第九十七話 とある少女の物語 後編
「『鳴らし山』にいた男の子……。それが……」
「そう。その赤ちゃんが、つよぽんだったの」
あいちんは「鳴らし山」で、屁吸術の先生――平水さんから、聞きたくなかったことを聞かされたわ。
『あの悪童弟子なら、もう死んだぞ』
平水さんはご自分の伝手からの情報でそのことを知ったみたいで、吐き捨てるように言いました。
だいちーは、もうこの世にいない。
どこか小さく予感していたことだけど、あらためて言葉にして聞かされたあいちんは目の前が真っ暗になりました。自分も死にたいと、邪な考えが頭を過ぎりました。
『最後に置き土産をしてくれたからよかったものの……。あの恩知らずめ……』
『置き……土産?』
『あの赤ん坊じゃ』
そう言うと平水さんは、スヤスヤと寝入っているつよぽんに目を向けました。
『急に舞い戻って来たと思ったら、必ず迎えに来るから預かっててほしいと言って置いて行ったんじゃ』
『だいちーの……子どもなんですか?』
『いや。どこぞで拾った身なし児だと、あやつは言っておった。そのくせしてこの赤子を迎えて、大事な人と家族を作りたいなどと殊勝なことも言っておったわ』
だいちーは……、あいちんにつよぽんをプレゼントしてくれようとしていたんです。けれどだいちーは、自分の腕でつよぽんを抱き渡してくれることもなく、すいちーが生まれてきてくれたことも知らず、いなくなってしまった。
二日ほど山に滞在して、泣いて、喚いて、やっと落ち着いたころ、あいちんはつよぽんを引き取ることを平水さんに願い出ました。すいちーとつよぽん。だいちーが遺してくれたふたりを、なんとか育て上げようと考えたの。
けれど、平水さんは拒否した。
『ならん。屁吸術を後世に残すためにこの赤子が必要なのじゃ』
『平水さん……、ど、どうするつもり……?』
『知れたこと。この赤子を屁吸術の後継として、この山で仕立て上げる。ワシにももう、それほどの時間はない。いくら才覚がなさそうな児とはいえ、三十年ほど鍛え上げればなんとかモノにはなるじゃろう』
「やっぱり僕、どこにいってもセンスないのね」
つよぽんを渡してくれるよう、何日も何日も平水さんに頼みつづけたわ。平水さんは頑として拒否するばかりか、滞在が長くなるあいちんとすいちーに苛立ってきました。
平水さんはあいちんを、後継と見込んでいた弟子のだいちーを誑かしたものと決めつけているようだったの。
『はやく出ていってくれ!』
『お願いしますッ! お願いしますッ! 強くんを……育てさせてくださいッ!』
『しつこい! 何度言えば判るッ!』
『ではせめて……、せめてこの山で、私たちも……』
『ならんッ! 俗物が長居していいお山じゃないんじゃ!』
「母さんは、力ずくで、とは考えなかったの……?」
「考えたわ。おこがましいけれど、勝てる自信もあった。けど、屁吸術の達人、だいちーの師匠相手に、あいちんも無傷のままでいられる確証はなかった。つよぽんとすいちーのことを考えたら、あいちんにはその手はとれなかった……」
ある日のこと、平水さんはいつものように頭を下げるあいちんに言いました。
『そんなにこの子に執着するなら、代わりにお前さんの子を置いて行けッ!』
「お師匠が、そんなことを……?」
「平水さんはたぶん、後継者をたてなければと焦っていたんだと思うの。平水さんはその時は、つい口が滑ったようだったけど、次第にその考えに固執するようになったわ。すいちーを置いて出て行け、才覚ははるかに勝っているからな、と逆にあいちんに迫るようになった」
「お師匠、そんなに気が荒い人じゃなかったけどなぁ……」
ひと月近く、そうしたやり取りが続いたわ。
滞在が長くなったあいちんたちにしびれを切らした平水さんは、「明日まで居残っていたらワシにも考えがある」と告げました。平水さんこそ、あいちんを力ずくで追い出してくる……。最終通告だ、ってすぐに判った。
あいちんは途方に暮れて、つよぽんとすいちーを前にして泣いたわ。
『だいちー……。あいちん、どうしたらいいのかな……』
そうつぶやいたとき、目の前のつよぽんとすいちーが、だいちーが遺してくれたちっちゃなふたりが、キャッキャと笑ったわ。まるで、だいちーが「なにも心配することない」と、あいちんを励ましてくれているように。
それで、あいちんは決心した。悩みに悩んで、平水さんにすいちーを任せることにした。
「なんで、すいの方を……?」
「それは……、屁吸術を学ぶ間、修得してからも、命の危険を避けられる可能性が高いのは、つよぽんよりも、あいちんたちの実の子であるすいちーだと、そんな打算的な考えから……」
「そっか……」
「ヒドイよね……。親として……、失格よね……」
「ワタシ……、あいちんを責めたりなんかしないよ? 今こうして、あいちんとヨッシーといっしょにいられる。それがなくても、自分がヒドイ境遇だなんて、思ったことない」
「ふ、うふ……。救われる……、言葉だわ」
すいちーをお任せする。
その決心を告げると、平水さんは憑き物が落ちたように優しい顔になったわ。きっとそれが、平水さんの本来の顔。
彼は後継を命名しなおす、と言って、すいちーの名を「すい」と授けたわ。
「ワタシの名は、やっぱりお師匠がつけてたのか……」
「いえ。あいちんは赤ちゃんを、『水』と名付けていたの。『水』という字よ。だいちーが戻ってきたらふたりであらためて考えようと思ってたけど、あいちんはそう呼んでた。『大』と『愛』に語感を合わせて、ふたりが出会えた『水無』からとった、『水』。水のように、周りのみんなに必要とされるように、海に向かう水の流れのように、たおやかに育っていってほしいと、そう願って」
「そうなんだ……」
それを聞いた平水さんは、あいちんのその想いを、あたらしいすいちーのお名前に残してくれた。そのときに、平水さんにお任せしようと、最後の踏ん切りがついたの。
「ちなみに、僕の名前は……?」
「それも平水さんがつけてくれてたのよ。だいちーは名前を言わないでつよぽんを残していったから。由来は……今は弱い赤ん坊だけど、いずれ屁吸の後継として強く育つように、って『強』だったそうよ」
「じゃあ、すいのお師匠は、僕たちふたりの名づけ親になるのか……」
つよぽんを連れて山を下りる最後に、平水さんは言ったわ。
『すいが二十歳になったら、アンタのところにやろう。それまでは屁吸の修行に専心させる』
『……?』
『それまでは訪ねてこようと会わせん。手紙やら電話も一切なしだ。よいな?』
『……はい』
『アンタも、『ダイチ』の名は今後いっさい使わないことだ。もちろん、その子にも話さないほうがいい』
「それは……、どういう意図の……忠告なんだろう……?」
「たぶん、平水さんはすいちーとあいちんを、『ダイチ』とか『裏の社会』とか一切抜きにして、普通の親子としていずれ会わせてくれる、そういうつもりだったんじゃないかな。『ダイチ』が男だってすいちーに話してたこと、『二十歳になったら』と明確に約束してくれたこと。今になると、そんなふうにあいちんには思えるの。つよぽんに『ダイチ』や境遇のことを言うなってのも、あいちんたちに『普通に暮らせ』っていう、平水さんのちょっとヘソの曲がった、精一杯の思いやりだったんじゃないかな……」
平水さんとの約束を守る。だから、すいちーをよろしくお願いしますと頭を下げて、あいちんとつよぽんは山を下りました。
水無に戻ったあいちんは、つよぽんとふたりの生活をスタートさせた。
「だいちーは本当に死んでしまったのか?」、あいちんもいろいろと調べたわ。でも、どんなに調べても、だいちーの消息はつかめなかったし、彼が関わっていた最後のケースの詳細も判らなかった。
なにより、だいちーが無事だったら、あいちんたちをそのまま放っておくとは思えない。答えは、判りきっていたわ。
やっぱり、阿武隈大はもうこの世にいない。
哀しかった。哀しかったけど、泣いている余裕なんてなかった。
お仕事と子育て。目の前の赤ちゃんのお世話に四苦八苦しながらも、少しずつ取り戻す、私の心。
「あいちんはね。つよぽんに救われたの。つよぽんがつかまり立ちしたことに救われた。つよぽんがひらがなを五十音読み上げたことが、すっごく嬉しかった。だいちーはもういないと荒みかけてたあいちんを、幸せに、元気にしていってくれたのが、つよぽんよ。そして、すいちー。あなたも……」
「ワタシも?」
あいちんは、目の前のつよぽんと、遠く離れたすいちーのことをいつも考えてた。
今はどんな女の子になってるのかな?
つよぽんはどんな男の子に育っていってくれるのかな?
すいは修行が辛くて、泣いてたりしないかな?
つよぽんに新しいお友達ができたみたいで、うれしいな。
そうして時が流れて行く。つよぽんとのふたりの生活を刻んでいく。でもあいちんは、そんな生活が幸せすぎて、いつからか、もっと欲張りになっちゃった。
早くすいとも家族になりたい。
欲張りなあいちんが淡く願っていた思いは、予定よりも早く叶ったわ。
「ワタシが……山を下りてきて……」
「うふふ。永盛ちゃんのおかげね……。あらら……。ごめんね、そんなに怯えないでね。オドシをかけたのは悪かったな~と思ってたの。たまにだけど、あったのよ。どこかの組織があいちんを探ってたこと。だから、同じ類かと思って、スゴんじゃった」
ワールドワイドファイターズポストにつよぽんの……「ダイチ」の子って記事が出た時は焦った。
永盛ちゃんの仕業ということは調べて突き止めた。撤回してもらおうかとつけまわしてる矢先に、永盛ちゃんは姿を消してしまったわ。あなたが「逃げ」に全力を出したら、あいちんにも簡単には見つけ出せなかった。
そうこうしているうちに私たちの周りを探るひとの数は増えていってて、あいちんは引っ越しを考えたの。
ある日、勤めてたお店の伝手で県内の別の街にお仕事が見つかった。
引っ越し先の目星がようやくついて、これで普通の生活に戻れる。詩織ちゃんたちとも仲良くしてて、近場の高校への進学を目指してたつよぽんには辛い選択をさせてしまうけど、またふたりで穏やかに暮らすことができる。
あいちんがそんな身勝手なルンルン気分で帰ってると、ウチにすいちーがやってきていた。
すいちーをひとめ見て、あいちんは「もしかしたら?」とは思った。何気ないフリをして名前を訊き出して、すいちーが、すいちーだということもすぐに判った。
でもすいちーはまだ、二十歳を迎えてはいない。格好もひどいもの。お腹も空かせてて、尋常じゃない様子だった……。
「あのときは、お師匠が遺してくれてたお金が尽きかけて、ビンのボウしてまして……」
「うふふ……」
来訪の意図をはかりかねたあいちんは、ひとまずその場を何気なく取り繕ったわ。ホントは、ホントは……すぐにでも抱きしめたかった。けどあいちんは、平水さんとの約束を砦にして、こらえた。
話をしていると、すいちーは自分の身の上や、あいちんの「ダイチ」の顔については本当になんにも知らないことが推察できた。
その日はひとまず何も告げず、あいちんは素知らぬ顔ですいちーを見送った。
その後すぐ「鳴らし山」に行って、平水さんが亡くなったことを知ったわ。残されてたワールドワイドファイターズポストのバックナンバーの中に、つよぽんの記事が書かれた十二月号がないことも。そうして、すいちーは「ダイチ」、もしくは「ダイチの子」のつよぽんを狙いに来たんだと、アタリがついた。
あいちんは決心したわ。
引っ越しなんてやめようって。偶然の巡りあわせでやってきてくれたすいちー――危ない世界に身を投じようとしているすいちーをそれとなく止めて、彼女の新しい居所をこのおウチにしようって。すいちーが笑って何の気なしに入ってきてくれるような、そんな楽しいおウチのまま頑張ろう。彼女が生まれたこの水無の街で、いつか必ず家族になろうって。
「そのときに、ぜんぶ話すつもりはなかったの?」
「……なかったわ」
あいちんはもうひとつ決心してたの。
すいちーがニ十回目の八月八日を迎えるまで、もしくは……つよぽんたちの口から直接的な言葉が出てくるまで、平水さんとの約束を守って自分からは何も話さないことにした。立派にすいちーを育ててくれていた平水さんの、遺志に沿うために。
「なんてカッコよくしたけど、正直に言えば怖かったのね。なんで置いて行ったの、どうしてワタシを捨てたのって、すいちーに責められて、すいちーがいなくなっちゃうんじゃないか。私の前から永遠に消えてしまうんじゃないか。あいちんは……、私は……、それが……とっても……怖かった……」
「あいちん……」
「これが……、あいちんの話のすべてです……」
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