第一章『勉強合宿』 其の壱
入学式から一週間が経ち、俺は順調に学校生活を送って――いるはずもなく、毎日課題に追われる日々を送っていた。
そして、今日は有紗に勉強を教わっているのである。
「何でこんなこともわからないの?」
「昔から数学は苦手でな」
「智也くんって、もしかしてバカ?」
「こいつひどい!」
「テヘペロ♡許してにゃん♡」
「可愛いから許す!」
その時の有紗は天使――いや、女神のように美しかった。
あれ、俺、この光景どこかで――
「智也くんっ!」
「え?」
「め、め、め、女神なんて! 私がっ! 天使でも畏れ多いのにっ!」
「えっ、有紗がなんでそれを?」
「まさかお前心が――」
「そ、そんな訳ないじゃん! 自分で言ったんじゃん!」
「も~~~~~~~~っ! 何言ってるの! 勉強するんじゃなかったの⁉」
――かわいすぎる。もはやこの世のものとは思えなかった。もしかしたら、俺は妹にでも殺されたのかもしれない。
「またそんなこと言って!真面目に勉強しなよ!」
「ごめんなさい」
――どうやら俺は生きているようであった。
更に、俺には心の声を無意識のうちに声に出してしまいがちな特性があるようである。
「とにかく勉強するよっ! もうテストまであと3日しかないんだからね!」
「分かってるって」
「さぁ、気を取り直して勉強を始めますか! 俺の快進撃はここからだ!」
――などと言ってみたものの、俺にそんな自信など微塵もあるはずがなかった。
そもそも、なぜこんなことになっているのかの説明が必要だろう。
話は3日前の数学の授業のことである。
俺は気持ちを新たにして真面目に授業に取り組んでいた
「与式を標準変形して……よって……」
「この形式の問題はよく入試で問われるので定期テストでかなりのウェイトで出す。しっかり勉強しておくように」
――何を言っているのか訳が分からなかった。
しかし、それでもやはり数学を避けて通ることなど到底できないのであって、数学を克服するより他に俺が進級する方法は存在し得ないのである。
紹介が遅れたが、彼は俺の担当の数学教師、佐々木進一先生である。
佐々木先生は校内随一の数学教師で、数学に関しては彼ほどの数学好きはいないだろう。
彼は数学への愛ゆえに数学の授業中はとにかく熱かった。
それゆえ、彼の評価は両極端である。
数学が好きな人間には高評価であり、もはや一種の宗教のようなものと化している。
しかし、やはり数学の苦手な人間にとっては彼の話は到底受け入れ難いものであって、数学に対する嫌悪感が増すばかりである。
そうは言ってみたものの、彼は数学を好きになってもらうために熱い授業をしているのではなく、受験数学を俺たちに叩き込むために熱い授業をしているのだ
――当然、数学を好きになってもらいたい気持ちもあるだろうが。
あれこれ佐々木先生の紹介をしている間に彼の口から恐ろしい言葉が発せられた。
「では、来週の火曜日に二次関数の最大値、最小値の範囲で平常テストを行う。各自自主学習を進めておくように」
――来週の火曜日に二次関数の最大値、最小値の範囲で平常テストを行いたいと思う。
その言葉は俺の脳内で何度も繰り返し再生された。
その瞬間から俺の心を照らしていた光が消えた。
――絶望と喪失、回避不能の試練、それは即ち、ある種の終わりを意味していた。万事休すと言うべきだろう。
そして、有紗に勉強を教えてもらおうと思った俺は放課後に有紗の教室を訪れた。
彼女は無言で机に伏し、黙々と作業を進めていた
――宿題でもしているのだろうか。
「失礼します。佐山有紗さんいますか?」
「あっ、智也くん!」
「おう、有紗。半日ぶりだな」
「うん。どうしたの?」
「ちょっと勉強教えてほしくて、ね」
「うん、いいよ」
「サンキュ! ところで、それは宿題か?」
「違うよ、佐々木先生の平常テストの勉強だよ」
「なるほど、それなら丁度いい。実は俺の教えてほしい勉強も佐々木先生の平常テストのことなんだ」
「あっ、それならちょうどいいね!」
「じゃあ、土曜日に私の家集合でいい?」
「今からじゃないの⁉そして入学して一週間も経ってないのにいきなり女子の家に訪問⁉」
「なに? 智也くんってば私の部屋に一人で行くのびびってるの? 別に付き合ってるわけじゃないんだから気にする必要ないよ」
「まあ、有紗がいいって言うなら行くけどさ」
「じゃ、9時くらい集合でいい?」
「早くないっすか⁉」
「それなら智也くんが決めてよ」
「じゃあ、13時くらいでいいか?」
「智也様がそういうのならどんな事があっても従います」
「俺たちただの同級生だよね⁉」
「あはっ、ちょっとからかってみただけだよ。許してにゃん♡」
「可愛いから許す!」
「そんなことないってば〜」
有紗は照れながら俺を叩く。
――めちゃくちゃ痛い。俺にM気質なんてないぞ。
「ちょっとタンマ!痛い!」
「あっ、ごめんごめん」
「じゃ、土曜日にまた!」
「ばいば〜い♡」
――今語尾に♡が付いてた気がするのだが、俺はめんどくさかったので敢えて触れないでおいた。
そして今に至る。
現在、土曜日の15時過ぎである。
勉強を再開しようと決め台詞を言い終えて本格的に勉強を再開しようと思った途端に携帯に一本の電話がかかってきた。
――園田からだった。
「もしもし?」
「しもしも〜園田だよ〜ん」
「で、何の用だ?」
――しもしもに関しては触れない方がいいだろう。
「佐々木のテストが火曜日にあるじゃん? 俺分からないじゃん?補習かかるじゃん? 夏休みがなくなるじゃん!」
「だから智也くん教えて?」
「あのな……」
「俺も今有紗に教えてもらってるんだよ」
「有紗? あっ! 佐山さんか!」
「そそ、佐山有紗だ」
「俺も一緒に混じっていい?」
「いいけど、ちょっと有紗に代わるな」
「おう! ばっちこい!」
「しもしも〜? 有紗だよ〜?」
「しもしもって最近の流行語なの⁉」
「後ろでなんか聞こえるけどほっとこ!」
「ほっとかないでくれ! 頼むから!」
「で、園田くん何の用?」
「単刀直入に言うと、某に佐々木の平常テスト対策をしていただきたく存じ上げます候」
「俺古典苦手だから正しいのか正しくないのか分かんねぇよ!」
「いいでござるよ」
――この二人相性いいんじゃねぇ? というか、俺の華麗なるツッコミをあたかも何もなかったかのように無視するのはやめて頂けませんかね!
「じゃあ、今から家に来てよ」
「喋り方現代語に戻った!」
「おう! 3秒で行く!」
「3秒ってそんな無茶な」
――ピンポーン。
「さーやーまーさーん! きーたーよー!」
「マジで来やがった!」
「はいは〜い、今行くね〜」
「それじゃあ園田も来たことだし、勉強再開しますか!」
「「いぇーい!」」
園田と有紗が声を合わせて答えるが、しかし確かにこの集まりの発案者は俺だけれども、あくまでも教えてもらう立場であるというのを忘れないでほしい。
ゆえに、この場の司会進行役は有紗であるべきなのである。
――司会進行役ってクイズ番組かよ。
「じゃあ有紗、始めてくれ」
「ほーい」
園田が加わり、再開した勉強会は園田が来る以前と全く変わることなく進められた。
時だけが徒に過ぎ、だが、着実に、少しずつ、だんだんと俺たちは理解を深めていった――はずだった。
酉の刻を過ぎ、そろそろ帰宅すると告げようとしたその時である。
「あまり進歩が見られないようだから今日は泊まりでやろーう!」
――今日は泊まりでやろーう!
色々とぶっ飛びすぎていて理解するのに暫く時間を要した。
長時間勉強したことない俺に寝るまでずっと勉強しろだとは全くもって理不尽な話である。
というか、そもそも女子の部屋で男子二人、女子一人で勉強合宿とは一体何なのだ――何なのかと問われれば勉強合宿と答える他ないのだが。
しかしそれでも、否、それゆえに女子の部屋で泊まるということは俺にとってひどく重圧になり得るということである。
更に、それは同時に園田とともに寝泊まりするという意味も兼ね備えていた。
――男子二人で女子の家に寝泊まりするなんて、なんというシチュエーションだろう。というか、万一、二人のうち一人が有紗と結ばれたらどうしようというのだ。気まずすぎるだろう。
そもそも親の許可は取ってあるのだろうか。
たくさんの疑問点が挙がってきたが、親の件に関しては、定番中の定番、「親が旅行で家を空けてるの」パターンに違いない。
「なあ、有紗。親の許可は取ったのか?」
「さっき確認してみたら全然問題ないってさ」
――新学期早々俺のフラグを二回も折りやがった!
「か、軽い親だな…」
「男子とお泊まり会をしたらどっちかと結ばれるとでも思ったんじゃない?」
――さっき俺が考えていたことと同じじゃん!
「そんなものなのか?」
しかし、それでもやはり彼女の両親は軽すぎる。いくら会ったばかりだとはいえ、間違いが起こらないとも限らないだろうに、全く呑気な親である。
まして、彼女の親の言うことが実現する可能性も大いにあり得るのでなおさらである。
入学式のあの出来事は、おそらく俺と有紗が結ばれるというフラグであろう。
しかし、仮にそうだとしても、俺は既に2回もフラグを折られているのだ。園田と結ばれる可能性も大いにあり得るだろう。
「どこもそんなもんでしょ〜」
――おそらくお前の家だけだと思うぞ。
二日間、正確には一日ちょいの日程を話し合った俺たちは有紗の母の手料理を御馳走になり、夜の勉強を始めた。
しかし、それでも成果が上げられなかった俺は途方に暮れていた。
――園田も同じ状況だと信じたいものである。
さて、もう夜も更けて始めてそろそろ風呂の順番を決めなければならない頃合いだと思い、みんなに提案しようとしたが有紗に先を越されてしまった。
「もうこんな時間だね。そろそろお風呂にしよっか。」
「……一緒に入る?」
「なんでだ!」
「ていうか、そこの園田!お前今何想像してた!」
「むふふ……」
「こいつ絶対やばいやつだ!」
「それと有紗!お前も女子としての自覚を持て!」
「えっ、普通じゃないの?」
「えっ、それが普通だと思ってたの?」
「クラスの友達に聞いてみろよ」
「私、友達いないもん」
「クラスで友達作ろうよ!」
「だって、私コミュ障だから……」
「あっ……」
――確かに有紗は俺と出会った当初はあまり話さない大人しい少女だった。
だが、俺は知っている。彼女は人と打ち明けるのにあまり時間を要さないことを。
「じゃあ、こうしよう」
「俺と園田はこの合宿で佐々木先生の平常テストの範囲を完璧にする」
「うん」
「で、そのお礼として俺は有紗がコミュ障を直す手伝いをする」
「ありがとう!」
確かにコミュ障を治す方法などそう簡単に見つからないかもしれないけれども、俺はできる限りのことをしてあげよう。