その発言には驚かされます。
そこは本当に隠れ家の様で、ぱっと見どころか二度見三度見をしても、ただの住宅である。
しかし絃は、ここが実においしいモツの煮込みを食べさせてくれる場所だと知っていた。
ここの煮込みの歯ごたえは本当に絶妙で、こてこてと煮込まれた内臓の、プリッとした歯答えと同時に口の中が蕩けそうな脂は、絶品なのだ。
それを真っ白なご飯にたんまりと乗せて、豪快にかっくらうあたりは、安いながらも贅沢だと思う瞬間だ。
そしてそれに、生ビールのキンキンに冷えたものが出てくれば、言う事はない。
そんなお店の、卵焼きも甘くておいしいのだ。
「水島、ここは住宅だろう、何処か知り合いの家に邪魔するのか」
霧島がそんな事を言い、彼女が扉を開けようとするのを止めた。
それに彼女は首を振った。
それから、自分もこの人をちゃんとまっすぐに見られるようになったのだなあ、と一体何度目かわからない事を思いながら、答える。
「いいえ、ここはお店なんです、見た目住宅ですけれど。ちょっとはやった、自宅の一部を改装して店にしてしまった系統の店ですよ」
「そうなのか? 新しい家のようだが」
確かに、この住宅はとても新しい。真新しいと言っていいほどで、最近の造りと外壁だ。
とても店をやっているようには思えないだろう。
「それは、以前の店が隣の店のぼやで全焼して、こちらに店も移したからですよ」
絃はその時代から知っている。
疲れて夕飯を作るのが面倒くさいのに、とても苛々としていた時に、ふっと目に留まった店が移転する前のこの店で、ここのたまらないモツ煮込みの匂いに、居酒屋に一人で入る事をためらっていた新米社会人は釣られたのだ。
そして今まで至っているわけなのだが。
美貌の男に説明するなかで、絃はふと不安に駆られた。
霧島は薄味が好みだ。
とてもおいしい煮込みだが、ここのモツは少し味が濃い目なのだ。
「連れて来てはいけない場所だったかもしれない」
絃は小さく呟き、彼を見やった。
「霧島さん、すみません」
「いきなり何を謝るんだ」
「ここの店の味付け、もしかしなくても、霧島さんには味が濃いかもしれません」
「だが、お前がうまいと思ったんだろう?」
霧島は、それの何が問題だ、と言わんばかりに、おかしなことを聞いてきた。
絃が怪訝に思いながらうなずけば、霧島が続ける。
「お前の味覚は信用しているんだ。なにせいつでも飯がうまい」
手放しの信用、とはこの事だ、と絃が思うほどの信用だった。味覚に対する信用。
「だから俺はいま、とても浮足立っているんだ。外でうまい物を食べられるなんぞ、滅多にないからな」
にいと、下弦の月を思わせるきらめきの唇の吊り上げ方を見せた霧島は、曇りの空の下でも、飛び切りの光を放っていた。
そのため、絃は少し目を左右にやってからこう言った。
「味が濃いという文句は、あまりしないでください。でも、味が濃いのが嫌でしたら、女将さんが、薄味の物も出してくれるかもしれません」
「それはとても楽しみだ」
早く入るぞ、ここはどう声をかけるんだ、といった霧島の言葉に、絃はならいいかと思い直し、住宅の二つある扉の、若干日本風の方をからりと引いて声をかけた。
「こんにちは、また来ました、今度は連れがいます」
「あら、水島さん、何日ぶりかしら! あなたがご飯にこなくて、ずっと寂しかったって皆言っていたわよ。……まあ! なんて素敵な男の人かしら、きれいな男の人っている物なのね!」
彼女の言葉に、顔をこちらに向けた女将が、きれいな色の和服でこちらを見る。季節からして先取りの羅だろうか、と絃はない知識を絞って考えた。
そんな素敵な着物の女将の向こう側では、常連の見知った男たちが酒を飲み、モツを食べ、にぎやかににぎやかにしている。
と言ってもはた迷惑な喧噪ではなく、楽しい空気にあふれた活気のある感じだった。
「よう! お仲間が二人入ったぞ!」
「そっちの姉ちゃんはいつも生ビールだよな!」
「おー、えらい別嬪な男が来てるな! 男に別嬪なんておかしいか?」
彼等は豪快に笑う。かなり出来上がっているらしいと思いながらも、絃は背後の男が気を悪くしないか、と気になった。
だが霧島は少し目を見張るばかりで、気分を害した様子はなかった。
「二人ともそっちに座ってちょうだいな」
にこにことした女将が言いながら、お通しだろう小鉢を用意し始めている。
そんな中、常連客が隣にあったビールサーバーから、キンキンに冷えているだろう、すぐさま表面が結露したジョッキを二つ、絃と霧島の席に押しやった。
「まずは生だ!」
絃は苦笑いをした後に、霧島を見やった。
「ビール飲めます?」
「……一杯くらいならいけるかもしれん。酔いつぶれたら付き合ってくれるな」
「肩くらいは貸しますよ」
「ならば安心して飲もう」
霧島は、常連客達の押し付けるようなそれを、嫌だと思っていないようだ。
こんな好みの難しい人が、押し付けられた酒を飲むなんて、と絃は意外な思いにとらわれながらも、自分は温くなったらまずい、という事からすぐさま、ビールに口をつけた。
「ぷふぁあ! やっぱりここの生ビール冷えまくっていておいしい!」
一気に半分近く流し込んだ絃は、つい機嫌がよくなりそう漏らす。
「……」
霧島はそんな風に飲めば、酔いが一気に回ると思っているのだろう。
自分は手を着けないのに、絃の飲みっぷりに少し目を細めていた。
「旨そうに飲むな」
「エールは生ぬるくてもおいしいですけど、ビールは冷えてなんぼの味ですからね! 温まったビール何て炭酸も抜けて、正直に言って飲めたものじゃありませんよ」
このつめたーい炭酸に、苦い味がたまらないのだと続けた彼女に、男が笑った。
「炭酸が抜けたものは、大体味がぼやけるからな」
楽しそうに笑う物だ。楽しい事は何もしていないのに、この人がめったに見せない笑顔で笑ている。
彼女はその笑顔に心臓のあたりがうるさくなりながらも、女将がくすくすと笑いながら差し出してきたお通しの数々を、霧島に勧めた。
「霧島さんも食べましょう」
「……居酒屋というのは、ここまで品数が多いお通しなのか?」
「ここは別件ですよ、女将さんの気前がいいんです」
ポテトサラダに冷ややっこに枝豆に、鶏のから揚げに根菜の甘酢づけ、きんぴらごぼうにヒジキの煮物、それからわさび醤油の添えられたかまぼこ。
酒の肴としてはとてもうれしい品物が、軽く見積もって三人分も用意された。
「代金は……」
「ここ、お通しの代金はあれなんです」
絃はひょいと店の上のメニュー表を指さした。
お通し盛り合わせ、の値段だが。
「……これはかなり安くないか? 相場なんて知らないが」
「やっすいですよ。でもここ女将さんが、続けたくてたまらなくてやっている、一代限りのお店だからいいんだそうです」
あと、女将さんの気前がいいんです、と断言すれば、常連たちに日本酒を注いでいた女将が噴出した。
「あなたは心底、かわいい子だわ。娘だったら可愛がっちゃう」
「わかるなー、この子可愛いもんなー」
常連たちが同意した辺りで、霧島がにやりと笑った。
笑ってからさらりと、こう言った。
「いやだ、あんたらにはやらない」