人とのコミュニケーションの取り方がクッソ下手なところも――。
僕は出会った頃の彼女の言葉を思い出していた。
――普通の小学生がすることも、中学生がすることも、ワタシはなんにも知らない。だからワタシには、普通に生きて、普通に笑ってるヨッシーが、とっても新鮮で、とっても輝いて見えたんだよ。
すいにとって……彼女にとって、「普通」ということは光り輝くまばゆいものだったんだろう。山を下りて、彼女はその光の波に初めて出会った。
その中に……僕もいた。
「すい」
「ん~?」
「教えるよ、自転車」
「マジで?!」
「マジで」
「マママのマで?」
「マママのマで」
「ぃやったー!」
彼女が拳を振り上げて喜んだため、僕たちのマシンがすこし揺れる。
「ちょっ! あぶないから暴れるなッ!」
「は~い!」
怒ったというのに、その笑顔……。
なんだかな~……。
「……他にもさ、教えてほしいことあったら遠慮せず言ってよ?」
「……むふふ~」
「すい?」
「ヨッシーとあいちんはやっぱり親子だよね」
「あいちん」とは僕の母さん、逢瀬愛のことである。
「母さんと僕……? まあ親子だからね……。でも、どうして……?」
「ワタシが山を下りてきてから最初にまともに話したのがあいちんだったんだけど、あいちんはワタシにいろんなことを教えてくれた。勉強も、髪のとかし方も、笑いながら優しく教えてくれた。今、ヨッシーもおんなじように笑ってるし、おんなじように優しい。ふたりはすっごい似てるよ」
「母さんと僕が、ね……。顔は似てないとはよく言われるけど……」
母さんとすいが、僕が彼女と出会う(正確には「すいの本性を知るまで」だけど)のよりずっと前から、早朝の僕の家で会っていたことは聞いている。それが、すいが一般社会に接する「最初」だったんだろう。
とすると……すいの訳の分からない知識の偏りは母さんのせいか? 彼女が妙に古いことを知ってるのも、それならうなずける……。
僕は自然と呆れ顔をしていた。
「むふふふ~。記念日だなぁ」
「記念日?」
「そう、記念日」
「あ、それって……」
そのフレーズは僕もよく耳にする。母さんが、事あるごとに口にする言葉だ。やれ、僕が初めてクレヨンで「ママ」と書いた日だの、やれ、僕の初めての手料理を食べた日だの、と、僕自身も忘れているようなことを、とても嬉しそうに話す母さんの姿が脳裏に浮かんだ。
「それも母さんに教えてもらったの?」
「うん、そう。今日はヨッシーと空中散歩した記念日ッ!」
「空中散歩ね~……」
僕は周りを見渡す。
前に伸びるレール。左右をゆっくりと流れていく、遊園地の景色。風にさざめく木々の葉っぱ。隣で笑う少女。
「もう一個、記念がほしいな~」
ちょうど視線を移したタイミングですいがそうつぶやいたものだから、僕はなぜだか少し、咎められているような気分になった。
「もう一個?」
「そ」
そう言うと、すいは右手を差し出す。
「……『恋人つなぎ』」
「恋人……つなぎ……?」
「……あれじゃん?」
すいは、差し出した手はそのままに、僕にそっぽを向いて言葉を続ける。
「キスは……ヨッシーの初めてのキスは、たぶん、あの金パツが奪いやがったでしょ」
「うっ……」
そうだ。よくよく考えてみたら、僕のファーストキスは、あの格技場でのソフィーとのキスだ。まあ、その、悪いモノだったかと言われると、決してそうではないのだけれど……。
「だからワタシには、ヨッシーの初めての『恋人つなぎ』をください」
「……」
「するの……初めてじゃない?」
「いや、初めて……かな」
たぶん。
子どもの頃の遊びの延長……詩織とか……?
……。
うん。とりあえず記憶にはない。僕は「恋人つなぎ」をしたことはない。
「じゃあ……ください」
もう一度、すいは言う。今度はこちらに、少し頬を染めたその顔を向けて。
僕は、自分でも不思議と、何のためらいもなく、彼女の手に自分の手を重ねていた。
「……ッ!」
「これでいい?」
目を潤ませて僕を見つめるすいを、僕はまっすぐに見返した。
「……ヤバいよ、ヨッシー」
「ヤバい?」
「心臓バクハツしそう……」
「バクハツは我慢して……。ちなみに……」
「ちなみに?」
「なんだか僕も……バクハツしそうになってきた」
「……離さないよ?」
「まあ……とりあえず、しばらくはこのままでいいよ」
すいが握る手に力を込める。応じて僕も、彼女の小さめの手を包むように指をまげる。
このじっとりとして、なんだかこそばゆい感触は、きっと初夏の陽気のせいだ。
などと詩人ぶってたら。
ドンッ
「うおっ?!」
「……ってぇ」
不意に、背後から衝撃を食らい、僕たちは少しよろめいた。
マシン越しに振り向くと、後続のマシンが僕たちに追いついている。そのマシン上には呆れ顔の拳一と、鬼の形相をしたソフィー。
「……丸聞こえなんですけども?」
「ゴルァ! 金パツぅッ! なにカマほってくれとんじゃい! いいところだったのに邪魔すんな!」
「ニェプッ! ニェプ、ニェプ、ニェプッ! こっぱずかしくてこっちが照れるわッ! ね、拳一くん」
「強兄さんにすいさん、ふたりともどエロですね」
「いやあ……あはは」
苦笑いしか出ないです。
「うらやましいんじゃろがっ!」
すいはどうやったのか、安全用のベルトをするりと抜けて立ち上がり、僕と握っている手を、勝ち誇るように掲げてみせた。
「うらやましいわ! もうアンタの手ごと舐めまわしたいくらいだわっ!」
「ソフィアさん、どエロですね。どエロばっかだな、この集団」
「すい、ちょっと……。体勢がキツい……」
『後ろがつかえますので、お進みくださ~い。あと、危ないので立ち上がらないでくださいね~』
スタッフアナウンスの声が、僕たちに注意を促す。
「ほら、すい。座って」
「合点承知~」
前に向き直り、ストンと座席に腰を下ろすすい。
「漕ぐよ?」
「うんッ!」
ふたたび、マシンがレールを走りはじめる。
僕たちの手は、サイクルモノレールの降り場に着くまで、ずっとそのまま、握られたままだった。
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