楽しく真剣なお料理の時間
さて何を作ろう、と絃はもう一度冷蔵庫の中を開けてみた、ちゃんと料理をふるまって見せる、と決めていたので下準備まで見せるのが義理だろう、と米を吸水させるくらいしか手を付けていない。
小曽戸は絃が冷蔵庫の中を見ている間、うわすご、といいながら感心していた。
「この家、なんだかとても住む人の感覚が目立つわね、これ水島さんの趣味じゃないでしょ、この謎の熊の置物とか。これなに?」
「兄が北海道土産として買って来た、マキリとかいう刃物」
「お兄さん銃刀法をどうやってかいくぐったの」
「包丁として使うって言って、実際大きい魚の内臓を掻きだす時に使ってる」
「ああ、そう……実用品なんだ、これ……」
てっきり博物館の世界かと思った、という小曽戸だが。
「兄は変な所で変な物をどんどんジャンジャン仕入れてきますからね、色々規格外」
「規格外なんだ」
「いったいどこの馬鹿が、中東に渡ってそこで遊牧民の使うソファをもらってきて、家を埋め尽くしますか」
「え、ここにはないじゃない」
「兄の部屋の一角を埋めてますよ」
「うわー」
「そして兄はそこで昼寝をするのが大のお気に入りという」
魚がある、何がいいだろう、照り焼き、タツタ、それともシンプルな塩焼き、煮物もいいだろう」
これは何にしようか、生ハムもある、というか大鷺が数日前にもらって来た、謎の肉の塊もある。鹿肉、とでかでか付箋が貼られてアルミホイルに包まれている。何故アルミホイル。
冷蔵庫を閉じて考え出した彼女だったが。
「うわ、キッチンひろーい!」
小曽戸が対面式のそこに足を踏み入れて、歓声を上げたのが先だった。
「うわ、すごくきれいにしてある! 水島さん綺麗にしておくタイプ?」
「厨房は兄の領域で、自宅のキッチンは私の世界っていう風に住み分けしてるんですよ」
「へえ、へえ!」
小曽戸は目をきらきらさせている。
おそらく、使い込まれた調理器具とか、すり減っても愛用されている木べらとか、色々あるのだろう。
「こんなものまであるの? こんな中国のせいろとか初めて見た!実物は!」
「それは兄の愛用品ですよ、冬になると肉まんとあんまんを大量生産するんです。で、ラップに包んで冷凍庫を埋め尽くす」
「お兄さん何でもできるの?」
「あれが何でもかはわからないですよ、日本料理は平均レベルって本人が言ってましたし。イタリアンは一流って断言してましたけどね」
「イタリアンは一流って……どこかにおつとめしてたの?」
絃がそのホテルの名前を言えば、小曽戸が眼を剥いた。気持ちはわかる。そこは予約が取れないイタリアンということでもかなり知られた店なのだから。ホテルの中で、ハイソサエティの人々がこぞって食べたがる料理でもある。
大概大鷺の料理なのだが。
「お兄さん職業料理人なんだ……てっきり話を聞く限りだと主夫してたのかと」
「転がり込んだ女性の家では、主夫もしてたらしいですよ、結構ツッコミが必要ですね」
しれっという絃も、大鷺に関してだけは遠慮がなかった。
「どんなもの食べたいです? 和風と洋風だったら」
「え、リクエストしたものやってくれるの?」
「作り方を知っていれば」
「うーん! 何にしようかな」
小曽戸が期待に目を輝かせたときだった。
「鯵南蛮!」
高らかな男性の声が、扉の方から響き、絃が小曽戸から目をそちらに向けると、そこには。
見事にしなやかな筋肉に覆われた、そんな男が立っていた。
「絃ちゃん、鯵南蛮! 鯵南蛮! 絃ちゃんの鯵南蛮飛び切りだもの!」
小曽戸がかなりびっくりした顔でそちらを見て、きゃあ、と悲鳴を上げた。その瞬間、絃は相手に壊れたキッチンタイマーを投げつけた。
壊れても、一人暮らし最初の記念品として捨てられなかったものだ。愛着はあったが容赦はしない。
そしてそれを額にもろに食らった男が、悲鳴を上げる間、絃は断言した。
「全裸で来るな、この非常識人間! いくら暑いからってなにそれ、見苦しい」
「シャワー浴びて、ちょっと水でも飲もうと思ったら、素敵な話が聞こえてきたからいてもたってもいられなくて」
突き出された長めのタオルを腰に巻いた男が、笑顔で言う。いたいなあ、とちょっと笑いながら。
これだから大鷺は、と絃は溜息をつき、言う。
「水って水道水」
「この前試験品の浄水器設置したんだよねー。一般家庭用だから、こっちにつけるしかなくってさあ。その味見」
「道理で変な機械が増えていると思えば……」
大鷺は味覚が一級品で、狂わない。そのためそういう試験品を送られてくるのも、絃からすれば違和感がなかった。
「つかうよー」
大鷺は小曽戸を気にせず、浄水器から水を汲みがぶがぶと飲んで、一息ついてから、気付いたらしい。
「え、そのかわいこちゃん誰」
「気付くのおそ!」
「あ、えっと、えっと!?」
小曽戸もその大鷺をちゃんと見て、顔を赤らめて挙動不審になっている。
そりゃそうだ。絃がよく目抜きにしても、大鷺は姿がいいのだし、体もしなやかで見事だ。
世界各国を歩き回るために、鍛え上げた肉体は見事だ。
物騒な国でも、大鷺の体力がものを言い、スリに肉薄しトラウマを植え付けた事もあったとか。
「あの、ドナタデスカ……?」
「あ、絃ちゃんのお兄ちゃんだよ。大鷺」
「え、名字が違う……?」
「これ、死んじゃったお嫁さんの名字なの。婿入りしたんだけど、先立たれちゃってさ」
大鷺が一瞬視線を下げる。悲しげな瞳は一瞬で、次は朗らかな色に変わったのだ。
「ねえねえ、きみの名前は? 絃ちゃんの数少ないお友達?」
「会社のもと同僚で、友達の小曽戸です」
「小曽戸ちゃんか! 初めまして、よろしくね! というわけで絃ちゃん、鯵南蛮!」
「話の流れをぶった切るな」
絃は大鷺の頭を叩き、小曽戸に聞いた。
「鯵の南蛮漬けは食べられます?」
「嫌いじゃないけれど……暑いからさっぱりして美味しいかも」
じゃあそれにしよう、そうしなければ大鷺がぴいぴいと喚き続けるに違いなかったから。
「絃ちゃん、魚の引き出しに鯵いっぱいあるから、どんどん使ってね、昨日矢田部が釣りの成果持ってきたんだ」
「矢田部?」
「漁業関係の学校にいる、ここの高校生」
「あー」
大鷺の知り合いは幅が広いし、このマンションの住人なら納得だ。
絃は深く考えないようにして、冷蔵庫の魚用の引き出しを開けた。確かに見事な鯵である。
ぜいごをとって頭を落して腹を割いて、内臓を取り出し三枚におろして……
「うわ、水島さんの手つきが鮮やかすぎて熟練感がすごい」
「絃ちゃんと競争して、どっちが上手に三枚おろしができるかって中学のころ勝負したんだよー」
「え、水島さんってその頃から料理上手だったんですか」
「最初は僕が先に料理とかしてたら、一緒にやりたがって二人で食堂に立って、中二の頃はもううちのおさんどん、僕らだったから父さんと母さん大助かりだったらしい、ちょうど農業系の仕事山場だったし」
「色々聞きたいです、あの、あなたのお話も、でも水島さんの作業も見たい」
「じゃあ食べる時でいいでしょ」
「いいんですか!」
「いいのいいの、家の絃ちゃん自慢聞いてくれるなんて素敵だね」
なんて会話を聞きつつ、絃は毛抜きで骨まで抜いていた。抜いてあった方が食べやすいのだ。手際よく指で骨の位置を探り、しっかり方向を間違えないで引き抜く。
ここで骨を抜く方法を間違えると、身が裂けて見た目がよろしくないのだ。
何匹も骨を抜く、時間はそんなにかからない。慣れているので。
大鷺はもっと早いのだ。透視できてるんじゃないかと思う速度で、骨の位置を見つけるのだから。
そして少し切り分け、軽く塩コショウ、それから片栗粉をシリコンはけでさっと塗るあいだに、中華鍋に油を注いで熱しておく。
油が適温になるまでに、米酢とちょっとコクを出す黒酢、砂糖、しょうゆ、味がぼけないように塩も適量を混ぜておく。
味見も忘れない。
油の温度をきっちり確認し、味をじゃんじゃん投入。中華鍋だと面積が広くて、揚げ物同士がくっつきにくい。
ここからが勝負、と絃は網じゃくし片手に鯵を見る。火が通ったか通らないかを見極めて、通ったぎりぎりですくいだすのだ。
余熱で火が通って、ぱさぱさの味にならないように。
油ぎりの網をのせたバットにそれらを乗せて、玉ねぎを刻む。縦の繊維にあわせて、歯ごたえが残るようにうすぎり。
あんまり水にさらすと味が抜けすぎて、なんか味のない食感だけになる玉ねぎは、本当に軽く、ためた水にぼちゃんで水を切る。ボウル二つを重ねて球にして、水が跳ね過ぎない程度に振れば、結構しっかり水が切れる。
ここで水を切らなければ、調味料の味が薄くなりすぎておいしくないのだ。
玉ねぎ、鯵、それから鷹の爪を種を取って千切り、ボウルに放り込んだのちに、絃は調味液を軽く煮立たせて一気に注いだ。
砂糖を溶かすためである。煮過ぎると酢の酸味が飛び過ぎて、南蛮のいい味にならないので注意深いのは事実だが。
そしてあとは、粗熱をとって冷やすのみ。
そこまでやっていると、カウンターの向こうの二人が言葉も発さない事に、気付いた。
大鷺はにこにこしているし、小曽戸は真剣な顔だ。
「あの?」
「水島さん、すごく手慣れててすごい! 全部の作業が流れてるみたいで、本物の料理人みたい!」
「いや、そこまですごくないと思う」
「絃ちゃんは仲のいい人のために、美味しいご飯を作ってくれるんだよ」
大鷺が何とも言いにくい事を言い、さて、という。
「絃ちゃん、今日の炊飯どうする? 鍋と炊飯器と」
「鍋一択。鯵南蛮で炊飯器は嫌」
「冷える時間と蒸らす時間でちょうどいい味になる目安だもんね、言うと思った」




