第一章『勉強合宿』 其の肆
勉強時の風景は昨日と似たようなものであったけれども、やはり昨日よりは鬼気迫ったものであったに違いない。
けれども――
「もう無理!」
俺はこの合宿で初めての難所に差し掛かっていた。
「有紗、助けて!」
「はいはい。どこが分からないの?」
「ここがさ……」
「なるほどねぇ」
「ここはこうして……」
なぜ、有紗はこんなにも賢いのだろう。そんな疑問が俺の頭をよぎった時――無意識のうちに声に出していた。
「なあ、有紗ってなんでそんなに賢いんだ?」
「なんでって言われても……」
「てか、私そんなに賢くないしっ!」
「俺にとってはお前は賢いよ。だって俺より賢いんだから」
「あっ……」
「何か他のやつらとは違う勉強法をしているのか?」
「私は量でカバーしてるかな」
「な、なるほど……結構頑張ってるんだな」
「そりゃあ、テストで悪い点とるの嫌だもん」
「ちなみに勉強しないとどれくらいの点になってしまうんだ?」
「うーん、60点くらいじゃない?」
俺は絶句した。彼女の言葉に、彼女の点数に。
「有紗さん、それは世間一般的に高得点或いはまあまあいい点数と言うんですよ?」
「世間一般とか知らないけど、私にとっては低い点数なの!」
「有紗さん意識高すぎ!」
「ほら、目標は高い方がいいっていうじゃん?」
「あなたは俺にとっては雲の上の存在です……」
「えへへ、そんなこと言われるとうれしいな」
照れながらでも優しく微笑む彼女の表情を見て、俺は有紗に再び惚れ直し、彼女のことが好きなんだと改めて気づいたのであった。
そして、勉強も順調に進んできた矢先に、不意に有紗が口走る。
「お腹すいたから智也くんお昼ご飯作って。材料は冷蔵庫の中にあるから」
「ここあなたの家ですよね⁉」
「うん、そうだよ」
「『うん、そうだよ』じゃなくて!」
「『料理作るの手伝って~』くらいなら分かるけれども!」
「う~ん、やっぱめんどくさいよ」
「自分の家なら自分で作れ!」
「智也くん、お・ね・が・い」
「すぐ作ります!」
しまった、有紗のペースに乗せられている。
――そんなことに気付いたころには俺は既にエプロンをつけて彼女の家のキッチンに足を運んでいたのだった。
俺は嘆息したが、しかし幻滅したわけではない。
たとえ彼女がどんなにひどいことをしようとも、世界中の人々から嫌われようとも、俺は彼女のことを好きでい続けることをここに誓うと、そう思った。
それほど、愛というものは重いのである。
たとえ高校生の恋愛だったとしても、やはりそれも愛であり、愛以外の何物でもないのである。それが愛でないなら、果たして愛なんてものはきっとこの世に存在していないのだろう。
――それほどまでに俺の愛は、彼女への想いはそこはかとなく強く、深く、揺るぎないものであったのだ。
俺はそのような想いを胸に秘めながら、徐に台所へと向かった。
「さて、何が入ってるのかな?」
ガチャ。
――冷凍食品しかないじゃん。
「有紗、どれを『チン』すればいいんだ?」
――わざと「チン」だけ強調してやった。単なる嫌味である。
「じゃあ、ベジタブルとから揚げでお願い」
「園田くんは?」
「何があるか知らないけど、俺も佐山さんと同じでいいよ」
――何があるのかわからないならこっちに見に来いよ、なんて言うのはさすがに酷だろうか。
「了解」
俺の声はひどく冷たく、ある意味蔑む様な声色でもあった。
――冷凍食品のどこがめんどくさいんだよ。
それでも、やはり好きな人と同じテーブルで食事をするなど今までにない経験であった。
というか、好きな人の家で一夜を過ごしたのである。
――間違いが起こってもおかしくなかっただろう。
しかし、緊張はしたものの、やはり楽しい食卓であった。
「ふぉふぉふぉふぇ、ふぉふぉふぁふふふぁひふふぁふぇふふぉ?」
「口の中の物を飲み込んでからしゃべれ!」
「…………………………………………………………」
「ぷはっ」
「ところで、智也くんははいつ帰るの?」
「うーん、園田は?」
「ふぉふふぃふふぁふぃ?」
「飲み込んでからしゃべれって言ったよな?」
「…………………………………………………………」
「ゴホッゴホッ!」
――慌てて食ったら喉詰まって死ぬぞ。
「6時くらい?」
「なるほどな。じゃあ俺もそのくらいにお暇させてもらうか」
「おっけ~」
「じゃ、ファイナルラウンド始めますか」
しかし、ここにきて問題が発生した。
午前中に有紗に教えてもらったにもかかわらず、佐々木先生の授業中に解いた問題が全くもって分からないのである。
午前中に有紗に教えてもらったけれども、しかし、それでも俺には理解できなかった。
やはり、あの先生の問題は常軌を逸している。
というか、それが受験数学なのである。
なんという恐ろしい世界なのだ。
「もうやだよ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
「なんでこれが分からないのか教えてほしいんだけど」
「お前は数学の神にでもなったつもりか!」
「だって簡単じゃん」
「これが格の違いだっていうのか……」
「いや、こういうのは努力量だと思うよ」
「ちなみに有紗さんは1日にどれくらいの勉強をされているのでしょうか?」
「その日の授業の内容を完全に理解するまでかな」
「なるほど、それくらい勉強すればお前みたいになれるのか」
――実行する気もない事を言ってみた。
「そうだね。天才は99%の努力と1%の才能らしいからね」
「それっていくら努力しても才能がなきゃ意味ねーよ的な意味じゃなかったか?」
「そうだったの⁉」
「智也くんは何でも知ってるね」
「お前の方が物知りだとここで断言しよう」
「そんなに?」
「普通に考えて優等生の方が物知りだろ」
「そんなものなのかな?」
「劣等生が優等生より物知りでたまるか!」
「それに、そんなことよりだな――」
「自分のほうが熱く語ってたくせに」
「うるせぇ!」
「それより、ここの問題どうやって解けばいいんだ?」
「ああ、これはここをこうしてこうすればいいんだよ」
「なるほどな。お前は何でも知ってるな」
「ま、まさか同じようなセリフを返されるなんて……」
「まあまあ、過去の事は水に流そうじゃないか」
「むかつく!」
――とまあ、俺と有紗はこんなやり取りをしていたわけである。
一方、園田はというと、一人別室で教科書レベルの問題をひたすら解いていた。
詳しい話は知らないが、後に本人から聞いた話では、生き地獄だったそうだ。
――やっぱり有紗ってSなのだろうか。いや、Sでないはずがない。
何はともあれ無事に合宿を終えた俺たちはそれぞれの岐路へつき、明後日の平常テストに備えた。
――きっと赤点なんて取るはずがないだろうと俺は思ったが――しかし、俺がその結論を俺が知る前に、赤点かどうかなどどうでよくなる事件に遭遇してしまうのである。しかしまあ、その話はまた別の機会にするとしよう。
火曜日――佐々木先生の平常テストの日、俺たちは朝早くから教室で有紗から勉強を教わっていた。
「全く……あいつら朝から真面目に勉強してる俺たちに向かって『新婚』やら『夫婦』だのほざきやがって」
「まあまあ、ないと思うけど、10年後は私たち夫婦になってるかもじゃん?」
――ないと思うとは、つまり、脈なしということか? まあ、今はテストに集中すべきだろう。
「じゃあ、頑張ってね!」
「おう、次はお前の番だぜ。有紗。」
「えっ? あ、うん」
戸惑う有紗もかわいいけれども、しかし、ストーカーまがいの発言はやめてくれ、俺。
放課後、俺は事後報告のために有紗の元へ急いだ。
しかし、俺が彼女の教室に着いたとき、衝撃的な光景を目にしてしまったのである。
そこにいたのはたしかに彼女だったけれども、そこにいた彼女はいつもの彼女ではなく、しかし、彼女は彼女であって、彼女でない彼女など存在し得ないのであって――つまり、彼女はこの短期間で驚くべき成長を遂げたのである。
――有紗が、クラスメイトと普通に話していたのだ。
俺は有紗に気付いてもらえるような大きな声で、
「失礼しますっ!」
と言い、
「有紗、お前クラスメイトと話せてるじゃん! すごい!」
――賞賛した。
「そ、そんなに褒められると照れちゃうな」
「お、君が有紗の家で一夜を明かした不純な子かい?」
――なぜ俺が有紗の家で一夜を明かしたことをこいつが知っているのだ。
「おい、お前はどこまで知っている」
「佐山さんと神山くんが2人で夜を明かして、その後にキスをしたくらいかな? ところで、赤ちゃんできたの?」
「なわけあるかあああああああああああああああああっ!」
「ちょっと、変な妄想を膨らませるのはやめてよ! 私が話したのは智也くんと一緒に泊まったことだけだよ!」
「あはは、ごめんごめん」
「全く……。それはそうと、有紗よく頑張ったな」
「え?ああ、これね」
「最初、お前じゃないと思ったぞ」
「もー、智也くんったら失礼なんだから。私、勇気を出して話しかけてみたの。そしたら意外といい人で、それから今までずっと話してたの」
「なるほど。よく頑張ったな。よし、有紗、今日はエクド奢ってやるよ」
――大型チェーン店のエクドナルド。国内最大のファストフード店である。
「ほんと⁉じゃあ早く行こっ!」
「じゃあみんな、バイバ~イ」
「こいつをよろしくお願いします」
「うん、バイバ~イ」
――彼の青春が動き出し――そして、彼の青春が終わり始める。