遠く異郷の空へ想いを馳せる
かさり、と葉擦れの音を耳にして、男は本から顔を上げる。
「何故、竹を」
ぼそり、と虚空へ投げ掛けるような言葉は、独り言ではない。それは、問いかけだ。
「今日は、七夕なんですよ、センセ」
朗らかに、応じる声がある。同時に、しゃらりと竹の葉が鳴った。青々とした竹の束に隠れて見えないが、その向こうにいるのは少女である。
「質問には、正確に応答したまえ。私は、何故、と問うた」
眉間に寄るしわを、男は努めて消す。感情を解りやすく見せるのは、無様なことだ。それは歳を重ねた中年男のくだらないプライドが由来のものではなく、男の生業が為させる心の動きだった。
「ほえ? 七夕だから、じゃあダメですか?」
竹の葉が、傾きに合わせて鳴る。首を傾げて見せても見えないので、身体ごと斜めにしたらしい。納得をしかけて、男は心の中で驚いた。他者に対する、興味と観察。そんなものとは、もう無縁になっていた筈だ。男は、微かに首を横へ振る。
「君の常識で、物事を語られても困る。タナバタ、というものが何であるか、そしてその竹が何を意味するのか。正しく答えたまえ」
男の言葉に、少女が頬を膨らませる。
「む……センセだって、なぜーたけをー、としか聞いていないじゃあないですか」
「それだけで、意味は通じるだろう」
わざわざ低く声を作って奇妙な抑揚を乗せる少女に、男は息を吐きつつ言った。
「なんか、不公平です」
「君の感じ方はどうでもいい。質問の答えを聞かせたまえ」
少女の不満顔は、上辺だけだ。だから、男は答えを促す。
「……お祭り、みたいなものです。七月七日に、本当は、笹を飾り付けて、願い事を書いた短冊……小さな紙のお札みたいなのを吊るすんです。地球の、多分ニホンの文化ですよ」
「何故、そんなことをするのだろう」
「昔々のことでした……」
「いきなり、何だ」
「ほえ? だってセンセ、知りたいんでしょう? 七夕の由来みたいなの」
問われて、男は僅かに目を見開く。最大級の驚きを、癖が噛み殺したのだ。
「君にしては、物分かりが良すぎる気がする」
男の言葉に、少女が両手を腰に当てて遺憾の意を表す。
「私だって、成長してるんですよ」
「……いや、君は君のままだ。それはそうと、何を聞かせようとしていた? 続きを聞こう」
少女のアピールを受け流し、男は続きを促した。少女が気を取り直すのに、それほどの時間はかからなかった。男は遮らず、少女の口から語られる異文化の祭りの由来に、じっと耳を傾けていた。
「牛を曳く男と、機織りの姫君の道ならぬ恋、か。そうして、二人は償いの為に、人々の願い事を叶えている、と」
「要約すると、大体そんな感じですね。まあ、諸説ありまさけど、概ねは七月七日に笹を飾り付けて楽しむお祭り、と思っていれば間違いないですよ」
「それで、君は竹を飾るのか。なるほど」
「……何が、なるほど、なんですか?」
深くうなずいて見せる男に、少女が胡乱な目を向けてくる。
「……他意はない。異世界の文化に、納得をしたまでのことだ」
「うぅ、何か含みがありますよね?」
「特には。ただ、哀れな牛曳きと機織りに、君が何を願うのか、それは些か気になるところではあるな」
言いつつ、男は少女の抱える竹の枝に結わえられた札を見やる。男にとってそれはまったく無意識の、ほんの気紛れのような行動だった。
「あっ……だめ!」
少女の焦った声は、男の視線を遮ることは出来なかった。そこに書かれている文字を、男は一瞥した。白い紙に、直線と曲線を組み合わせた紋様のようなものが見える。しかしその意味は、男の知るどの知識をもってしても、読み解くことの出来ないものだ。
「……君の世界の、文字だな。何と書いてある?」
「ほえ、そっか。センセ、日本語読めないんだったっけ」
ホッとした様子の少女に、男は鋭い視線を向ける。
「未だ勉強中だ。それに、恐らく君の筆跡が独特すぎるせいもあるだろう。それより、札には何と?」
「教えません。ヒトに言ったら、願い事が叶わないかも知れないじゃあないですか」
少女が首を横へ振り、部屋の窓際へ竹を立て掛ける。
「先程聞いた話には、そんな要素はなかっただろう。それに、空へ向けて飾るのだろう。すれば少なからず、他者の目に触れる筈だ。つまりは、願い事を他人に知られることには、何の問題も無い」
「ゴネても、だめです。私が、知られたくないんですから」
ふい、と少女が横を向く。少し赤くなった頬に、遠い面影が一瞬だけ、重なる。しかし、現れた幻は儚く、瞬く間に消えた。
「……そうか。なら、いい」
ぽつり、と男の口から、乾いた言葉が漏れた。
「……どうしても、気になります?」
ちろり、と少女が男を見返してくる。
「別に……」
「仕方ないですねぇ、センセは。じゃあ今夜、もしも晴れたら教えてあげます」
男の答えが聞こえないような素振りで、少女が肩をすくめて言った。
「それは、教える気がない、ということだな」
「ほえ、どうしてそう思うんです?」
問いかけに、男は窓の外、鉛色の分厚い雲が垂れ込める空を指した。
「どう見ても、今夜は曇天だ。星など、一欠片だって見えはしないだろう」
少女の視線が、空へと動く。そして、再び戻ってきた少女の瞳に、男は心中で息を呑んだ。
「……それなら、賭けをしましょうか」
「賭け?」
射すくめるような、強い光を伴った、それは殺気にも似た気配だ。ただ、害意は感じられない。男に理解が出来るのは、その点だけだ。
「今日、お空が晴れたら、お札に何を書いたのか、センセに教えてあげます。けれども、もし曇ってたり、雨が降ってたなら」
少女がそこで言葉を切り、スッと息を吸い込む。男は少女を見据えたまま、次の言葉を待つ。
「私と、結婚してください」
もたらされた言葉は、男にとって意外に過ぎるものだった。
「……どうして、そうなるのだろう」
「ほえ、私にも、解りません」
「君が、言い出したことだろう」
「べ、別に、意味が解らない、っていうことじゃあなくって、どうして今なのかって、言ってから、自分でも不思議になっただけですから!」
真っ赤になった少女が、手をパタパタさせて言う。
「それも、君が言ったことだろう」
「……ほえ、センセもちょっと、動揺してます?」
「……君が言ったことだ」
「あ、もしかして、照れてるんです? センセ?」
「……今夜、七夕の夜に晴れなかったら、だ。晴れたら、札の内容を教えてもらう」
「それって、オッケー、ってことですか?」
「……前提条件を満たすことが出来れば、だ。だが、私とて、天文学は基礎以上のものを知っているつもりだ」
ぐっと両手を胸の前で握りしめ身を寄せてくる少女に、男は空を指差して見せる。
「ほえ? どんよりしてますね?」
「ああ。そして夕方には、激しい雨がいっとき、降るだろう。その後、空は隅々まで晴れ渡る」
「……センセ、さっきは曇りだって、言ってましたよね?」
「君が、言ったことだ。私はどのみち、晴れた夜空の下で、君に聞くつもりだった。それに……」
「それに?」
「私が学んだ天文学は、私の世界のものだ。あの空が、それと同じかどうかは解らない」
今にも降りだしそうな曇天を見上げ、男は言う。胸の中に、予感はあった。滅多に外れたことの無い、確かなものだ。
「……とにかく、賭けは、受けてくれる、んですよね?」
「……良いだろう」
言質をやるつもりは、なかった筈だ。けれども、男は後悔を感じはしなかった。夜空の模様で、人生を賭ける。それは男の胸に、久しく忘れていた高揚をもたらしていた。
「約束、ですからねっ!」
言って小指を差し出してくる少女に、男は知らず、柔らかな微笑を向けていた。
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