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才能は運を引き寄せる場合がある


「ちょっと待ってこれはさすがに私の、収入で支払える額の家賃の物件じゃない」

絃は引きつった声で、意気揚々とその建物に向かって歩いていく男に言った。

「大鷺、大鷺、おい兄貴!」

彼女がめったに呼ばない名称を呼べば、すぐさま男はそれに反応する。

「やっぱり絃ちゃんに兄貴って呼んでもらえるの良いよね、次からそっちを定着させない?」

「そうじゃないって、兄貴、ここなに、私の収入で支払える家賃の建物じゃないよね、何したいの、ルームシェアでもなんとかぎりぎりの世界みたいなんだけれど」

「いや、新しい家を探してるって友達に相談したら、ここにしてほしいってお願いされちゃったわけなんだな」

「お願いされちゃったってなにしたのさ!?」

彼女の悲鳴ももっともな物だった。

何しろその建物は、明らかに彼女の住んでいた前の物件とはケタ違いに立派なのだ。

エントランスから何から、色々しのぎすぎていて理解が追い付かない。

なにこれ、の次元である。

そしてとうとう、エントランス部分に受付嬢がいる当たりで、絃は大鷺の肩を掴んだ。

「大鷺」

「なあに? 兄貴って呼んでよ」

「いったい今度は何をしでかしてこんな事になったの?」

彼女の、いかにも兄が何かとんでもない事をして、こう言う場所に呼び出されたという認識に、兄は笑った。

「いつもながら信用がないよね、絃ちゃん」

「料理の腕と女性関係で問題起こすこと以外で信用したためしがない」

容赦のない一言に、ひどいとけらけら笑った兄は、笑顔でこう言った。

「そのいかにも料理のあれこれそれで、こうしてここにきて住んでほしいって言われているのさ!」

兄がそう言い切ったところで、誰かがエントランスホールの立派なカウチに座って待っていたらしい。

立ち上がり、近付いてくる。

「やあ大鷺先輩、来てくれると思ってましたよ、来るといったからには、必ず来てくれると信じていました!」

にこにこと笑顔の彼が、名刺を差し出してくる。

「大鷺先輩の彼女さんでしょう、私はこう言う物です、いやはやお綺麗だ!」

「僕の妹綺麗でしょ、美人でしょ!」

「……妹! なるほど、共通点の多い顔だと思っていれば! これは失礼いたしました!」

彼はさりげない謝罪を、嫌味なく言い切り、絃も名刺を交換した。

相手は間違いなくアパートやマンションを複数経営している、やり手の人間である。

肩書がそうである。

更にいろいろな資格を持っていそうな肩書がずらずらと、並んでいた。

これは相手を圧倒する名刺だろう、と絃は判断した後に、大鷺が笑顔を全開にしているのを見た。

この男が同性相手に信頼をしているのだから、まあ、間違いなく信頼しても問題のない人格なのだろう、と思った部分はある。

だがそれに甘んじてはいけないし、自分はここに住むとは欠片も言っていないのだ。

大鷺に巻き込まれ過ぎてはいけないのである。

「さて、先輩、書類などに目を通してくれましたか?」

「通したよ? 通さないで君に、来るなんて言うわけないじゃない」

軽いやり取り、それは大鷺の方が上位なのだと、漠然と察することができる言葉の応酬だった。

たくさんの肩書を持つ男性が、大鷺を求めてここに来てほしいと頼んだのだと、大鷺の言葉以外からも察することができる。

「別にこっちで仕事しても、僕としては何ら問題がないんだよね、そろそろあっちの店ブラックに近かったし」

からりと笑った大鷺が言う。

「まずは部屋を見せてもらおうかな。そこから。それと厨房とかいろいろ、ね」




高層マンション何て物は初めて体験した。

エレベーターがどんどんと高層階に行くごとに、男が景観がどうのと楽し気に喋っている。

それを右から左に聞き流す大鷺が、告げる。

「見るのは上の方だけど、実際に住むのは下の方がいいな。行きかえりが面倒でしょ」

どこか空きがないのなら、諦めるけれど。

「大鷺、我儘が過ぎる」

絃が止めようとしても、男性も笑顔のままだ。

「いや、妹さん、私が彼にどうしても来て欲しくて来て欲しくて、散々お願いして縋り付いて拝み倒して、だから多少の我儘くらいは簡単なんだよ」

「そーそ。僕の方が立場ちょっと上なのさ」

笑顔が二つである。

そして到着した廊下もまた立派なじゅうたんが敷かれており、絃は遠い目になりそうだ。

世界が違う物がそこにあるわけだ。

更にカードキーを通してパスワードを入れてから鍵をひねるというあたりの、セキュリティの方の手厚さも、絃の知らない物である。

「ここは何なんですか……高級ホテル?」

「高級マンション」

「最近できたから、色々ハイテクなだけですよ、ほら、どうです先輩」

言った男性が見せた部屋は、驚くほどきれいだし新しいし、便利な物だった。

「ベッドルームが二つ、離れてるのがいいね」

ぐるりと見まわして言う大鷺。

「それからキッチンがガスコンロなのがいい、僕あいえいち嫌いだからさあ」

「実際に火が出ている方が、感覚がつかみやすいんですよね先輩は」

「覚えてたんだねそうそう」

絃からすれば、住むのならば夢のまた夢の世界の部屋の一覧が終わり、大鷺が言う。

「絃ちゃん、住む?」

「いや、すごくいい物件だとは思いますけど……」

「よし、ここにしよっか」

「簡単に決めたらいけないでしょう!?」

大鷺の即決に、絃が叫びかければ、隣で男性はガッツポーズをとった。

「これでうちの奥さんに怒られないで済む……!」

「奥さんに怒られる問題ですか!?」

彼等の話についていけない絃に、大鷺がここで喋り始めた。

「いやあ、ここね、ちゃんと朝ご飯とりましょう運動しててさ」

「はあ」

「でも、朝忙しいひといっぱいいるでしょう? 作れないとか、材料がないとか」

「まあ……」

「そこでここのオーナーである彼、八木は考えた。なら朝から作ってくれる人員を確保すればいいだろうって」

「……それで大鷺を? いきなり?」

「家賃から朝ごはん代も引くわけだから、美味しい物じゃないとクレーム騒ぎになるでしょ? それにこの運動、あちこちのいいところのマンションで連動してやるらしいんだけど」

新商品のキャンペーンとかみたいに、と大鷺は続けて語る。

「あちこちのオーナーが、自分の知り合いとかで腕を振るいたい奴を大募集しててね、僕がそれに引っかかったわけだ。そして僕は根無し草一歩手前だから、いっそここに定住させてしまえと八木が考えたわけだ。そして絃ちゃんも巻き込んだって流れ」

「つまり大鷺は、ここで朝ご飯を作って働いて、暮らすっていうので正解?」

「まあね! 八木がやっていいっていうから、ここの一階の空いているブースで簡単なご飯屋もやろうと思ってるんだ。お弁当屋さんみたいな感じかな」

「ホテルどうする」

「あ、辞める流れであっちでは通してあるから」

「騒ぎは」

「もう騒ぎは起こした後! 大丈夫、引き留められまくったけど僕の後に色々な腕のいいのが育ったから」

絃は大鷺という、天才と比べられてしまうだろう若手を思った。

……すごく同情した。

「それで、家賃は」

「これくらいまで下げますよ」

「……え、こんなに……? ちょっと問題があるんじゃないですか?」

絃は見せられた値段の値下げ具合に、ドン引きした。

つまりそれ位家賃が下がっているわけだ。

「いえ、これから毎日、大鷺先輩のおいしい朝ごはんを、このマンションの皆さんが好きな時間に食べれるようになると思うと、これ位安くしてもおつりがとれるんですよ」

にやりと笑ったそれは、間違いなく宣伝効果を狙っている顔だった。

なるほど、確かに。


朝ごはんをきちんと食べたい人は多い。

だが作る時間も出かける時間もない。

そう言った人間は一定数以上存在し、潜在的に多いはずだ。

そこに、朝の時間ならいつでもおいしいご飯を提供してくれる(お金は家賃に含まれているので支払わない)近場があれば、それは相当なプラスになるだろう。

最近は朝活だの、朝ごはん活動だのが流行なのだから。

朝ごはん専門店などまで、あるのだから。

大鷺のご飯はまず間違いない。

そしてその評判がよければ、マンションに空きが出ない。

空きが出なければ儲けも増える……


と言った打算が存在するのだろう。

だが。

「奥さんがどうしても先輩の朝ごはんが食べたいとごねていましてね、叶えられて本当に良かった!」

「君も奥さん大好きだよね」

「五年たっても愛は冷めません!」

というやり取りをしている彼等が、微笑ましいと絃は思った。

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