第一章『勉強合宿』 其の弐
「おっはよー!」
「「zzz」」
「おーきーろー!」
「……ありしゃかわいい……むにゃむにゃ」
「zzz」
「智也くん、寝ぼけてないでさっさと起きろー!」
「はっ! 有紗……? いや、天使か……?」
「zzz」
「寝ぼけてないでさっさと目覚ませー!」
「あと、園田くん寝過ぎ!」
「あと12時間だけ……」
「日が暮れるわ!」
――ガバッ
園田の布団を剥ぎ取った音だろうか。
まだ俺の意識が完全に覚醒していないので状況を整理しきれない。
しかしそれでも、有紗が園田を虐めているのだというのを理解するのに大して時間は要しなかった。
「朝の勉強始めるよ!」
「ところで今何時だ?」
俺は重い瞼を開きながらそう言った。
「えっと、4時」
「「えっ、4時⁉」」
「確かに佐々木先生は朝型の勉強法がいいとは言ってたけれども、しかし、それは早寝する前提での話だ。夜中の1時まで勉強してたのにこんなに早起きをさせるのは単なる拷問に過ぎない」
「それくらいしないと受験生はやっていけないよ」
「俺はまだ入学したばかりだ!」
「そっか、もう受験生じゃなくなったんだった!」
全く、彼女の天然ぶりにはいつも驚かされるばかりである。日常生活に支障はないのだろうか。
「でも、このままの状況だったら智也くんも園田くんも赤点確定だよ?」
「じゃあ、朝までひと眠り――え?」
――俺たちが赤点だと? そんなはずはない。こんなに頑張っているのに赤点なんてあってたまるか。
確かに、彼女の言葉にも一理あるが――というか、俺がその現実を受け入れられないだけだった。
「それでも、俺は健康を優先すべきだと思う」
「でもっ…私は智也くんのことが心配でっ…」
園田の事は何とも思っていないのだろうか。
思えば、彼女は俺のことは名前で呼んでいるのに園田のことは名字で呼んでいるじゃないか。
――なぜ、俺だけ……
話をこじらせたくないので俺は口には出さないことにしたが、後に真実を知った俺は激しい後悔に苛まれることとなる。
「どうしてそこまで……俺はお前に何も――」
「智也君は何もわかってない!」
「――え?」
「入学式の日、初対面で迷惑をかけてしまった私にあなたは話してくれた! 今まで人に気にかけられたことなんかなかったのに!」
「それだけでうれしかったっ!」
そう言うと彼女は崩れ落ちた。
たぶん、彼女はコミュ障だったから今まで家族以外の人とまともに話したことがなかったんだろう。
俺が彼女と出会ったばかりだったしても、彼女は俺と出会って、生まれて初めて心の底から話せる人と出会ってうれしかったのだ。
しかし、彼女が俺のことをいくら心配していたとしても、いくら俺が赤点確定の残念な成績であったとしても、やはりそれは俺の健康を阻害する理由にはなり得ないのである。
「有紗、俺のことが心配なら俺の健康も心配してくれよ」
「でも補習になったら……だし」
有紗は小言で何かつぶやいたようだが、俺には聞き取れなかった。
「有紗、もう一度言ってくれないか?」
「智也くんが補習になっちゃったら一緒にお出かけとか2人でお泊りデートとかできないじゃん!」
「「デート⁉」」
二度寝していた園田も飛び起きた。
まるで悪夢から目覚めたかのように。
そして俺も絶句した。
有紗も自分の失言に気づいたらしく、慌てて言葉を取り次ぐ。
「ともだちだから!」
「ともやくんはともだちだからああああああああああああああっ!」
真っ赤になりながら全力で否定する有紗であったが、今にも爆発してしまいそうな表情であったが、彼女は続ける。
「だって、わたしすきなひといるもんっ!」
そして、有紗は泣きながら、赤面しながら、そして叫びながら部屋を飛び出した。
言うまでもないが、残された俺たちは非常にショックを受けていた。
いや、非常にショックを受けているのは園田だった。
俺はそんなことだろうという予測をしていたのでさほど驚きはなかった。
というか、俺はそもそも有紗のことが好きじゃ――あれ、なんだこの気持ち……
俺の慰めのおかげで何とか事態は収拾を迎えたが、やはり心の傷は簡単には癒えないものであって、彼のメンタルはもはや再起不能であった。
彼はしばらく一人にした方がいいだろうと判断した俺は、
「さて、二度寝するか…」
と言って再び眠りについた。
俺の意識が覚醒したのはそれから数時間が経った後のことである。
園田は先ほどと変わらず――むしろひどくなっていた。
彼は壁にぶつぶつと何かを唱えていたが、しかし有紗はいつもの有紗に戻っていた。
けれども、やはり先程のあの光景が俺の脳裏に焼き付いていた。
あの言葉が消えてくれない。
――ともやくんはともだちだから!
――わたしすきなひといるもんっ!
先ほどから妙な感情が心の底から湧き出てくるのだ。
なぜこのような感情が湧き出てくるのだろうか。
なにか、ドキドキするような、もやもやするような――そんな感情だった。
例えるならば、まるで恋のような――恋?
分からない。
――いや、簡単なことではないか。
俺は有紗のことが好きなのだ。
火を見るより明らかなことである。
俺は嘘つきだ。
自分さえも欺いてしまう嘘つきだ。
救いようのない嘘つきだ。
しかし、それでも俺は俺のことを嫌いになったりはしない。
それも俺の個性なのだと開き直るのもよいのかもしれないが、それでもやはり自分に素直になるべきだ。
「嘘つきは泥棒の始まり」などと先人達はよく言ったものである。
――俺は自分を騙し、自分の恋心を盗む泥棒なのだ。
そして、俺は泥棒であることには何の億劫もない。
けれども、自分の恋心を奪うのは御免だ。
だが、俺は有紗の心を奪っても構わないと思っているのだ。
自分はなんて下劣で低俗な人間なのかと恥ずかしく思ってしまうが、しかしそう思うのは自然なことなのではないだろうかとも思う。
そこには表現の差異しか存在していないのであろう。
有紗に好きになってもらいたいのなら、俺は有紗の心を奪う。
――それだけの事なのだ。
「……くん……やくん」
誰かの声が聞こえる。
「智也くん!」
――有紗だ。
「ぼーっとしてたしどうしたのかと思ったじゃない!」
――どうやら、俺が考え事をしている間有紗は俺を呼びかけていたらしい。
「ああ、ごめんごめん。考え事してた。」
――お前のことが好きだってことを考えてたなんて言えるわけないじゃん。
「もー、一体何考えてたの?」
「……まさか、私で変なことを…」
「断じてそれはない!」
――有紗のことを考えていたというのは間違っていないが。
「別にそういうこと考えててもいいけどね、恥ずかしいけど」
有紗はもじもじしながら俺にそう告げた。
――恥ずかしいならダメじゃん。
というか、有紗は俺のことが好きなのかもしれない。
――いや、これは調子に乗って告白して園田みたいになるパターンではないのか。そういう思わせぶりな態度を取って男子を落とすのは女子の常套手段ではないのか。やはり女子というのは恐ろしい生き物である。
「智也くん、何言ってるの?」
「べっ、別に何でもないよ!今日の夕食何かなって思っただけ!」
――我ながら動揺しすぎである。
「ふ~ん。それよりもこいつどうしよう?」
――昨日電話したときはあんなに息ぴったりだったのにこいつ呼ばわりかよ。
「こいつと一緒にいた俺の経験上、おそらく有紗が慰めてあげたら一瞬で回復すると思うぞ」
「うわ、めんどくさいパターンのやつじゃん……」
そんな愚痴をこぼしていたが、しかし彼女はやはり渋々といえども彼の元気を取り戻すために彼を慰めたのである。
けれども、彼女の慰め方は高校入学後一週間にも満たない女子高校生のセリフとは思えないものだった。
というか、どこかのバーのホステスのようであった。
「そのだく~ん、私がぱふぱふしてあげるから元気出して~?」
彼女はそっと、妖艶に、彼に囁いた。
――俺は彼女の童顔がそのような言葉を発したのを聞いて、ギャップ萌えしそうになった。というか、俺はきっとその時点で既に彼女に萌えていたのだろう。
「は、はいっ!喜んで!」
「うふふ、よろしい♡」
その時の彼女の言葉一つ一つが妖艶で、園田の心を奪うのには十分すぎるほどだった。
――有紗のやつ、俺があいつにやろうとしていたことをものの5分でやり遂げてしまった。
「……恐ろしい女だ」
俺たちの努力は報われず、園田を正常に戻すことはできなかった。
――有紗の無茶な方法のせいで元気になりすぎて暴走していたのである。
「有紗ちゃん、智也くん、おっはよ~~~~~~~~~~~~~う!」
「…………」
「…………」
「あれあれ?二人とも声が小さいぞ~~~~~~~~~~~~~!」
「ちょっと智也くん!あれどうすればいいのよ⁉」
「そんなこと俺に聞かれても知らん」
俺たちは囁くような声で園田への措置を話し合った。
そして、俺たちが出した結論は、
「園田、御免!」
「ぐはっ!」
――園田の頸動脈に俺の華麗なチョップが見事に炸裂し、彼は失神した。
「これ、どうしよう?」
「困ったな」
「よし、ベッドの上に寝かせておいておこう。そしたら、目覚めたときにはきっと自分は今までベッドの上で寝てたって錯覚するさ」
「あ、それいいね! 超名案じゃん!」
「だろ?」
そして、俺は有紗と二人がかりで体重90キロ後半の園田をベッドまで運んだ。
――作業が終わるころには既に辰の刻を回っていた。
「ん~!はたらいたはたらいたっ!」
「さあ寝よっと」
「講師が寝た⁉」
この時、俺はとても、極めて、恐ろしく、身の毛もよだつほどつまらないことを言ってしまっただが、一人称の小説なら事実を隠蔽することも可能なのだろうと思ったが、しかし真実を伝えなければならないと思った俺は苦渋の決断でそのセリフを復唱したのであった。
こんなに長い前置きをしておきながら、まだやるのかといわれそうだが、しかし、このセリフは非常につまらないであろう。実は面白いことを言ったのにそれを隠したのではなく、実際につまらなかったのだ。簡潔に言えば、白けたのである。俺は実際こう言った。
「講師が寝たとかもはやネタでしかねぇ!」
――ただのおやじギャグである。
しかし、俺のおやじギャグがよほど寒かったのか、彼女は夢見心地になる前に意識が完全に覚醒してしまった。
「さぶいわ!」
――よし、勝った。というか、そもそも勝負なんてしていない。
「まあまあ、講師が寝てしまったら元も子もないし、園田が起きてくるまで軽く勉強しておこう」
「えっ、あいつが起きてくるまで朝ごはんなし?」
「くそっ……あのときに殺っていれば……」
「そんなことしたら刑務所行きですよ⁉」
こんなセリフが童顔のJKの口から聞こえてくるのだから驚きである。
――俺の場合、もはや慣れてしまったが。というか、こんなものに慣れてしまってもいいのだろうか。
昨日問題演習を繰り返していた俺たちは昨日より発展的な問題に着手していた。
昨日と同様、問題を一通り解いてみて不明な点があれば佐山有紗大先生に質問するという流れである。
――というか、昨日は勉強法について話していないはずである。
そんなこんなで問題を解いていくうちに俺は二次関数への理解を着実に深めていった。
そして小一時間が経過した後、園田が目を覚ました。
「おはよう」
「「おはよう」」
「俺、なんか変な夢を見ていた気がするんだけど」
「そ、そうなんだ……それは大変だったね」
「俺も近頃変な夢ばっか見るんだよな」
「お互い、頑張って乗り切ろうぜ」
――勿論、嘘である。
「しっかしみんな早起きだな。一体何時に起きたんだ?」
「お前が遅いだけだよ」
「俺は有紗に7時半過ぎに起こしてもらったぞ。有紗は知らないけど」
――正しくは4時に起こされたのだが、記憶を戻されると面倒なのであえて伏せておいた。
「私は4時だよ~ふわぁ……」
――俺がさっき隠した意味は何だったんでしょうか⁉あくびしている顔もかわいいけれど!
「有紗さん早起きマジぱねぇ……」
どうやら気付いていないようだったのでよかったが、しかし俺の肌は冷や汗をかいていた。
――有紗さん焦らせないでくれよな