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僕が落ち着きを取り戻し始めた頃、京野は紙袋から小さなクーラーバッグを取り出して、ちゃぶ台に置いた。上に向けて放たれたモバイルライトの向こう側でファスナーをゆっくりと開ける姿が、危ない薬を調合する魔術師のようだ。痩せこけた京野の顔に映る不気味な影が、にやりと笑うかのように動いた。
「桜島さん、お味噌様です」
細長い指に摘まれて、小さな風呂敷包みが登場した。京野がするすると風呂敷を解くと、円筒状の白い骨壷みたいなものが現れた。
「どうぞ、お味噌様です」
僕はその壺を手前に引き寄せた。小ささの割にずっしりと重い。しかしその重さよりも、冷やされ続けていた表面の温度が僕の心を奪った。蒸し暑いこの部屋にこの冷気は嬉しすぎる。抱きしめたい。僕は小さな骨壷をそっと抱き寄せた。冷んやりしていて、ああ幸せだ、なんてうっとりしていると、何を勘違いしたのか京野は「おほっ」と溜め息のような声を上げた。
重みのある陶器の蓋を開けると、つーんと酸っぱい匂いが鼻の奥に届き、酒っぽい香りがふんわり漂う。指で味噌をすくってみた。ぬたっと強い粘りを帯びた細かな粒が、指の腹にまとわりついた。これはもろみ味噌というやつだろう。お味噌様と言っても普通の味噌じゃないか、と口に入れてみる。よく冷えてつぶつぶしたものを舌の上で転がし、空気を混ぜるようにペチャペチャと唇を開け閉めした。芳醇な香りが口いっぱいに広がり、その美味さに驚いて両眼を見開いた。すかさずもうひと口。もろみが解けて味噌が体温になじんでくると、香りが立ってくる。そしてなんだこの旨味は!先ほどのひと口目の美味さが土台になり、さらにもう一段重ねられたられたかのように旨味が増すのだ。そしてもうひと口、またもう一段美味くなる。何だこれは!味噌の無限階段だ!
「お味噌様!」
と叫んでいた。その自分の声に驚いて我に返った。京野が不敵な笑みを浮かべながら、ゆっくり深く頷いた。いや、そんな顔されても味噌しか食べないというのは理解できませんよ。しかしこれはビールによく合うはず。もう一本買い足そうか。うーん、焼酎もありだ。お味噌様で食費が浮いたと思えば何とか…。いや待て、この暑い部屋に置いておく訳にはいかない。給料が入ったらすぐ電気代を払う積もりだが、給料日まであと十日以上もある。
「冷蔵…保存…よね」
含みを持たせて恐る恐る尋ねてみる。
「もちろんです。でも冷蔵庫動いてないんですよね」
と言って、保冷剤の入ったクーラーバッグを差し出した。そして「貸しですよ」と言ってポケットに入っていた財布の中から紙幣を取り出し、クーラーバッグの隣に置いた。眼を凝らして見ると、万券が一枚。お味噌様万歳!ハレルヤ!
「給料日が来たら必ずお返しします」
正座に座り直し、深々と頭を下げて万券を受け取った。
「じゃあ近々また来ますね。絶対に冷蔵庫で保存してくださいよ。味噌が腐ると人が死ぬって言いますから」
そう言い残して、京野は満足気に出て行った。光源の無くなった部屋に再び暗闇が訪れ、今日一日の出来事が次々に思い出された。小さな災難から大きな恩恵を受け、不可思議で濃厚な経験を有り難く感じられた。すっかり酔いは醒めていたが、酒を買いに行くのはどうも違うなと思い、余韻に浸りながらとこに着いた。