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酔っ払いの歩調はそろって

「それじゃあ、また今度だ、水島」

彼は薄い笑みを唇に浮かべると、ひらりと手を振った。

「あれ」

まるでそこで分かれ道があるかの様だが、あいにく二人のすんでいるマンションはこのあたりではない。

どういう事なのだろう。

また何かの用事だろうか、と絃は問いかけようとするも、そんな事をして何になる、と思い直した。

夜の時間の過ごし方は人それぞれだし、そして日々の使い方も大違いなのだ。

彼は友達と言ってもいいかもしれない相手だが、それでも深く干渉すれば、お互いに不愉快になる思いだってあるのだ。

いい友達というのは、相手の踏み込みたくない場所に踏み込むときの空気の読み方がいいものだ。

それを間違えると、決定的な亀裂になって、友達を幾人も失うことだってある。

絃はそれをなんとなくわかっていたので、霧島がここで一人どこかに行こうとするのを止める事はしなかった。

ただ言った。

「また、今度ですね、霧島さん」

次長から出世するつもりのないらしい男。

そうだというのに、仕事は恐ろしくできる人であり、真面目なのか何なのか、朝一番に出社する。

そして薄味の料理が好きで、お酒にすこぶる弱い。

絃はそれだけ知っていれば、十分なのかもしれないな、と一人納得して踵を返そうとした。

だが。

「待て水島」

霧島は、不意に彼女を呼び止めた。何なのだろう。

足を止めた彼女に、彼が言う。

「……」

待てと言った後に、何か言うつもりだったのに、いう事を忘れてしまった。もしくは言いたくない事だと気が付いた。

そんな顔をした彼は、口を軽く開いた後に閉じて、また笑う。

笑って誤魔化すのか、と変な所で社会人臭さを見せた男に、絃は言う。

「忘れ物ですか」

「……そうだな」

霧島は彼女の言葉にうなずき、こう言った。

「大きな忘れ物をした」

そう言った男は彼女の腕をとり、けっして強い力ではない、いつでも相手が振り解ける程度の力加減でそっと握り、言う。

「危ない目に会わせたくない物を、忘れてしまっていたらしい」

それは何の事だろう、としらばっくれられるほど、絃は空気の読めない人間ではなかった。

こうして手を掴まれている時点で、その対象が自分である可能性もある、程度には認識ができたのだ。

「危ない事ですか」

「そうだ。どこに馬鹿がいるかわからないし、痴漢がいるかもわからないのだし、人生どこで何が起きるかなんて誰もわからない」

「はあ」

「だから、大事な相手は守れるだけの近くにいてもらうか、守らなくてもいいほど遠くにいてもらうに限るんだが」

「話題が一気に重くなりましたね。酔っぱらった人間のたわごとですか」

「かもしれない、さっきから言うはずではない事をぼろぼろとしゃべっている」

そう言った霧島は、じゃれるように彼女に寄りかかった。

彼はそうして近寄ると、強く酒の匂いがしていて、呆れてしまう物だった。

酒に弱い人が、こんな匂いがするほど飲めばそりゃあ、頭のネジがゆるむだろう。

これは、自分が危険なのではなく、霧島が危険なのだと思ってしまうほどである。

つまり大変なくらい、彼は酔っぱらっていたのだ。

たとえ絃が軽く飲んでいた程度の量でも、彼にとっては泥酔一歩手前なのかもしれない。

「霧島さん」

「なんだ」

「私よりもあなたの方が危ないですよ。ふらふらしすぎて、判断力がそこまで鈍っているんだったら、たぶん信号間違って事故起こします」

「それはこわい」

「……」

絃はしょうがないな、と溜息を吐いた。普段ならばここで捨ておくべきと、思ったかもしれないのだが、彼は自分の友達なのだ。

そしてなんだか見捨てらてないし、放っておくのも気分が悪いし、なにしろ家は隣同士、道まで同じ。

絃はひょいと、手慣れた仕草で彼の腕を自分の肩にかけた。

ありがたい事に、女性としては十分に長身な彼女は、男性として均一のとれた姿の霧島と肩を組んでもたいして、バランスを崩さない。

「私が送りますよ。家は隣ですし、引きずって行ってあげます」

「そんなつもりじゃなかったんだが」

「いいんですよ、たまには。あなたに恩を売っておくのも悪くないかもしれません」

珍しくふざけてみた彼女に、霧島は声を立てて笑った。

それは、声をあげて笑う事を初めて知った、子供のようなあどけない笑い声だった。

その声に、知らず知らず、どきりと胸が鳴る音を、絃は聞いたような気がしていた。

「いざとなれば、兄を呼びますし」

「あに」

「女性に振られて泣きながら家に飛び込んできた、あなたよりもはるかにトリッキーな兄ですよ。もしもあなたの家にあなたと一緒に入るのが危険な場合は、兄が帰ってきているでしょうから、兄にあなたを移動させてもらいます」

「それはとてもいい提案だ」

霧島は頷き、また少し絃との距離を近づけた。

「水島は、本当に安心してもいい相手で、助かるな」

「私も霧島さんが、安心していられる人間でいて、助かりますよ」

なんとなくお互いにそろって笑ってしまった二人は、傍から見れば酔っ払い同士の楽天的な笑い方をしていた。





結果なのだが、絃は霧島を無事に家まで送り届けた。幸い電車では一駅程度の距離であり、霧島の神がかった美貌が酒の力でさらに増加したのか何なのか、恐れ多くて女性たちは近寄れなかったらしい。

非常に面倒事のない帰宅であり、絃は霧島がふらふらとしながらも自力で家の鍵を開けて入って行くのを見送った。

そして。

「明日のお弁当何にしよう」

冷房の効きすぎるオフィスにちょうどいい、温かいスープの中身を考え始めていた。

家の中に入れば、やはり先に帰宅していた兄が、勝手に敷いた布団に寝転がり、くすくすと深夜ラジオを聞きながら笑っている。

「あまり近所迷惑になる音量で、笑わないでよ」

「うん」

「あと、さっさと出て行ってよ。ここ一人暮らしとして契約したんだから、あなたがいると契約違反になって追い出されるかもしれないんだから」

「そうだそれで何だけど、なんか手紙来てたよ」

「は?」

イヤホンをつけたまま、ひょいとちゃぶ台を指さした兄の方を見れば、不動産会社の名前の入った封筒が置かれている。

このマンションは不動産会社の持っている物件なのだ。

一体何の用事だろうか、急ぎだろうか。

そんな事を思って絃は、その封筒を開けた。

そして呟いた。

「あ」

奇しくもそれは、隣でとある男が呟いた言葉と同じ言葉であった。




それは、この物件の耐震年数が過ぎているために新しく立て直す事、そして立ち退いてほしい事が書かれている文章であった。

ちなみに。




「これ、何か月か前にも来てたかもしれない」

年末かなにかの、目の回るような忙しさの中で来た文書であったために、絃もすっかりその事を忘れていたのだ。

そして立ち退きまでの日数は、のんびりしている暇のない程度の日日しか存在していなかった。

「うわ、どうしよう」

絃は自分のあまりのうっかり具合に頭を抱えそうになりながら、ちらりと兄を見やった。

これを言えばすぐさま、この兄が二人で暮らす物件を探すと鼻歌を歌いだしかねない。

それくらいやるだろうし、物件だって絃がとても家賃を支払えない所を探してしまうだろう。

そんな、彼女とは天と地ほどの差があるお給料事情の兄は色々、彼女のラインを飛び越えてしまっている。

うん、どうしよう。

「あ、立ち退き。耐久年数過ぎてたの、あるあるだね、この物件の築年数考えてみたら、ちょうどもろさが問題になってる年だしね」

しかし内心であわてていた彼女は、真後ろから手紙を覗き込まれていた事に気付くのが遅れた。

そして中身を読まれて、からからとした朗らかな調子で言われてしまい、腹が立ったので頭を叩いて告げる。

「いきなり背中に回らないで」

「あ、ごめんごめん」

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