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美形が五割増しで輝きました。

絃は機嫌が良くなった状態で、いささか暑い外から社内へと戻った。

とたんに効き過ぎた冷房が肌を刺した。やはりカーディガンは持ってこなければいけない。

しかし今日は、ずいぶんと冷房の利きがいいらしい。

外から戻ってきたからか。

ぶるりと反射的に体が震えた。

今日はカーディガンを持ってきていないから、更衣室に戻って紫外線防止のパーカーを持ってこよう。

そう決めてから時間を確認し、絃は社員証を通してエレベーターに入った。

何も深く考えずに、階数を示すランプを見ていた時だ。

ちくりと首筋に何かが刺さったような気がした。

一瞬視線だけを、背後にやりながら手を当てる。

蚊だろうか。

この季節だもの、蚊の一匹や二匹はいるものだ。

後で首のあたりを確認し、赤くなっていないか見よう。

どうにも蚊に刺されると、腫れるのではなく痛々しい赤色になる絃はそう思った。

ちん、と総務課のある階についた。絃のつとめる会社は大きく自社ビルを持っているのだ。

そのためいくつかの課は階も違う。営業と総務などかなり遠い。

ゆえに霧島が総務課を目指すとなったら、かなりの人間に目撃されてしまうわけだが。

「すみません、出ます」

周囲に軽く声をかけて、少しだけ押しのけてエレベーターを出る。

密閉されたいささか汗くさい空間を脱し、課に戻る前にパーカーの事を思い出す。

「いけない」

彼女の席は運悪く、空調の風が直撃するのだ。

ただでさえ寒い気がするのに、風が汗ばんだ体にどんどん冷風が当たればもはや、肌寒いなんて物ではない。

ちょっと体調を崩していたらあっという間に、風邪っぴきである。

あわてて総務課よりも化粧室に近い、更衣室に入るとなにやら、お通夜のような湿っぽい空気が感じられた。

なんなのだろう。

気になった彼女だが、それよりもパーカーを取る方を優先したのは、泣いている誰かの周囲に、その誰かを慰める人が何人もいたため、自分まで慰めなくても問題ないだろうと判断した。

そしてロッカーの中から目的の物を取り出し、早急に立ち去ろうとした。

自分の場合は、泣いている所を見られるなど、言語道断だった。

たとえどんなに泣いた所で、自分を痛めつけたい相手は容赦などしないし、それが効果的だと気付かれれば傷をえぐるために、それを過剰に繰り返すものだ。

人前で泣けるのは、守ってもらえると信じている環境でなければならない。

味方がいると意識的にしろ、無意識的にもわかっていなければ。

泣けやしない物だと経験的に知っているので、見なかった事聞かなかった事が、気遣いの一種だとも考えていた。

流石に知り合いが一人きりで泣いていたら……もし友達のカテゴリの相手だったならば、声をかけたりもするけれども。

あいにくなのかなんなのか、自分は友達とカテゴリできる相手が霧島位だ。

後は親しい同僚がギリギリだろうか。

そんな小さく狭い交友関係なので、声をかける相手などいない物だった。

急いで課に戻り、あと半分まで終わらせたデータを仕上げなければ。

多分明日はその他もろもろ雑事が、山と押し寄せてくるだろう。

電話の受け答えも多そうだ。

そんな風にその時は、あわただしく更衣室を出た。

後からやってくる面倒事など、全く予測できなかったのだから。




「つか、れた」

絃はデータの最後を保存し終わり、ぐったりとデスクに突っ伏しかけた。

データをやりながら電話対応をしそれから、怒涛の事務である。途中で経理関連のデータも追加され、備品等の発注も積み上がり、なんだか周りが混とんとしてきた辺りまでは、かろうじて覚えている。

電話対応の中身も覚えている、大丈夫、と頭の中身を確認する。

下手な対応はクレームの原因だ。

慣れないうちは何度、上を呼べと怒鳴り散らされた事か。

泣きそうになりながらも、滅多に見せない意地を発揮して泣かず、上司たちに対応してもらった事もしばしばあった。

何事も経験だと、教育係だった現課長に言われた事は今でも胸にしみている。

とにかく今日は、月末ではない事もあり、様々な書類の処理も切羽詰まっていない。

デスマーチはないだろう。周りを見ればちらほらと、仕事を終えた人が帰る準備をしていた。

ちらっと壁掛け時計を確認すれば、結構な時間である。

仕事も終わった、帰ろう。

絃はそう決意し、立ち上がろうとした。

その時だ。

「……あああああっ!!!」

絃は引きつった声を上げた。

滅多に叫ばない、大人しいと思われている彼女の大声に、周囲が振り返る。

「どうした水島」

「データが……データが……」

声をかけてきた課長がやってくる。

「データがどうした」

「明後日納期のデータを保存している途中で……」

絃は課長を見て、半ば叫ぶように言った。

「パソコンが落ちました!」

「なにぃ!?」

課長が慌ててそれを確認する。

パソコンはブラックアウトし、うんともすんとも言わない。

「おいおいちょっと待て、壊れたのか? そうなのか? おい待ってくれ!」

絃も画面を覗き込み、いくつか復旧作業になりそうな操作をする。

そうすると遅れながらも、画面が戻ってきた。しかしデータは戻ってこない。

中にバックアップされていた、途中までのデータしか出てこなかった。

「何がいけなかったんでしょう」

色々な仕事をしながらも、半日かけて終わらせたデータが消えたショックに座り込みそうになりながら、課長と顔を見合わせた。

「あれだ、お前幾つも画面展開してやってただろ、たぶんそれでパソコンが負荷に耐え切れなかったんだ」

「……」

「いや、お前にやらせ過ぎたのもいけない。総務のパソコンの半分が交換時期って言ってたのを忘れて、一点に負荷をかけさせすぎた俺も悪い」

課長が謝る事ではない気もする。

しかし仕事の采配をうまくやれなかったというなら、課長もミスである。

そして、ブースターのついたままに、画面をいくつも展開して老朽化したパソコンを酷使した自分にも責任がある。

絃は数瞬黙ってから決意を込めて、顔を上げた。

「会社閉まって警備員の人に追い出されるまで、データ入力します。消えたのこれだけなんで」

「でも水島」

「明日、このデータもやる方が大変です、納期明後日の朝でしたよね、明日の正午までに仕上げておかないとまずいデータじゃないですか」

「……やってくれるのか?」

課長が問いかけてきたので、彼女は真顔で頷いた。

「皆さんに迷惑をかけるわけには、いかないので」

本当は自己嫌悪で穴を掘って埋まりたかったが、精神的にもそれをやっている余裕はない。

期限は迫りまくっていたのだから。

「……そうか、じゃあ、これだけやってくれ。データは途中まで戻ってきたから、最初からよりはましだろうが」

「はい」

絃は頷き、もう一度パソコンの前に座った。

目薬を差して気合いを入れなおし、彼女は息を吸い込んでキーボードを滑らかに叩き始めた。

データは一つきりなので、画面はそんなに多重展開せずともいい。

そのためおいぼれなパソコンも、そこまで止まったりしない。

しかしデータの量は半端ではなかった。

二度目という事で心が折れそうな彼女に、不意に声がかかった。

「水島? 何をしている?」

はっと振り返れば、そこにはなぜか霧島が立っていた。

彼は営業から戻ってきたのだろうか。直帰ではなく。

何か急いで会社に渡さなければいけない物が、あったのだろうかとちらっと思った絃は、慌てて画面に向き直った。

何とか終わらせなければいけない。

それも警備員に急かされる前にだ。

周囲を見回せば、誰もいないオフィスである。ブラインドの向こうは暗い。

「データが飛びまして」

「……どういうふうにだ」

「こういう風にです」

絃はざっと、分かりやすいように説明をした。

霧島はそれを聞き、不意に彼女の背後から手を伸ばした。

「ちょっと貸せ」

言って彼が、なんだか滑らかにキーボードを操作したりマウスをいじったりし始めた。

なんだか良く分からないが、ハードディスク内の何かをいじっているらしい。

「これでこうで……こういじれば、それ」

彼は小さく呟きながらいじっているも、絃の方は彼の上半身と後頭部が密着しているので、なんだか落ち着かない。

内心でわたわたする部分があったのだが、いつの間にか霧島は動きを止めていた。

「これを確認してくれ、たぶんデータを復元させた」

「え……ええっ?!」

絃は慌てて霧島の戻したデータを確認した。

見た所、全て復元されている。

「すごい……」

「前にいた会社のパソコンが、とんでもないおいぼれでな、データの復元は得意なんだ」

少しばかり得意げに笑う霧島が、やけにきらきらとして見えてきて、絃は言う。

「ありがとうございます、本当にありがとうございます、助かりました、何時になるかわからなくて」

「見た限りあの量だからな。さっさと確認して帰るぞ」

霧島のどこか自分勝手のようにも聞こえる、そんな発言もなんだかうれしくなり、絃はデータを鵜の目鷹の目で確認した。

そして安堵の息をついた。

「全部大丈夫でした……」

今度こそ、データをきちんと保存する。バックアップのメモリーもばっちりだ。

それを指定の場所に転送し、絃は背筋を伸ばした。

首がこっているらしくばきばきで、軽く音を立てている。

霧島は絃の脇の、滝田のデスクに寄りかかり、彼女の作業が終わるのを待っていた。

「終わったか」

「はい」

いつにない満面の笑みで彼女が返事を返すと、彼が頷く。

「帰るぞ、すぐに帰るぞ、俺は昼もまともに食べていない」

「それでしたら、隠れ家的な料理屋を知ってますよ」

「……お前の飯くらいか」

「たぶんわたしよりもおいしいですよ」

彼女の返答に、彼が期待するように目を輝かせた。

「案内しろ」

「はい。あ、お礼におごりますか」

「料金によるな」

「懐が寂しい時でも、温かく迎えてくれる場所です」

軽口が投げ合わされ、二人は社を出た。

「今日は星も出ていない曇り空だな」

出た霧島が呟き、夜中は雨か、とひとりごちた。

「空気の匂いからして、夜中にざーっと降って、おしまいですよ。朝はカラッと晴れます」

隣の返事に、男が噴出して笑った。


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