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 私が彼を見舞ったのは、そういう時だった。


 彼は意外にも、私のことを覚えていてくれた。可哀想な婚約者だと、心の片隅に罪悪感として残っていたのだろうか。

 それとも今自分が置かれている環境が、かつての過ちを思い起こさせたのかもしれない。


 彼は過去のことを謝罪した。

 私は許さないと言った。毎日あなたの今の哀れな状況を見に来て、笑ってやると言った。


 それで気が済むなら、と彼は拒みはしなかった。

 私を追い返す気力すら、今の彼には残っていないようだった。


 宣言した通り、私は彼の見舞いに訪れた。嫌がる彼に無理矢理食事をさせ、彼を苦しませるために、強制的に外へ連れ出し、日の光を浴びさせた。

 本を音読させ、憂鬱な感情へ逃げることを許さなかった。


「もう、たくさんだ。明日からここには来ないでくれ」


 ある日彼はそう言った。

 日課として庭を散歩している時だった。


「もう、十分私を憐れんだだろう? きみの復讐は済んだはずだ」


 私は笑った。声を立てて笑った。

 彼は突然笑い出した私に驚き、やがて訝しげな顔をした。

 私を笑わせるようなことなど、彼はちっとも言ったつもりはなかったからだ。


 それすらも、私にはおかしかった。


「これで復讐が済んだなんて、あなたはずいぶんと苦しい思いをなさったようね」


 実際そうだろう、と彼は私の言葉に不服そうな顔をした。


「私、あなたに婚約を破棄されてから体調を崩したわ。やっと身体が回復してきたかと思ったら、今度は可哀想な人ね、って周りから同情する振りをして笑われたの。心から同情する人にさえ、そっとしておいて欲しいと思ったわ」


 どんな言葉も、すべて自分を苦しめる言葉に聞こえた。


「それが何年も何年も、あなたたちのことが話題になるたびに、私も陰でこっそりと注目を浴びたの。表には決して出なかったけれどね」


 ねえ、あなたはそれでも私の復讐が済んだと言えるの。


 彼は私から顔を背けた。聞きたくないと、知りたくないという顔。


 たしかに原因は自分たちにあったかもしれないが、そこまでの責任をとる必要はない。

 彼はそう思っているのだ。


「あなたは勘違いしているわ」


 私は微笑を浮かべて彼に言った。


「あなたは同情する価値すらない人間よ。私は何もできないあなたを滑稽だと蔑むだけよ」


 彼は呆然と聞いていたが、やがて侮辱されことに腹を立てて手を上げた。


 だが私がぶたれることはなかった。

 その前にさっと距離をとったからだ。動けない彼から逃げることなど造作もないことであった。


「あなたはそこから、車椅子を押して私の所までやってこれる?」


 彼は憤慨したように車椅子を動かした。

 けれども結果は最初から決まっている。彼はどうやっても私に勝つことはできない。己の無力さを痛感するしかない。


「あなたは女である私にさえ、手を伸ばすことができない、弱い人間になってしまったのよ。あの女性が逃げ出すのも無理ないわね」


 彼は辛そうに顔を歪めた。聞きたくないと、今度は私から遠ざかろうとした。


 馬鹿な人。どこにも逃げられやしないのに。


「見物よね。昔はあんなに立派だったあなたが、今はたった一人の女に言い負かされているもの。みんなあなたのこと、同情しながらも影で笑っているわ。私もそのつもりよ。一生あなたを無様だと笑ってやるわ」


 もうやめてくれ、と彼は掠れる声で言った。唇を噛みしめ、何かを堪えるような表情をしている。


 大きく息を吸って、必死に自分を落ち着かせようとする彼に私はゆっくりと近づいていく。そしてそっと彼の頭を自分の方へ引き寄せた。

 彼は離れようともがいたが、私がやや強引に力を込めると、大人しくされるがままになった。


「    」


 呟いた名前は、彼のもの。かつて婚約者であった私が愛しさを込めて呼んだ名前。その名前を何度も、何度も、私は呼んだ。


 私を捨てたあなた。あの女を愛したあなた。私を泣かせたあなた。あの女を抱いたあなた。私を狂わせたあなた。


 私はあなたを決して許しはしない。


「あなたが私を遠ざけようとしても、無駄よ。私は、一生あなたを恨んで、あなたを苦しませるもの」


 彼は私の言葉に身震いし、やがて恐る恐るといった様子で私の背に腕を回した。


 そして決して離すまいとするかのように強く、強く抱きしめた。いいや、しがみつくという表現の方が正しかったかもしれない。

 私は親が子を慰めるように、彼の頭を撫でてやった。


 震える息を吐き出しながら、彼は下手くそに泣き始めた。


 しばらくの間、ずっと私たちは寄り添っていた。




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