第九十二話 貴様の心髄
目もくらむような光が落ち着くと、なんとか周囲が見て取れるようになった。
「なんだ……コレ?」
一面、色がない。どこもかしこも真っ白。空も真っ白、木も真っ白。燃え盛っていたはずのお社の炎も真っ白で、なんなら赤毛も真っ白。
ただひとり――。
「なに……コレ?」
すいはふわりと着地すると、僕と同じように周りを見渡す。その彼女の姿にだけ色がある。
グレーのレギンス、白だけど影や濃淡がちゃんとある上着、細い腕、しっとりとしてそうな肌、艶やかな黒髪。そして、僕に向けてきた、ちょっとだけ頬に赤みがさした顔――。
「いや、これ、屁吸術じゃないの?」
困惑顔のすいに、僕は逆に訊き返した。僕のオナラを吸ってこうなった以上、屁吸術のなにかしらであるのは間違いないはずだ。
けれど、すいはかぶりを振った。
「知らない、こんなの……。ヨッシーが『吸え』って言ったんだから、ヨッシーの術じゃないの?」
「え? いやぁ、僕もみぽりんの『アドバイス』に従っただけなんだけど……」
みぽりんの「アドバイス」――「僕の気持ちを込めたオナラを、すいが吸うことでやってくる、ふたりだけの最強の時間」。これが……この真っ白な状態が……「ふたりだけの時間」?
僕はおそるおそる、すいに歩み寄っていく。
とりあえずは普通に歩けるっぽいな。けど――。
「赤毛は……。まるで……止まってるみたいだ……」
燃え尽きた灰のように真っ白になった赤毛は、僕が近づいてもなお、まぶしそうに顔の前に手をかざした格好のまま。まったく微動だにしない。目も鼻も口も、表情ひとつ動かさない。まるで静止画像のようだ。
それに、先ほどから静かすぎる。山の中なんだから虫の声や風が流れてもいいはずなのに、それらの気配が一切ない。
いったい、この状況……、なんなんだ?
目をパチパチとして僕と赤毛を交互に見ていたすいが、「あ」と声を上げる。
「もしかしたら、屁吸術かも……」
「あ、やっぱり?」
すいが「うん」とうなずく。
「お師匠は、ワタシが二十歳になったら『ある技』を教える、それが修得できたらワタシの屁吸術は完成する、って言ってた……」
「じゃあ、これが……?」
「そうなのかな? この『ラブラブずっきゅん』が完成の技……」
どうでもいいけど……。
「屁吸の技なら、正式名称があるんじゃない? そんなクソださいネーミングじゃなくて……」
「クソださいッ?!」
すいは僕をビシッと指差して「異議ありッ!」と叫んだ。
なに、なんなの? なにが始まるの……?
「被告人はすでにワタシを好きだと証言しておりますッ!」
すいは片手を掲げ、なにやらオーケーサインの出来損ないみたいな形を作った。
「ワタシは被告人を好きだと証言しておりますッ!」
もう一方の手でも、同じような形。
「ここにラブがふたつッ! それがぶつかってずっきゅん!」
それを顔の前で合わせる……。あ、ハートマークね……。
「これぞ、ラブラブずっきゅん誕生秘話ッ! 裁判長、被告人には死ぬまでラブラブを求刑しますッ!」
「しょうもなッ! ドヤ顔すんな!」
しかし、この状況、どうしたもんか……。
得意顔のすいを差し置いて、僕は赤毛に目を戻した。やっぱり動く気配がない。整った筋肉、シャープな顔立ち、なびいたまま固まった長髪。真っ白で全く生気を感じないその姿は、本当にギリシャ彫刻のようだ。
「まさか、死んでる……?」
すいは「う~ん」とうなって固まっている赤毛の胸元、なにかを聴き取ろうとするように顔を近づけた。
そいつ、裸だから、ちょっとその絵ヅラはやめてほしいな……。
「死んではないね。『すっごい遅くなってる』カンジ? っぽい」
「『すっごい遅くなってる』……?」
「うん。すっごいゆっくりだけど、心臓が動いてるっぽいし、脈もあるっぽい。意識を失ってるのともまた違う……」
「『遅くなってる』か……」
「周囲のあらゆるものが僕たちを除いて非常に遅くなる」が、すいが修得するはずだった「ある技」――「ふたりだけの時間」の効果なのか……?
そこで僕は、「操魂のテレパシー」のことを思い出した。
あの「テレパシー」……、心の中ですいとどんなに話し込もうが、それは「一瞬」の出来事だった。僕たちがどれだけ言葉を交わしても、詩織や、「パフォーマンス」の観客にとっては瞬きほどの時間も経っていなかったのだ。「テレパシー」はきっと、この技の片鱗だったんだ……。
しかし……。
「どうする? コレ、どうしたもんかね?」
すいは赤毛から身を離して、僕へと顔を向けた。
屁吸術……。幻の暗殺術……。オナラを吸うと時間さえも操れるようになるとか、なんでもアリの極致だな……。
「ん~。とりあえず……、せっかく相手が無抵抗なんだから、今のうちにこの赤毛、倒せないものかな?」
「あ、そっか」
すいはふたたび赤毛に向き直ると、「せいっ!」と拳を当てた。すると……。
プッ
そう、オナラです。
真っ白になっている赤毛から発せられた、オナラです。
「あはははッ! すごいッ! 一発で出た!」
「ああ~……。もしかして、例のごとく、誘発仕掛けてたけど、オナラ出てなかったの?」
「うん。ぜんっぜん……、マジでひとコキもする気配なかった。前のセなんちゃらの比じゃなかったね!」
プッ! ププッ! プッ!
「あははッ! めっちゃ出るッ! あはははッ!」
すいは何かのネジがはずれたのか、動かない赤毛に何度もオナラを出させて笑っていた。
無抵抗の成人男性、しかも真っ裸。それを目の前にして、オナラを連発させて爆笑してる女の子……。僕が好きになった女の子は、こんな子です。
------------------------------------------------
「なんだったのかしら、今の光は……」
山頂から発せられ、山全体を覆った光。爆発や炎上したわけでもなく、ただ光って、すぐに収まったことにソフィーさんは不思議がっています。
「ン?」
ソフィーさんはふと変な感触を覚えて、自分の姿を見下ろしました。
「なんで……こんな……、濡れてるのかしら……?」
服をつまみ上げ、首を傾げるソフィーさん。言葉通り、ソフィーさんのブラウスは胸のあたりが湿ったようになっていました。
これもまた不可思議に思っていると、傍にいた姉ちゃんが「誰ッ?!」と声を上げます。それでソフィーさんも、場にいるみんなも、姉ちゃんが向ける視線の先に注意を向けました。
注目を浴び、草藪の陰から現れたのは――小柄な老人。
「いや、遅れてすまなんだ……」
「せ、先生ッ!」
それは、姉ちゃんの「曖気道」の先生、現聞さんでした。
「げ、現聞先生ッ! お久しぶりですッ!」
父さんが先生に向かって、深くお辞儀をします。現聞先生は「ふむ」と言って、父さんに顔を上げるよう促しました。
「笹原くん、息災そうでなにより。しかし、遅参がすぎて申し訳ないね」
「遅参……?」
「ああ、今のはすべてが終わった光。もうカタはついたんじゃろうて……」
姉ちゃんが不思議そうに首を傾げます。
「今の一瞬の光が……すべてが……終わった光?」
「ふたりだけの時間さ」と三穂田さんが口を挟みます。
「ボクの呿入拳、阿武隈さんの屁吸術、笹原さんの曖気道……。源流を同じくするこれらの武術に共通して存在する技――。それが、今の光なんだよ~。何者も立ち入れない、『ふたりだけの時間』を展開する、奥義」
「今の光が、すいちゃんの……屁吸術の……奥義……」
「確か」と現聞先生が引き継ぎます。
「『屁吸肆段・究魂』というんじゃったかな。屁吸の術では……」
「それっていったい……どんな技なんですか?」
「ほれ」と現聞先生は姉ちゃんを……姉ちゃんの胸を見上げます。そこじゃねえだろ。
「詩織くんには前に言ったことがあるじゃろう? 『貴様の心髄を』……」
「……『捉える』?」
うむ、と現聞先生はうなずきます。
「術者が、相思相愛の相手のゲップ――屁吸術で言えば『オナラ』じゃな。それを吸入することで展開できる光の領域。その展開は一瞬じゃが、そのふたりにとっては一瞬ではない。領域内において、ふたりだけが何千倍、何万倍もの速さで動けるのじゃ。まるで、止まっている時の中、ふたりだけが自由を謳歌するように、じゃ」
「それが……『ふたりだけの時間』……」
「伝承によると、ボクたちの武術の源流の開祖は、神職につく、厳格な身分だったらしいね~」
三穂田さんがカウボーイハットを手で抑えながら、山頂を見上げました。
「そのひとは身分違いの恋をした。お互いに好き合っていた彼らだけど、会う場所も時間も、キツく制限された『忍ぶ恋』だった。でも、もっと会いたい、もっと愛し合いたい……、お互いの魂をも欲して、外界の一瞬を悠久に変えて、その中でふたりの逢瀬を重ねたい――そんな焦がれた想いが生み出したこの技が、すべての始まりと伝えられてるんだよ~」
「なんて……素敵な……」
姉ちゃんはおとぎ話のような奥義の由来に、目を潤ませました。
「その技を使うよう『アドバイス』をしたんだけど、まさか山全体を囲むほどになるとはね~」
「そんなにスゴいことだったんですか?」
「うむ。この技は、実戦向きじゃないんじゃ」
現聞先生も山頂を見上げます。
「まずなにより、意中の相手がその場にいることが必要なんじゃ。これがいちばん難儀する。その相手も武術の心得があればよいが、そうでなかった場合、技の発動までに守りきらないといかん。加えて、ふたりの相思相愛の具合や、そのときの心持ち次第で、範囲と効果時間が容易に変わってくるんじゃ。愛し合っとることは最低条件で、発動時にもしも相手が怖気づいてでもいたら、技の効果は充分に発揮できん。とにかく安定しないから、実戦で恃みにするには危うい技、ということになっとる」
「まあ、今回はラブ度はふたりとも丸わかりだし、会えない間に抑圧された気持ちが爆発することを期待して『アドバイス』したんだけどね~」
三穂田さんは含み笑いを零しました。
どうでもいいですけど、おっさんが「ラブ度」とか言わないでほしいです。
「あんなに広い範囲のはワシもなかなかお目にかかったことはない。ワシんときは家一軒分くらいが関の山じゃったし」
「あ、ボクは六畳間ひとつ分が最大でしたよ~」
達人同士の不幸自慢みたいなものが始まった中、ソフィーさんと姉ちゃんはふたり揃って山頂を見上げます。
「妬けるわね。どんだけなのよ、あのふたり……」
「そっか……。強、しっかりとすいちゃんに告白できたんだよ……」
「よかったね」とつぶやいて、姉ちゃんは顔を覆いました。ソフィーさんは泣き声を漏らし始めた姉ちゃんの頭を撫でてあげます。
「さ~。じゃあカップルをお迎えに山頂に向かおうか~。この技、慣れないうちは術後に動けなくなるからね。逢瀬くんたちが片付けられなかったセナートスの残党もいるかもしれないから、注意しながらね~」
そうしてみんなは、呪法の効果のなくなった中、正規の登山道、「上級者コース」を伝って山を登りはじめました――。
ご感想、ご罵倒、ご叱責、お待ちしております!
もちろん大好物は褒めコメです!