詩作のすすめ。
ふだん何気なく見ているものにこそかけがえのないものが隠れている、ということはよくいわれます。そして、実際に日常の片隅へ目を向けてみると、たしかにそうらしいことがわかります。
たとえば、朝、目が覚めたとき、カーテンを開ける。差し込んだ朝日を見て、一日のはじまりを感じる。このときふと立ち止まってみて、自分のなかを覗いてみると、「今日も一日がんばろう!」とか「仕事に出るのが憂鬱だなあ」とか、プラスかマイナスかはともかく、なにかしらの感情を抱いているはずです。
また、支度を終えると家を出て、道端の野草にでも目を向ければ、実はその草たちがすべておなじ緑色をしているのではないように見えてきます。くすんだ緑のなかに、くっきりとした黄緑に近い色もあり、濃い緑もある。この違いにはじめて気づいたとき、わたしたちはそれに対して感動する能力を持っています。
ここでいう感動は、あまり大袈裟な意味を含んでいません。なにかを発見し、それに対して驚くとか悲しむとかする、こころの若干な高低をいいます。「小さな感動」とでもいいましょうか。これを感じるようになるだけで、日々の充実感はまったく変わります。
詩作は、その「小さな感動」を味わうのに役立ちます。
自然をうたう。これはなかなかに面白いものです。風景を、実際的にも精神的にもさまざまな角度で捉えてみることで、それはどのようにも姿を変えます。先ほど野草のことを述べましたが、これも、すべておなじ色という視点から離れて、ちがいを見つけ出すことができるもののひとつです。さらに具体的にいえば、一例として、遠くから見ればすべて一様に緑色でも、近づいてみれば、それぞれにぼんやりと違いが見えます。それは光のあたる角度によるものかもしれませんし、草自体、本当はわたしたちの思い描いている「草らしい緑色」をしてはいないのかもしれません。
その小さな発見を、まとめあげる方法のひとつが詩です。詩というと、美しい音律によって全体が支配された、芸術性の高い文章、と思われることが多いですが、それは表面的な部分の一要素にしかすぎません。詩の本質は、作者の発見、そしてそれから得た心の機微を、作者なりに抽出するところにあります。
さらに、そういった詩の素晴らしいのが、描き出された発見や心の機微から作者のある事柄に対する構え方、スタンスといったものが、明確に提示されるようになることです。
もし、野草の色のちがいについて詩を書こうとしたとき、このちがいをどういったふうに作者は捉えているのか。それを読者は探します。金子みすゞではありませんが、それについて『みんなちがってみんないいね』と書いたとしたら、読者は、『この詩を書いたひとは個性というものを大切にしているのだろうな』とか、『ちがいというものを寛容に見れるのだろうな』とかいうことを感じるかもしれません。
この「ぼんやりとした読み取り」をしたあと、共感できるかできないか、それを読者は考えます。そして、共感できようができまいが、読者のなかでは詩に提示された発見についての自らの考えがかたちづくられていきます。ふつう、読者は詩をさらりと読む場合、こういったことを意識してはいないと思いますが。
これをわたしは、「小さな感動の余波」だと思っています。詩を読むことで、他者の考えに直接触れることができる。それはとても貴重な体験ですし、日常への目の向け方もいくぶんか変わってきます。
詩とは、書く・読む両方の側面からひとを深め、生活の充足感を高める道具のひとつです。そしてなにより、手軽さがある。詩を書き、他者に見せるのは、かなり恥ずかしいことでもありますが、読むことは簡単です。きっと小説よりもとっつきやすいでしょう。で、読んでみて、わからないこととかわだかまりができたり、とても感銘を受けたりしたら、その感情を、今度は自分で詩に注ぎ込んでみてはどうでしょうか。詩には、余波を連続させるほどの力があります。わたしたちの感情の虫が、もし詩を読んでさざめき立ったのであれば、それを広めていくことは意味のある行為でしょう。
そうやって詩の感動が伝わっていけば、面白いだろうと思います。だからわたしは、むかしから詩作をすすめています。
とはいえ、詩なんてなかなか書けるものじゃないですけどね。もう二年は詩を書いてますけど、この行為のより深いところまでは、まったく意味がわかってないですから。それくらい奥深いってことなのですかね……。