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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

月華蝶/月の大地

私のなかで蕩けるあなた


 昔のことは、よく覚えていない。

 ただ、ちっぽけな私にとって、世界はあまりにも広すぎて、果てしなくて、残酷だったことは記憶している。

 そのなかで私は特定の誰かに愛されていただろうか、はたまた愛していただろうか。

 それは、どうしても思い出せなかった。


 けれど、はっきりとしていることはある。

 私は今、とても幸せだ。

 思い出せないことは多くても、これだけは間違いない。


 思い出せる限りでも、もともと暮らしていた森では、毎日のように誰かが誰かに食い殺されていた。

 美しさがひしめき合う森を手放しに褒め称えられるのは、自然に抗う力や安心して暮らせる社会を手にした人間くらいのもので、その人間たちだって、油断をすれば捕食者にさらわれてしまうことだってあったと記憶している。


 そんな世界において、私たちのようにさほど力を持たない妖精たちは、さらにか弱い花の妖精ともども捕食者たちに怯えながら暮らしていくことしかできなかった。


 今、暮らしている世界は、あんなに恐ろしい世界ではない。

 故郷が懐かしくないのかと問われても、怖かったという記憶以外はあまり思い出せないのだから仕方あるまい。

 その上、ここでの暮らしに不満がないとなればなおさらのこと。

 戻りたいなんて思わない。


 ここは常に暖かく凍えることもなく、冷たい雨や暴風にさらされることもない。

 捕食者どころか煩わしいライバルもいない。

 それに、ひとりぼっちならば寂しかっただろうけれど、この世界には、会いたくなればいつでも会いに来てくれる優しい花もいる。

 寂しくなって、苦しくなって、泣いていると、彼女はどこからともなく駆けつけて、私を優しく抱き締めてくれるのだ。


 彼女が与えてくれる花蜜は、私の日々の糧でもある。

 外の世界では時に花たちの意思を無視する無情な補食であったその行為も、ここに来てからは純粋な愛で出来た交流に他ならなかった。


 美しい花と抱き合い、蜜を通して心も体も繋がりあって、その味と悦楽を全身で浴びるこの喜びは、言葉にできないほどのもの。


 なにも考えなくていい。なにも思い出さなくていい。

 卵のなかにいた頃のように、蛹のなかにいた頃のように、ひたすら優しくて美しい花に包まれながら、夢うつつで過ごせばいい。


 痛みも恐怖も、悲しみもない世界。

 私は今、とても幸せだ。



 その昔、母が私に教えてくれた。


 この世界には愛が溢れている。命は愛そのもので、そのひとつひとつの尊さはこの大地を支えている月の女神の輝きにも等しい。

 新たな命を願う行為はもちろんのこと、その命を捕らえて自分のものにすることもまた、私たちにとっては愛することに等しい。

 だから、もしも魂から惚れる獲物を見つけたならば、他の誰かに盗られる前にお食べなさい。


 あれからずいぶんと経って、私はおとなになった。

 最後に外敵の恐怖を感じたのはいつのことだっただろう。それくらい、私は強さを身に付けていた。

 生きる時間が長くなればなるほど、消費した命の数も増していく。

 今日の日までいったいどれだけの妖精たちが、私の命を支えてくれただろう。

 それでも長い間、私は母の教えてくれた愛を感じることなく過ごしてきたのだ。


 美味しそうな獲物を誘惑して身も心も食べてしまうことはあっても、そこに愛情をもつとは限らない。

 たしかに、獲物の姿が美しければ美しいほど気持ちも高ぶったけれど、その時々の食欲と征服欲が満たされるだけで、愛は感じないこともままあることだった。


 しかし、今はどうだろう。


「泣いているの? 可愛いひと」


 呼び掛ける先は、私の体の一部である。

 美味しそうな獲物をそのまま閉じ込めている捕食袋のなかだ。

 鮮やかな彩りと甘い香りの中で、心地よく眠る獲物は少しずつ消化されていく。

 彼らにとっての死の揺りかごでもある捕食袋を、外から優しくさすりながら、私はいつも語りかけていた。


「大丈夫よ。私がついているから」


 まるで生まれてくる我が子を慈しむかのように。

 

 今、この中でぐっすりと眠っているのは、愚かで可愛い妖精の娘である。

 花の蜜を好んで食べる、か弱い妖精。

 可憐な見た目と無邪気な声が印象的だった彼女は、厳しい自然に怯えてはいたけれど、どうしようもないほど懐こい性格をしていた。


 彼女が欲したのは生きるのに十分なだけの花蜜だったが、私はそれ以上のものを半ば強引に与えてやった。

 やっと羽化したばかりの若い心身には刺激の強すぎるもので、繊細な心の殻を容赦なく破っていって、むき出しにしてやるのはあまりにも容易いことだった。


 恋もまだ知らなかった彼女は、あっという間に私の虜となった。

 少しでも気に入られようと、美味しい蜜を貰いたいと、身も心も喜んで捧げてくれるようになっていた。私もまた、そんな彼女が大好きで、欲しがられるままに蜜を与え、愛でてやったのだ。


 だが、本当の目的は、そんな甘い関係ではなかった。

 彼女は獲物で、私は捕食者だったのだから。


 食べることは愛すること。

 母はそう教えてくれたけれど、それでも私は躊躇いを覚えていた。


 彼女は出会った頃から美味しそうな妖精だった。

 他の誰かに食われてしまうくらいなら、私が食べてしまわなくては。

 そう思っていたのに、肌を重ねる回数が増えれば増えるほど、命をいただくことが惜しく思えてしまったのだ。

 許されるなら、このままいつまでも囲い続けていたい。

 意味のない行為だとしても、彼女を生かして独り占めしていたい。

 たしかに、そう願っていたはずだった。


 けれど、季節の移ろいは、それを許してはくれなかった。


 妖精たちが恋をする季節になり、青虫の匂いが抜けなかった彼女にも変化が訪れ始めた。

 羽化してだいぶ経った彼女の体は、いつの間にか次の世代を残す準備を整えていたのだ。


 私の蜜のお陰もあって素晴らしい状態に仕上がった彼女は、当然ながら異性にも注目されるようになっていた。

 そして、彼女もまた、その誘いに耳を傾けるようになっていた。


 求めあい、地に満ちるのは自然のこと。

 ならば、それを利用して獲物を狩ることもまた、捕食者としての自然のなり行きだろう。

 いつしか私は彼女を利用して狩りをするようになっていた。美しく仕上がった彼女に手を出そうとする妖精たちを、次々に捕らえて食べたのだ。


 お陰で、私は食べ物に困らなかった。

 恋の季節を迎えた妖精の男たちはだれもかれも食べごたえがあって、素晴らしい味がした。

 そこに愛なんてものはなかったけれど、今まで以上に楽しい狩りだった。


 なぜ、楽しかったのだろう。


 あんなに懐いていたのに、私以外に興味を向ける娘の姿に腹が立ったのだろうか。

 はたまた、嫉妬もなにもなく、知性の皮を被っているように見えて、私もまた所詮はケダモノにすぎなかったのだろうか。

 自分でもわからない。

 ただ、いずれにせよ狩りは楽しく、残酷さは日に日に増していき、当然ながら彼女は怯えるようになっていった。


 それでも彼女はか弱かったから、私に逆らったりはしなかった。

 私が生きていくためには犠牲が必要だと知ると、理解しようとしてくれた。

 純粋に愛を交わしたときのように関係を持ち続け、生き餌としての役目を果たし続けてくれた。


 しかしこれも、時間の問題だったのかもしれない。


 ある時、彼女はついに私から逃げようとした。

 それも一度や二度ではない。

 蔓で縛っても、脅しても、痛めつけても、その場その場で反省させようと彼女は脱走をやめなかった。

 その回数が増せば増すほど、私は気づいていったのだ。


 この娘はもう、昔のように私を愛してはくれないのだと。


 ――他の誰かに盗られる前にお食べなさい。


 覚悟が決まれば、あとはあっさりとしたものだった。


 ――そろそろあなたも食べ時ね。


 告げれば、彼女は抵抗した。

 二度と逃げたりしないと誓った。泣きながら何度も謝ってきた。

 これまでにないほど従順に振る舞ったし、なんとかして私の機嫌をとろうと努めたのだ。

 だが、そんな彼女の姿はむしろ、私の気持ちを固めていっただけだった。


 彼女が服従すればするほど、母の言葉がこだました。

 こんなに可愛い生き物を、他の誰かに盗られでもしたら。

 他の誰かの舌を喜ばせるのだとしたら。

 いつでも連れ戻せるわけではない。もしもまた逃げられてしまったとしたら、その時こそ横取りされてしまうことだってあるかもしれない。

 そう思うと、もはや止められなかった。


 捕食は時間をかけて行われた。

 せめてもの恐怖や苦痛を和らげるために、体よりも先に心を蜜で溶かしていった。

 私の意図がわかっていたから、彼女は怯えきっていた。

 けれど、段々と心は蕩けていって、いつしか彼女の口から漏れだすのは悲鳴や命乞いではなくなっていた。


 夢うつつの狭間でとろけてしまった表情を浮かべる彼女を見つめ、私はその身体を優しく蔓で抱いて捕食袋に大切にしまい込んだ。

 その愛しい身体が入り込んでいくのを感じると、全身に衝撃が駆け巡るのを感じた。

 こんな感動は初めてだ。

 これまで何度も蜜を与え、何度も抱きしめてきたはずだが、消化液に浸した瞬間、今まで感じたことのない、信じられないほどの征服感が生まれたのだ。


 ああ、これで、彼女は完全に私のモノとなった。

 その感動はあまりに大きく、大きすぎて、そのせいか、悦楽のみならず苦痛を伴うものだった。


 何故、私は泣いているのだろう。彼女はもう逃げたりしないのに。二度と裏切ったりできないのに。

 このままずっと私の中で、少しずつ蕩けていって、いつか完全に私の一部となるだけなのに。

 それなのに、どうして、私は泣いているのだろう。

 どうして、彼女に触れたくなるのだろう。どうして、もう誰もいない空間へとむなしく手を伸ばしてしまうのだろう。


 どうして。


「心配はいらないわ。すぐに抱きしめてあげるから」


 静かにそう呟きながら、私は瞼をそっと閉じた。

 私たちは別れてしまったわけじゃない。少しずつ彼女が私の身体に溶け込んでいく感覚に震えながら、夢の中で怯える彼女を抱きしめて、昔のように愛してやれる。

 そういつだって、誰の邪魔もされずに、彼女を独占することはできるのだ。


 だから、怯えることはない。

 疑う事もない。


 私は今、とても幸せだ。

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