兄妹の会話
微笑ましくとも彼は一流の仕事人だったようだ。
大鷺が顔をなんとなくにやつかせながら、眺めている契約書はおそらく、この男にとっては何ら問題のない条件でしかないものばかりなのだろう。
だいいち。
「楽しそう」
「楽しそう?」
彼女の感想に、大鷺が目を瞬かせてふうわりと笑った。
「当たり前。だってこれから、僕の砦ができるんだよ?」
「砦……」
「そうそう。ちょっとそろそろ、ホテルの自由にならない感じが嫌だったんだよねー。好き勝手に海外に行きたいなあと思っててさ」
「マンションの朝ごはん係なんて、好き勝手出来ない物の筆頭じゃないの」
「いいや、諸外国に行くときはちゃんと申請すれば、代わりの人が来てくれるって事であいつに話通してあるもの」
また契約書を見つめてくすりと顔を、緩める大鷺。
この、夢の中の一番を叶え続け、そしてその夢を永遠にするための努力を惜しまない男は、その努力と才能に素直に敬意を表したくなる瞬間がある。
「これで南アフリカにも行けるよ!」
「やめてくれそんないきなり、私いきなり実の兄が死亡とか報道されるの、絶対に嫌だから」
「この先平和な国なんてどこにも存在しないって」
テロはどこだって起きる可能性があるし、戦争がどこに飛び火するかもわからないよ、とけらけら哂うこの男。
一瞬ばかり、自殺志願者の気質を見出しそうになりながらも、絃は続けた。
「大鷺は、恐ろしい事に魅入られやすい気質があるから、不安なの」
「……ああ。高校時代は疫病神にとりつかれているって、もっぱら評判だったもんね、僕。おかげで高校時代に彼女は出来なかったんだなあ」
「大学時代に散々、恋愛したんでしょ」
「したした。もう五十人くらいは付き合ったよ」
「それでよくまあ、女の人に刺されなかったものだ」
「いや、女の子たちっていつも、こっちに激しく失望して逃げてったんだよな、あれなんでだろ」
絃はその理由を、大鷺の胸に常に下げられているものに見ていた。
「そりゃ、愛が重すぎるんだろうに。……いったい何年? 真由美さん死んでから、真由美さんの遺髪を入れた指輪をペンダント代わりにして」
「……真由美ちゃんはねえ、一生忘れないから、一生下げるよ」
「それじゃあ、兄貴はこれからこの先、どんだけ恋愛しても振られるわな」
「……みんなちゃんと好きなんだけどね。この名字が、死んだ奥さんのモノだって言うのを話してから距離は置かれるんだよねえ」
おくわな。
絃は内心で突っ込みながら、グラスを傾けた。
マンションへの引っ越しが終わり、荷ほどきも終わり、若干色々な物が散らばった状態での夕飯である。
大鷺は疲れていても、料理をすると疲れが吹き飛ぶと公言してはばからない変人なので、今日の夕飯は大鷺の手による。
それでも、大鷺も手を抜いたな、と思うものではあったが。
茹で時間を守ればおいしいものが並べば、絃でなくともそう思うだろう。温野菜のサラダ、茹でた豚肉、スパゲティ。
こいつ間違いなく、新しいコンロの具合を知りたかったな……と感じ取っても、素晴らしい茹で加減のそれらを前にすると、文句が出るわけもなかった。
「だから捨てられるんだよね」
ぼろぼろと泣き出した大鷺は、通常運転である。
大鷺は笊を通り越した枠であるが、とある一点、奥さん関係の話をそこで持ち出すと泣き上戸に変貌するのだ。
笑い上戸に変貌する妹とは正反対である。
「さて、絃ちゃんは明日は普通に出勤だったっよね」
「いや、明日はいよいよ記念パーティの本番」
「ああ、ホテルにケータリングが回ってきたっけね」
しれっといった大鷺は、大口を開けて実に優雅に、山のような野菜を口に運んだ。
無論その前には、すっぱりと一度で噛み切れる、快感のような歯切れの良さのゆで豚を多量に飲み込んでいる。
「あれどうすんのかなー」
「他人事のように」
「あれは僕の管轄じゃなかったし、もともとケータリングは別部門の人たちのお仕事」
「ホテルの沽券とかは」
「さあね。いちおう僕は、ホテルのレストランのコック長さん、程度の肩書だったわけだから」
肩書だけみれば、代わりなんていくらでもいるんだよねと恐ろしい事をのたまう男であった。
「さあて、明後日からここの一回のお部屋で、朝ごはんを出すのかやりたい料理がたくさんあって困るねえ」
「明日は一日、一週間のメニューを考えるんだったっけ」
「そうそう」
頬杖を行儀悪く突いて、幸せそうに妹を眺める兄。
「とりあえず一週目はオーソドックスが基本かな、まずは普通の料理で大鷺の味を知ってもらいたいしね」
唇が緩んで緩んで仕方がない、まるで一生手放せない玩具を手に入れた子供のような笑顔を見せる大鷺だった。
「でも、絃ちゃん」
「なに」
「お弁当作って!」
「は?」
「大鷺も自分の作らないご飯を食べたいの!」
自分の味だけ何て味覚音痴になっちゃう、と不思議な事を言いだした兄貴が言いたい事が、絃には何となく察せられた。
大鷺は家族の味がいいのだ。
家族の味。手を抜いた部分があるけれども、食べれない事はない食べ物。時折なんか妙な物が配合されていたりする実家の味。
食べたくて食べたくてたまらなくなる、そんな物。
それが欲しいなんて、可愛げのある言い分であった。
そのため絃は、頷いた。
「明日は、私のスープジャーに昼の汁物を入れておくよ。あとご飯を置いておくから」
「え、じゃあ、じゃあ、あれに入れておいて!」
大鷺はいきなり立ち上がると、絃が全く手を出さなかった段ボールをあさった。
実家から送られてきた謎の段ボールだ。
そしてそこに入っていたのは。
「……おひつ……?」
「ばあちゃんのおひつ! 使いたかったんだよねえ! 真由美ちゃんの所だと大きすぎて邪魔だから、ばあちゃんに欲しいって言えなかったけどここ広いから!」
そうだ、と絃は思い出す。
大鷺はばあちゃんっ子だったのだ。
そして常にお兄ちゃんの後ろをくっついて歩いていた絃も、ばあちゃんは大好きである。
しかし大鷺には、ばあちゃんとの思い出に、並々ならぬものがいくつもあるのだろう。
語られる物の幾つもが、きらきらと見事に煌いて語られるのだから。
「それにさ、大きくなったら使っていいよって言われてた汁椀とかお茶椀とか、丼とか色々送ってもらったんだ」
こいつだめだ、と絃は再び大鷺の子供の無邪気さと駄目な部分を見た気がした。
こいつは子供のあこがれがいまだに残り続ける奴なのだろう。
……そのせいか、子供に異常になつかれて、大きな子供状態で遊びまわり、真っ黒けになって夕方に帰って来ていたのは。
高校時代の大鷺の素行を思い出し、絃は言う。
「手入れの仕方はわからないから、大鷺がやるんだからね」
「わかってるもん」
年季の入った塗りのおひつにほおずりをしてから、大鷺は食事に戻った。
「そだ、絃ちゃん絃ちゃん」
「なに」
「お友達も、連れてきていいからね」
「……は?」
「え、いないの? よく一緒にお夕飯を食べているらしいお友達」
「なんで知ってるの」
「僕が使ってない食器が二人分水きりだなに置かれてたら、察するけど」
男の人だよね、あの大きさ、とあっけらかんとした調子で言う大鷺に、絃は頷く。
「私なんかにはもったいないくらいの、素敵な友達がいるよ、一人」
「それだけ素敵な友達なら、大事にしないとね、一生縁が続くよ、そういう人。離れても時々思い出して、どうしてるって連絡したくなる人はすごくすごく、素敵な友達なんだ」
覚えがあるのだろう大鷺の笑顔だった。