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動く、動く、動く

ただいまと声をかければ、やはり大鷺は帰宅していないようだった。

別段あの男が帰宅しておらずとも、彼女の行う事は何も変わらない。

そのため息を一つ吐き出し、彼女は玄関の鍵をかけてチェーンをかけ、そして靴を脱いだ。

そこで緊張していた気分が緩み、本当に自宅に帰ってきたと認識するのだ。

今日は何にしよう、と絃は自分の家の冷蔵庫を開ける。

帰宅して一番に冷蔵庫を開けるのは、いかんせん長年の癖なので治らない。

そしてその癖はいい所もあるのだ。

大体、これがあったと思い出し、手を洗いうがいをし、仕事着を脱いだりする間に、本日の夕飯が決まるのだから。

そして開けた冷蔵庫の中には、何故か大きなハムが存在していた。

絃はまずそれを見なかった事にする。これはおそらく、大鷺の領域だ。

私はあの男のように、引っ越し前に食べ物を増やしてそれを綺麗にする、という技量はないのに何をするの、と文句の一つでも言いたくなる部分はある。

そして他人の冷蔵庫の面積をこんなに占める、いかにも高級なハムなんて入れないでほしいと心底思った。

使っていけない材料があるなんて、気分的によろしくないのだから。

ハムを無視して確認すれば、夏本番が近付く事もあり、ずいぶんと安くなった夏野菜がいくつもある。

「これでカレーかな」

絃は本日の夕飯、そして明日の夕飯、もしかしたら明後日の朝まであるかもしれないメニューを決めて、冷蔵庫を閉めた。

ワードローブを脱いだら、スウェットの上下に近い格好だ。もうかなり暑いため、これもそろそろタオル地のさらっとしたものにしよう。

絃はそんな事を思いつつ、割烹着を着る。汚れが目立つ白い割烹着が彼女のこだわりだ。

汚れが目立った方が、洗濯しようと思うのだ。清潔な物を着るならば、やはり汚れが目立つ物を選ぶと意外と、洗濯機に入れる回数が増える。

大体人目にさらすわけでもなし、醤油のシミにソースのシミ、油シミだってついていても大した問題じゃない。

そして袖のある衣類の方が、油がはねて飛んできた時にやけどを負いにくい。

ギャルソンエプロンなど、絃が料理の際に認めないものである。あんな防御面積の狭い物、料理には不向きだ。

あれはただのおしゃれだ、と絃はカフェなどで見るたびに内心で思ってしまう。

まあ、おしゃれだしポケットはついているから、軽い作業なら便利なはずだ。

ちょっとの汚れも防げるだろう。

……話がずれてきたようだ。絃は玉ねぎを丸々一つ使う事にし、皮をむいて根をとった。それからくし形に切って油を熱した鍋に放り込む。

飴色の玉ねぎ。という物は手間がかかって難しい。

そのため絃は、何かで聞いた事のあるほうったらかし戦法をとるのだ。

それは玉ねぎをある程度放っておき、焼き色が付いたら返す方法だ。

これで焦がすと本当に悲惨だが、何度もやっていれば大体のかんはつかめる。手も空くため、ほかの野菜を切っていく。なすもピーマンも最後に放り込まないと、色が変色して美味しそうに見えない。

もっと極論を言えば、焼いたそれらを米とともに盛り付け、最後にカレールーをかけるのが一番インスタなるものに映えるだろう。

面倒くさすぎてやっていられないが。

大体日ごろの食事をインスタグラムにのせて何になる。

知らない誰かに自分の食べた物の中身をいちいち見せて何がしたい。見た目がきれいだから味がいいとは限らないであろう。

おしゃれには犠牲がつきものである事と同じだ。

綺麗すぎる料理には、なにかしら悲しい現実があるはずだ。

野菜を切り、肉を切った絃は玉ねぎの具合を確認した。よし。

焼き色は焦げる一歩手前の飴色に似た色であり、絃はフライパンにやや形状が似た鍋をあおって玉ねぎを返した。

そして焼き色がその面にも付けば、豪快に肉を投入するのだ。

本日の肉は鶏肉一択である。夏野菜を中心にしたいので、肉は主張しすぎないものがいい。

さらに言ってしまえば、これから煮込むので神経質に火を通さない方がふっくらとした鶏肉になる。色が軽く変わったらカボチャを投入し、水を入れて煮込む。

お米は朝に焚いたものがあったはず、と絃は炊飯器を開けた。

開けて数秒後。

「あのばか……全部食べて行った……食べていくならせめて給水させていてよ……」

彼女は見事に米粒の一つもない、そして綺麗に洗われている中に呟いた。

流石に彼女も、土鍋で米を炊く時は三十分以上の給水が必要だと知っていた。

その間に、カレーが一度は冷めてしまう。

ナスもピーマンも入れるタイミングがつかめなくなってしまう。

どうするかな、と考えた時だった。

ぴんぽん、とインターホンが鳴ったのだ。

宅配だろうか、絃は頼んでいないが。他所の人が住所を間違えたのか。

などと思って備え付けの機械を見れば、そこには霧島が映っていた。

「水島、在宅か?」

彼の声はいつも通りであり、今日の昼に小曽戸の弁当を拒絶したようなそぶりは見受けられない。

そして、絃は彼に対しての警戒心がないので問いかける。

「いますよ、どうしました?」

「聞きたい事があったんだ」

「あ、鍵開けますから、中に入ってください」

危機意識がない、と言われればそれまでだ。

一人暮らしの女性が、家に男をあげる事の意味も知っている。

だが絃にとって霧島は、いい友人であり、すさまじい酔っ払いの状態の自分の相手をしてくれた人である。

警戒心の持ちようがないのだ。

何かされていたら、おそらくその理性のない時の方がやりやすいはずだから。

扉を開けた彼女は、霧島を中に入れて問いかけた。

「どうしましたか?」

「……要領がつかめなかったんだがな」

「霧島さんがですか」

「ああ、どうしてもわからないから、電話ではなく直接聞いた方が早いと思って来た」

霧島はいつ見てもほれぼれする瞳に、疑問を浮かべている。

「なぜ水島に弁当を頼んだのに、小曽戸が弁当を用意しているんだ? 何かあったのか?」

絃はこの質問のため、どうして電話ではないかを察した。

電話は相手の表情が読めない。そして行き違いがあった時に、表情がないという事だけで気付きにくくなるのだ。

お互いに不愉快な結果になる場合も、多い。

つまりこの人は、自分と不愉快な事になるのは嫌なのだ。

その程度には友情を持ってくれているのだ。

それがどこか歯がゆく、異性の友人の気遣いに感謝しつつ、何と言って返そうか悩んだ。

小曽戸の事を不愉快に思わせずに、説明がしたいのだ。

ありのままに起こった事を話すほど、絃も馬鹿ではなかったわけである。

しかし、黙った絃を見て何か察したのは、霧島の洞察力が優れていたからだろうか。

「何かあったのはわかった。何かあって小曽戸が持ってきたんだな。別段文句を言っているわけでもないから気にするな」

それでも隣の家のインターホンを鳴らす程度の行動力はあったのだろう……

営業の人が昼の活動のための栄養である。

かなり重要に違いない。きっとほかの人でも、自分と彼のようなやり取りをするのだろう。

そう考えると、彼に今日、味の濃い物を食べさせてしまった自分に対して嫌になる部分があった。

何やってるんだろう、彼の苦労を知ったから約束したのに、女性が怖くてそれを反故にして。

そこまで思い、絃は苦笑いをした。

「気にしているじゃないですか」

「お前が気にする事は何もない、という事を言っているだけだ。おおかた小曽戸あたりが作りたいと言ったんだろう」

「……わかってるなら家に来なくても」

「いいや、ある。これからの話をしようと思っているんだ」

「これから?」

絃は首を傾げ、あ、と思った。

コンロの火を止めるのを忘れていた、と。

「すみません、コンロの火を止めなくちゃ!」

絃は慌てて火を止めた。

鍋の匂いと切られた野菜を見て、彼が問いかける。

「カレーか何かでも、作るつもりだったか?」

「まあそうなんですけど、お米を炊くのを忘れていて」

「……精米された米自体はあるのか?」

「ありますけど……」

「深めのフライパンは」

「それもありますけれど……」

「安心しろ、ニ十分もあれば米が炊ける」

「は?」

絃は想像していなかった方向の言葉に、唖然として霧島を見た。

霧島は作りすら比べ物にならない、そんな唇を楽しそうに吊り上げてこう言った。

「日頃のお礼だ、米くらいはやろう」





「いや、そこは給水させるものでしょう!?」

絃は悲鳴を上げた。霧島はなんと、洗った米をそのままフライパンに入れるや否や、目分量もいい所の水を入れて蓋をし、火をつけたのだ。

それも強火だ。

「大丈夫だ。これが案外」

強火にして沸騰するまでも早く、彼は確認するや否や火を弱火にしてしまう。

「これで五分」

ポケットから流れるように、自分のスマホを取り出した彼は時間を確認する。

早すぎる。炊飯がこれでいいなんて聞いてない。

手順の色々な方面に言いたい事があるのだが、あまりにも理解の外側の事をされると人間、ツッコミも入らないのだ。

「水島、カレールー入れないのか?」

霧島が隣の鍋に問いかけたので、絃は引き出しからカレールーを取り出した。

そのままいつも通りに入れてしまい、冷蔵庫からガラムマサラの小瓶を取り出しているうちに、霧島がフライパンを確認していた。

何かうまくいったらしい。

そのまま最大火力にして十秒、火を止めて彼は、間違いないと言いたげに言った。

「これで十分すれば炊きたての白い飯だ」

「疑いたいわけじゃないんですけど……本当に炊けるんですか……」

「家に炊飯器はない」

違う、聞きたいのはそこじゃない、と思いつつも、絃はあきらめた。

家に炊飯器がないから、きっと彼は今見せた手順で米を炊くのだろう……たまには……

カレールーが溶けたので、ざっとナスやピーマンに火を通すつもりでそれらをカレーに投入し、絃はかぶりを振った。

彼もさすがに、食べられないご飯は作らないはずだ、と思う事にしたわけだった。




「まともに白いご飯ですね……」

「疑ってかかったのか?」

「普通給水はしますし、炊飯器のタイマーだって給水の時間は取っているものでしょう」

「米は洗った時にかなり給水するからな。そこを踏まえれば意外とこれで行けるものなんだ」

かちゃりかちゃりと食器の音がする。二つの向き合うカレー皿。というわけでもない。一人は丼だし、一人は小ぶりな耐熱ガラスのボウルだ。

視覚的にはどちらも、カレーを入れる容器ではない。

しかしどちらも気にしないで食べている。

理由は簡単だった。

「すみません、客人用の食器何て一そろいもなくて」

「一人暮らしの女にそんな物を毎回求めてどうする。しかしうまいカレーだな。玉ねぎが具としてちゃんとしている」

「大ぶりに切ってあるんですよ、それでぐちゃぐちゃ炒めないので、具っぽいんです」

「最後になにか振りかけただろう。香りが違う」

「知り合いが最後にガラムマサラ入れるだけでも、ずいぶん違うって言ったんですよ。味を濃くしたくない時に、香りだけ強くするのにちょうどいいんです」

そうだ。

米は無事に、白いご飯になったのだ。それも炊飯器より粒が立っていて、弾力があってカレールーがよくしみこみ、全体がまとまる。

ややとろみが少ないカレーは具の玉ねぎがこくりと甘く、最後にざっと火を通した程度のナスは形が崩れない物のとろりとした触感。ピーマンは独特の苦みがやや軽減されている物の、具として存在感のある歯ごたえに仕上がった。ピーマンの香りはカレーの香りに少し大人のような風味を加えるのだが、これもうまい。

食器の音の中、霧島が言う。

「俺はここを引き払うんだ」

「あー、ですよね、耐久年数の手紙のあれそれこれ」

「水島は大丈夫なのか。そんなに日数がないだろう」

「今必死に物件探しています。一つ見に行くんです」

「そうか。それもあってな、もう、弁当を作ってもらうわけにもいかないと思ってな。礼を言おうと思って」

短い間だったが、本当にいい物を食べさせてもらった、ありがとう。

彼の実に率直な言葉たちに、絃は顔が赤くなった。

いい物を食べさせてもらったなどと言われると、照れるのだ。さらに謙遜でも何もなく、そんな立派な物は作っていないと言いたくなる。

「水島の弁当がないと寂しいが、まあそんなものだ」

カレーを綺麗に食べてくれた彼が、笑うように言ったそれにたいして、絃は何も言えなかった。

いう言葉が思いつかなかったのだから。

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